内容紹介
「日本のプリンシプル」の虚言と我欲に塗れた実像
誰がどんな思惑で、このウソツキ野郎を礼讃するのか
鬼塚ノンフィクションが暴く、昭和の闇
白洲次郎が彼の死後にどうして復権してきたのか。それは、不利益な歴史を消去し、一般大衆を洗脳し、自分たちに都合のよい歴史を創作しようとする不埒な連中がいるからである。(本書第三章より)
白洲次郎がなぜ、今の時代にもてはやされるのか。私たち日本人が失ってしまったものを彼が持っていたという情報が与えられ、それが真実味を帯びているからに他ならない。では、それは本当に真実なのか。この本の中で、白洲次郎の真実とされている諸々の既成事実の奥に潜む仮面を、一枚一枚と剥がしていく。読まれる方は「まさか! 」と思われるかもしれない。読者には、白洲次郎なる人物を通して、日本の知られざる現代史を知ってほしいと、私は心から願っている。(本書「序として」より)
[目次]
[はじめに]白洲次郎とはいったい何者なのか
[第一章]白洲次郎の不思議な青春
[第二章]ジャーディン・マセソンに狙われ続けた日本
[第三章]ヨハンセン・グループと白洲次郎
[第四章]虚言に飾られた白洲次郎の人生
[第五章]新憲法制定と公職追放での白洲次郎
[第六章]白洲次郎のダーティーな金脈
[第七章]売国者ジョン・ジローの落日
[終わりに]白洲次郎、吉田茂から遠ざけられる
管理人注:松本重治のことをもっと書いてほしかった。
Wikiには.....
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E9%87%8D%E6%B2%BB
http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/701.html
白洲次郎の妻・正子。1973年鶴川村の白洲家にて、当時63歳。(白洲正子『白洲正子の世界』平凡社 より)
DVD『鬼塚英昭氏が発見した日本の秘密』成甲書房より転載。
以下本文。
で、もう一つあります。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。彼は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?
白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。
ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。
そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。
◎鬼塚さんの凄い卓見である。
徳本栄一郎氏は白洲次郎の優れた資料を発掘しているがここまで言及できない。
白洲次郎はユダヤ財閥ウオーバーグ家の庶子であると私も思う。
しかし資料を読むと父親はアビー・M・ウオーバーグだと思われる。
母親はフィレンツエにいた東洋系の女性だと思われる。
アビーはボン大学で美術史を学んだ関係で、フィレンツエを訪れる。
以後ずっとフォレンツエに執着して住んでいるのである。
ウオーバーグ財閥の棟梁息子がである。
その後アビーは、マリーという女性と結婚をする決心に8年もかかっている。
しかし結婚するやいなやフォレンツエに戻って暮らすのである。
そしてアビーは重度の心身症を引き起こす。
フォレンツエでの新婚生活は早くも破綻するのである。
アビーが本当に愛しているのは次郎の母親で、
おそらくマリーとは偽装結婚だったのだろう。
マリーは終生寡黙に欺瞞の結婚生活を耐えたようだ。
アビーは「神は細部に宿る」というあの有名な金言を作った美術史家である。
しかし生涯プーを貫き、後年フロイトの患者になるほど精神状態が悪化していく。
再び鬼塚氏DVDより
そこから見ると全部歴史の闇がはっきり見えて来ます。アメリカにジークムント・ウオーバーグの従兄弟が渡って、クーン・ローヴ商会の共同責任者、ロスチャイルドの作った会社の共同責任者になり、シフの娘をもらいます。経営者のね。そして彼が何をやったかというとFRBの創設者がウオーバーグです。
◎この辺は込み入っているので、
ロン・チャーナウ『ウオーバーグ ユダヤ財閥の興亡』
を参考に簡単にまとめてみる。
ウオーバーグ家は本家と分家の二つがあって、
アルスター湖の辺に居を構える本家と、ミテルヴェークに居を構える分家がある。
かの有名な五人兄弟を輩出したのは、分家のミテルヴェークの方である。
ミテルヴェークの者は、ミドルネームにモーリッツを表すMを入れる慣習がある。
アビー・M・ウオーバーグは五人兄弟の長兄である。
風貌はオッペンハイム家出身の母親シャルロッテの血筋を引いたのだろう、
黒髪・暗褐色の目・浅黒い肌をしている。
そんなアビーを母親シャルロッテは溺愛している。
まず四男のフィーリクスが、母親の実家のN・M・オッペンハイム商会に派遣される。
オッペンハイム家の晩餐にジェイコブ・シフ父娘が招かれ、
フィーリクスと娘のフリーダが引き合わされ結婚する。
三男のポールはフィーリクスの結婚式で、ソロモン・ローヴの娘と意気投合し結婚する。
ローヴはシフの義父であるので、ポールはシフと義兄弟になったことになる。
これが縁でM・M・ウオーバーグとクーン・ローヴ商会が固く結ばれる。
長男アビーが芸術志向だったので、代わりに次男のマックスが家を継ぎ、
ハンブルク・アメリカン・ラインを世界有数の船会社に育て上げる。
ハンブルクは世界の一大物資集散地へと変貌していく。
シフ家に高橋是清の娘・和喜子が三年間も滞在したように、
ハンブルクのウオーバーグ家にも三井家の一族がよく立ち寄る。
次男マックスはアステルダムに出先機関としての銀行を設立する。
次男マックスが会長、三男のポールと五男のフリッツが副会長に納まる。
この銀行はナチ政権出現後のウオーバーグ家の活躍の場として、かけがえのない役割を果たす。
ウオーバーグはナチスに最大の被害を受けた財閥のように振舞っているが、
裏ではナチスと結託して一般ユダヤ人を踏みつけにしている。
またウオーバーグは戦後汎ヨーロッパ同盟に6万金貨マルクを提供しているが、
この同盟はもともとナチスドイツの超ウルトラ諜報機関から生まれたものである。
◎『LEGACY OF ASHES』様より転載させていただきます。
管理人注:三極委員会とソ連崩壊
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/535.html
マーストリヒト条約とリヒャルト・ニコラウス
http://megalodon.jp/2009-0127-2237-26/angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/228.html
『欧州連合はDVD(Devtsche Vertedigungs Digest)にとって長期展望に立ったものである。DVDはAbweherとゲーレン機関(Gehlen organisation)から生まれたもので、ナチの超ウルトラ諜報機関である。1943年マドリッドに本部が置かれたが、現在はミュンヘン郊外のダッハウ(Dachav)にあるが地図にはない。ここがロスチャイルドの司令塔だ。』
『ナチス・ドイツの千年王国(The Thousannd Year Reich)は変らず、実はこの欧州統合のためのマーストヒリト条約(Maastricht Treaty)の原点は、1942年ベルリンでのナチによるセミナーが叩き台になっている。Europian Economic Community(原文はドイツ語)と題する591ページの本が1942年ベルリンで発刊された。EDWARD HALE氏(クリストファー・ストーリー)が英国図書館のリーデイングルームで発見した。』
『恐ろしいことである。古い記事で三極委員会とゴルバチョフの密約まで書きましたが、当時フランスの大蔵大臣であったジスカール・デスタンのみが、3年後にこの条約が締結されることを知っていた。ゴルバチョフにソ連を解体しEU設立に協力する見返り(一億ドルの現金)が話し合われた。今のEUはナチの千年王国(New World Oreder)の実現のための過程なのです。FEMAキャンプでの人間の色分けは、ナチのSS物語・死者の順序に基づいている。』
『幸いなことにこの陰謀において、ソヴィエト側は事態に影響を及ぼす前に崩壊してしまいまいした。しかしもともとの理念には、彼らが乖離縮小と呼ぶものが含まれています。つまりソヴィエト連邦は幾分軟化して社会主義のようなものになる反面、西欧は社会民主主義と社会主義に変る。その後、互いの間にある距離はどんどん縮まり、ついに構造的に同化するという。これこそ欧州連合が初期においてソヴィエトの体制に合致することを目的としていた理由なのです。これこそ、なぜこの2つが互いに機能的・構造的に近似しているかの理由なのです。』
『このヨーロッパに出現した怪物の構造と特徴を調べれば調べるほど、それがソ連と似ていることにますます気づくことでしょう。もちろんそれはソ連ほど過激な体制ではありません。どうぞ私の発言を誤解しないでください。わたしはそれが「収容所」であると言っていません。KGBがあるわけでもありません。しかし、例えば、私はユーロポルのような組織に注目しています。私がこの組織を真に警戒しているのは、それが恐らくKGBよりも大きな権力を持つようになると予想しているからです。』
『ユーロポルには外交的特権が与えられるでしょう、外交特権を持ったKGBなど想像できますか?ユーロポルは32種類の犯罪について私たちを監視するでしょう。その一つはとくにゆゆしきものです。人種差別です。別名、外国人嫌悪症。地上どの刑事裁判所においても、このようなものを犯罪として扱うところはありません。(これは完全に事実とは限らない。ベルギーではすでにそうしている。-ベリーン)』
『私は今起こっている事柄によって、誰が迫害を受けているか注意深く観察しています。なぜならばこれは私が専門とする分野だからです。私は収容所の時代が迫りつつあるのを感じます。今後もっとも起こる可能性が高いのは、ヨーロッパの経済的破局です。特にユーロの導入は狂気の産物でした。通貨は政治的に決定されべきではない。私はこれについて確信があります。ソ連が崩壊したように、欧州連合も崩壊するでしょう。』
引き続き鬼塚氏のDVD本文。
そのウオーバーグの息子にジェームズというのがいます。彼がちょうど戦争が始まるとOSSのアジア担当の情報部に入ります。でウオーバーグがさかんに日本工作をして、グルー大使と交流します。その過程で白洲は、カントリー・ジェントルマンとかカッコ良い名前でみなさん呼んでますけど、鶴川に隠棲したってなってますけど、そうじゃありません。そこに巨大な無線基地を作り、全部イギリスからアメリカの情報をもらって、そして彼が吉田茂と樺山愛輔に情報を流すんです。
吉田茂についてなぜヨハンセン・グループなのか、吉田茂がなぜ首相になったかっていえば、ちょっと脇道にそれますが喋ります。吉田茂は長崎の女郎が生んだ訳の分らん子どもなんです。吉田健三という、ジャーデイン・マセソンというロスチャイルド系のアヘンを主に扱った商社があります。その商社の日本代理人に吉田健三というのがおりました。この吉田健三がある女郎屋に行って、「あの娘はどうした?」と言うわけです。店の人「あの娘は子どもが出来た」健三「誰の子供か?」店の人「分らない。それで今引っ込んでいる」健三「その子ども連れて来い」健三「お前はどうして子どもを作ったんだ?」娘「いや好きやから」健三「馬鹿なことするなあ。どうする気か?」娘「どうしようもない。育てないといけない」健三「じゃオレが子どもがいないから貰ってやろう」。で、女郎の子どもをもらって吉田健三が育てる過程で、友だちのある男を介して「お前の子どもにしてくれ」「分った」というので一応四国の名家の名前を借りましたけど、吉田健三がその子を育てるわけです。
(吉田健三は)金持ちですから、全財産を吉田茂が貰うんですから、長じて東大に入る時も、『回想十年』て本に書いてます「俺はバカやったけど裏口から入った」と本人がちゃんと告白してます。で、彼は東大出て、外交官になってイギリスへ行くけど、英語はうまく喋れない男なんですよ。これはもうはっきりしてます。講和条約の時英語で喋ろうとしたらアメリカから待ったがかかった。「お前の英語は意味が分らん。だから日本語を喋って通訳を通せ」。これはイギリスの外交文書を見ると、外交官が書いてます。「この男は何者なのかね?外交官のくせに英語が何も喋れない」。ところが白洲次郎は喋れるわけですね。完璧に。それで吉田茂は総理になった時に、マッカーサーと司令部と日本の外務省を結ぶ終戦連絡事務局というののトップに据えるわけですよ。そして交渉させる。
ウオーバーグのルートで吉田茂を育てたジャーデイン・マセソンという香港を舞台にした麻薬中心の会社に、白洲次郎が日本製鉄が四つに分かれる時に広畑製鉄所を作ってマセソンに売りつける。日本を売ることに何の心に痛みを感じない男なんですね。これがまさしくコンプラドール。吉田茂も同じなんですよ。日本の支配者はほとんどがみんなイギリスの金融機関ロスチャイルドからウオーバーグ、それからアメリカの金融機関の連中のコンプラドールであったと思います。だから松本重治といって、ロックフェラーに取り入って日米文化会館とか国債会館とか作ったやつもみんなコンプラドール。それから有末精三といいますが、これもみんなコンプラドール。悲しいかなコンプラドールだらけなんです。そこから見ると戦後がみんな見えて来ます。戦後もそういうやつが溢れていて、心の痛みを感じないやつらが、なぜ日本のリーダーになったのか。私たちはそこを正さなくては、未来はないと思います。
以上鬼塚氏のDVDからの抜粋。
◎徳本栄一郎『1945日本占領 フリーメイスン機密文書が明かす対日戦略』より抜粋。
『英国東部は教会を中心に発達した小さな町が多い。その一つケンブリッジはロンドンの来た80キロにある。中心部のキングス・パレードからトリニテイ・レーンの路地を進むと石造りの校舎が見える。ここがクレア・カレッジ、14世紀初め、英国王エドワード一世の孫娘クレアが設立した名門校だ。『ヒューズ女史「お待ちしていました。あなたが探しているのはこの人物でしょう」著者「ええ、これです。ミスター白洲に間違いありません」今から80年以上前、ケンブリッジ大学に入学した白洲次郎の記録だった。』
『1902年、兵庫県芦屋の実業家の家に生まれた白洲は神戸一中卒業後、英国留学した。帰国後は様々な職業に就き、戦前は近衛首相のフブレーン、戦後は吉田茂首相の側近を務める。憲法制定などGHQと折衝を行い、通商産業省創設や電源開発に関わった。戦後の政財界要人だった人物だ。1985年、彼は生涯を閉じたが、近年「白洲ブーム」というべき現象が起きている。日本人離れした長身、英国流ダンデイズムを身につけGHQと対等に渡り合ったなどと言われる。「プリンシプルを貫いた」「従順ならざる唯一の日本人」などと形容詞も多い。』
◎後述するがこれは全部白洲本人が流布させたプロパガンダである。
『かつて私は白洲を戦後史の目撃者としつつ特別な関心はなかった。それが本格的に興味を持ったのは四年前、ロンドンの公文書館で戦前、戦後の日英関係ファイルを調べた時だった。英国外務省や情報機関が作成した膨大な文書である。その時不思議に感じたのは文書にしばしば白洲の名前が登場した事だ。その後入手したGHQの文書も大量の白洲ファイルを含んでいた。これを読むと占領期、彼がGHQと深く関わったのは間違いなかった。』
『さらに興味深いのは世間の白洲像の変遷である。白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。これを見て私は白洲に人間的興味を抱き始めた。占領の裏面を知る白洲次郎とはどんな人間なのか。彼とGHQにどんなドラマがあったか。』
◎後述するが白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。
『ヒューズ女史「当時のクレア・カレッジ入学者は上流界級の子弟か、極めて成績優秀な者に限られていました。女子学生も皆無で現代とは全く異なる環境でしたね」著者「つまりリッチな人間かスマートな人間、いずれかの条件が必要だった訳ですね」ヒューズ女史「その通りです」ヒューズ女史「これは第一次世界大戦と第二次世界大戦で戦死したクレア・カレッジの卒業生ですよ」私は一瞬驚いて石碑を見つめた。表面に人命がびっしり刻まれ、第一次世界大戦の方がはるかに多い。ざっと200名はあるだろうか。』
◎後述するが白洲次郎は辰巳栄一に依頼して赤紙召集を誤魔化してもらっている。
辰巳は吉田茂のロンドン・コネクションの一人である。
『1928年、英国から帰国した白洲が就職したのは英字新聞ジャパン・アドバタイザーである。(後の白洲の妻・正子も白洲と同じ1928年、金融恐慌でニュージャージー州のハートリッジ・スクール留学を切り上げて帰国している。そして1929年11月結婚)ジャパン・アドバタイザーを読んで気になったことがある。白洲の記事の署名が「ジョン・シラス(Jon Shirasu)」となっていたのだ。なぜ本名でなく英語名なのか、他の日本人は本名で寄稿しており強い違和感を覚えた。また記事を丹念に読むと白洲が日本に一定の距離を置いていたのが分る。同胞を「彼ら(They)」と呼び、日本文化も欧米の視点で見た物が目立つ。まるで自分は日本人ではないと言わんばかりだ。白洲は独自の帰属意識を持っていたのではないか。それが日本人離れした観察眼、構想力を生んだのでは。この「彼ら」は後に占領期の白洲を知る重要なかぎとなるのだった。』
『終戦から間もない1945年の冬、日々やの第一生命ビルにある男が出入りしていた。長身をスーツに包み、顔見知りの米軍将校を見つけると「ハーイ」と叫んで手を振る。正面玄関でなく裏手通用口から入る事もある。身なりも態度も日本人らしくなく、高価な葉巻やウイスキーを会うたびに配っていた。いつしかGHQで「調子のいい男」と呼ばれていた。彼の名前は白洲次郎、43歳、新しく設置された終戦連絡事務局の参与である。これはGHQと日本政府の折衝を行う役所で、外務省が機能停止した当時、国の命運を握る組織だった。』
『後に次長となる白洲は第一生命ビルに通いGHQ人脈を広げる。そして彼の最大の仕事、それは6階の民生局に食い込む事だった。民生局は占領行政の中枢で憲法改正、公職追放を担当した部署だ。その政策が国の将来を左右し、意向を掴むのが不可欠だった。そのため白洲は局長のコ^トニー・ホイットニー准将、次長のチャールズ・ケイデイス大佐に接近していた。白洲が英国留学から帰国して17年が過ぎていた。』
『ジャパン・アドバタイザーの記者時代、彼は貴族院議員樺山愛輔の次女正子と結婚した。家庭を築く傍ら外資系のセール・フレーザー商会、日本食糧工業(後の日本水産)などの取締役を歴任する。水産加工品の輸出で北米や欧州を飛び回る日々が続いていた。だが太平楊戦争が始まると東京近郊の鶴川村に引っ越してしまう。以来終戦まで一農民として生きてきたのだった。その白洲をGHQとの折衝に抜擢したのは幣原内閣の外務大臣吉田茂だ。白洲とは吉田が駐英大使時代からの付き合いで気心も知れていた。』
『その後白洲は終戦連絡事務局を退任、初代貿易庁長官として通商産業省設立に関わった。また首相特使として訪米し講和条約締結を話し合う。1951年のサンフランシスコ講和会議には顧問として出席した。まさに占領を目撃した男といえる。ところが生前白洲は家族にすら占領期について話さなかったという。友人にも「不愉快だから忘れたい」「人に迷惑がかかる」と答えた。それどころか晩年、手元の大量の資料を「こういうのは墓場まで持っていくもんなのさ」と自宅の庭で燃やしてしまった。自分の過去はもちろん活動の痕跡まで消してしまったのはなぜか。』
『かつて「英国機密ファイルの昭和天皇」を書いた時、私はラドウンを取材した事がある。白洲とは1970年代、仕事で来日した際よく二人で食事したという。そのきっかけを作ったのが彼の父で国際石油メジャー、ロイヤル・ダッチ・シェル会長ジョン・ラドウンだった。オランダの名家に生まれたジョン・ラドウンはユトレヒト大学卒業後シェルに入社、世界中の油田開発に携わった。1950年代、会長に就任。米国のデーヴィッド・ロックフェラーなど各国政財界にコネクションを持ち、ロックフェラー財閥の中核チェーズ・マンハッタン銀行のアドバタイザリー・コミッテイー委員長も務めた。1996年国際ビジネス界の重鎮だった人物だ。そしてこのジョン・ラドウンと個人的親交を結んだのが白洲だった。戦後の一時期、彼は日本でのシェル顧問も務めた。』
『「一言で言えば次郎はエリート主義だったと思いますよ。かれがケンブリッジで学んだ1920年代は今より上流階級がはっきりしていました。次郎は西洋化されていましたが傲慢な一面もありましたね」こう言ってラドウン(息子)はあるエピソードを教えてくれた。1970年代のある晩、ラドウンは白洲と夕食を共にした。場所は銀座ソニービル地下の「マキシム・ド・パリ」、日本初の本格的フランス料理店である。二人が食事していると一人の日本人がテーブルに近づいてきた。白髪の年配の紳士で穏やかな笑みを浮かべている。彼は白洲に丁寧にお辞儀して挨拶した。これに対し白洲は微かに頷いただけであった。後日ラドウンは相手がソニー創業者の盛田昭夫だったと知る。』
『これを聞いて私はケンブリッジの白洲の写真を思い出していた。ガウンを着た同級生の集合写真で貴族然とした若者たちだ。卒業後、彼らは政界や実業界に進むが生涯交遊を持ち続ける。特にオックスフォードとケンブリッジの学生は「オックスブリッジ」と呼ばれる強力なネットワークを誇った。白洲もその一員だったのでは。こう言うとラドウンが笑った。「一度英国のエスタブリッシュメントに入れば職場や仕事を変えても繋がりは消えません。それは情報収集にも効果的でしょう。例えば仲間の一人が海外に行くとき、事前に会員制クラブなどで会います。そして現地の政財界要人など調べて欲しい事柄を伝えます。帰国後、彼らが入手した情報をクラブで伝える仕組みです。その意味で皆がスパイと言えます」』
『コンピュータが発達した今日、情報はインターネットで入手可能と思われやすい。しかし、それは表に出た情報インフォメーションにすぎない。真にデリケートな情報は信頼の置ける者同士、対価を払って交換される。それがインテリジェンスである。英国の会員制クラブはその最高の舞台装置となってきた。そして白洲が通ったと思われる場所のひとつが「ホワイツ・クラブ」である。創立1693年の老舗で歴代会員はウインストン・チャーチル首相、ロスチャイルド男爵など錚々たる名前が並ぶ。政治家や外交官、ビジネスマンの社交場でSIS(別称MI6)長官も利用した。白洲自身はメンバーではないが彼のエピソードにこのクラブが登場する。』
『1946年3月、白洲は終戦連絡事務局次長に昇進した。やがて彼の力量を発揮する機会が訪れた。讀賣新聞の労働争議である。当時の讀賣は部数200万部、国内第三位の新聞社だった。その社長正力松太郎は警視庁出身で刑事課長を務めた男だ。1945年、正力はA級戦犯指定を受け収監、公職追放されてしまう。正力の後を継いだのは元ジャパン・タイムズ編集長の馬場恒吾だ。だが組合との争議に疲れた彼は辞表を出してしまう。馬場辞任から4日後の1946年6月11日、白洲はGHQ渉外局長のフレイン・ベーカー准将を訪ねた。その時彼は讀賣新聞業務局の幹部が作成した有力共産党員リストを持参した。「白洲はこのリストを手に、しばらく前から交際を深めていたベーカー准将に会いに行った。白洲はさり気なく「讀賣新聞事件」を論じ、馬場は共産党に対抗するために外部の激励を通説に必要としている善玉だとベーカーに納得させた」(「日本占領革命」)』
『白洲の説得は功を奏した。ベーカーは逗子の自宅にこもった馬場を呼び出し温かく迎えた。そして白洲情報をもとに鈴木ら共産党員6名の名前を挙げた。これを馬場は彼らをクビにしてもGHQが支持すると受けとった。その足で会社に戻った馬場は鈴木編集局長らに解雇を言い渡す。当然組合は荒れ狂うがGHQには無力だった。「こうして 讀賣新聞業務局の一反共主義者による手書きのリストが、まるで錬金術のようにマッカーサー指令に変身してしまったのである」(「日本占領革命」)』
『正力と讀賣にとり白洲は恩人となった。その後、彼は讀賣新聞系列の日本テレビ社外役員に就任し深い親交を築いていく。「降伏と第一次吉田内閣発足に伴い、首相はロンドン時代の友人に終戦連絡事務局を任せた。総司令部と日本政府の間の全文書は白洲のデスクを通過する。この時期にGHQの希望とは命令であり、それを知ることは権力であった。白洲は二つの政府の秘密を交わす中央交換台に座っていただ」(レイ・ファーク記者 1951年3月8日 ミルウオーキー・ジャーナル)』
『白洲はGHQ情報に精通し要人の素行まで目を通せたのだ。それは占領政策に影響を及ぼし公私混同と言える行動も生んだ。樺山愛輔の公職追放が良い例である。1846年1月、GHQは日本政府に軍国主義指導者の公職追放を指示した。そしてこの年8月、GHQは終戦連絡事務局に樺山愛輔の追放を指示した。愛輔は海軍大将樺山資紀の長男で、明治初期に米アマースト大学などに留学した。帰国後は千代田火災保険、日本製鉄所の役員や貴族院議員を歴任する。GHQは日本製鉄所が日本の軍拡に果たした役割から樺山を戦争協力者に分類したのだ。ところが約一年後、GHQはある事実を知って愕然とした。日本政府が樺山追放を実施してなかったのだ。』
『彼らは直ちに調査を開始した。ここで疑惑を持たれたのが連絡事務局次長の白洲である。彼の妻正子は樺山の次女で愛輔は舅に当たったのだ。その経緯を説明した報告書がある。「(追放の)覚書は吉田首相が受け取ったが実際の行動は保留された。これを命じたのは終戦連絡事務局次長で樺山の義理の息子白洲だったという。その後、吉田首相はマッカーサー元帥に樺山追放免除を要請する書簡を送った。(中略)これは拒否されたが白洲の命令で追放覚書は棚上げされたらしい」(1947年7月2日 民生局報告書)』
『白洲自身はどう釈明したのか。「彼が吉田首相に追放を伝えた時、吉田はこの問題は自分で取り上げると答えた。対象人物との個人的関係から白洲は関与を控えた。(中略)マッカーサーの回答がいつ来たかは思い出せないという」(同15日報告書)結局樺山は追放され、翌年のGHQファイルは「白洲の高潔さが疑われた」と記述したのだった。ここまで読んで私は言いようのない不快感、嫌悪感を覚えた。当時白洲にはGHQと日本政府のあらゆる文書が集まっていた。その中で最高司令官マッカーサーの回答を忘れる事があり得るのか。もし本当に樺山追放を見逃したなら明らかな公私混同だ。追放された軍人、官僚、実業家は失職し収入を断たれた。就職もままならず彼らの生活は困難を極めたのだ。』
『それ以上にアンフェアなのが白洲の徴兵忌避であった。戦前からの友人で東部軍参謀長だった辰巳栄一は次のような談話を残している。「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、ある日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、招集されちゃったよ”と言われるんです。(中略)白洲さんの時は早速に招集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです」(『風の男 白洲次郎』)一般庶民に白洲のようなコネは無縁だった。彼らは歯を食いしばり黙って戦地へ向って行った。』
『ニューヨーク市内のグランド・セントラル駅からメトロノース・ハドソン線に乗ると50分程でターリタウンという町に着く。デイトン通り15番地、ここがロックフェラー・アーカイブ・センター、世界有数の財閥ロックフェラーのあらゆる記録を保管する場所だ。ロックフェラー一族を初めロックフェラー財団、ロックフェラー兄弟基金など関連機関の記録だ。36000立法フィートの書類、50万点の写真は各国元首、王族、実業家の書簡も含む。「Shirasu,Jiro」、1950年代白洲がロックフェラーと交わした書簡リストだった。前述の通り、晩年の白洲は手元にあった大量の書類を焼却している。自分の過去はむろん活動の痕跡まで消そうとするかのように。これが彼の実像をわかりにくくする原因でもある。だが、さすがの白洲もロックフェラー・アーカイブの書類まで燃やすことは出来なかった。私はタリータウンに眠る記録から彼の足取りを追う事にした。』
『1951年1月25日、午後8時25分、羽田空港に一機の特別軍用機が着陸した。やがて機体のドアが開いて長身の米国人が現れた。ジョン・フォスター・ダレス、トルーマン大統領の特使である。マッカーサーや日本政府と協議して講和条約の中身を詰める、それがダレス訪日の目的だった。この軍用機からダレスに続いて一人の米国人が降り立った。年のころは40代半ば、ハンサムだが内気な雰囲気も醸している。彼の名前はジョン・ロックフェラー三世。二世の長男でロックフェラー財閥の継承者だ。今回は文化顧問の肩書きで動向していた。』
『ダレスが吉田と緊迫した交渉を進める中、2月1日の夜、ロックフェラー三世はある日本料理店を訪れた。ある日本人の夕食会に招待されたからだ。仲居に案内されて座敷に上がると数人が待っていた。一座の中心は痩身の老人である。若いときに米国留学して流暢な英語を話す。彼の名前は樺山愛輔、戦前の伯爵で日本政財界の重鎮だった。その横にある中年夫婦が座っていた。夫は平均的日本人より背が高く端正な顔立ちだ。長く英国で暮らしたらしく流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。妻も米国留学しており英語ができるようだ。二人とも洗練された印象だった。彼らは白洲次郎と正子、樺山伯爵の次女と義理の息子だった。他に樺山の長男紐二(ちゅうじ)、三世の前からの友人松本重治(注 白洲次郎の秘密工作の実行犯)が同席していた。』
『1952年4月16日、ロックフェラー三世はダレスに80ページの報告書を提出した。テーマは「日米文化関係」、後の駐日大使エドウイン・ライシャワーらの協力で作成したレポートだ。講和後は政治・経済に加え文化交流を促進するカルチャー・センターやインターナショナル・ハウスを開設するという。後者は樺山愛輔らの支援で国際文化会館として実現した。同時に彼らが注目したのが知識層へのアプローチだった。権威主義の日本では知識人が世論に大きな影響を及ぼす。彼らを活用する事で親米派を増やせると見た。その候補者の一人が正子だったのだ。』
『アーカイブの文書を読むと、当時ロックフラー家と白洲家が家族ぐるみの交際をしていたのが分る。来日した三世夫妻は軽井沢でゴルフを楽しみ、正子や長女桂子(かつらこ)にクリスマス・プレゼントを贈った。白洲との書簡も「ジョン」「ジロー」とファーストネームで始まり社交儀礼以上の関係だと分る。白洲は日本の財界人をロックフェラーに紹介する役も演じた。戦後間もない日本は経済復興に必死だった。その中でロックフェラーとのパイプは魅力的だったはずだ。白洲はロックフェラー三世と直接パイプがあった。一族の後継者とファーストネームで呼び合い、いつでも面会のアポを取れる。政財界が彼を頼ったのは当然であった。アーカイブは白洲正子のファイルも保管している。正子もロックフェラー三世、特に妻ブランシェットと仲が良かった。』
『一次書類が少ないため白洲の逸話は本人の言葉に頼りやすい。それは時に”白洲伝説”を生み一人歩きしていった。サンフランシスコ講和会議のエピソードが良い例だ。1951年9月8日、日本側全権代表の吉田首相は講和条約の受諾演説を行った。この結果、占領が終わり国際社会に復帰したのは歴史が示す通りだ。その演説直前ちょっとした騒ぎが起きたという。発端は白洲だった。この会議に白洲は全権団顧問の肩書きで参加していた。演説の二日前、彼は吉田から演説原稿に目を通すよう依頼された。一読して彼は激怒した。占領への感謝を並べた上、英語で書かれていたのだ。後に白洲は雑誌の回顧記事でこう述べている。「いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。ぼくは、外務省の役人らの身体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれかえるばかりだった」白洲の一喝で演説は日本語に変更された。急遽和紙と毛筆が容易され、巻紙に記された原稿を吉田は読み上げたのだった。白洲の気骨を示す逸話として今や史実とされる。』
◎『白洲気骨を示す逸話』を書いて『史実』にしているのが青柳恵介である。
その著書『風の男 白洲次郎』には、驚くべき白洲次郎の言動が描かれている。
吉田と白洲が組んで戦後占領期のドサクサにやっていたトンデモが、
彼らの手下の証言を引用しながら描かれているのである。
二人が組んでやった売国奴工作の実態が手に取るように分る。
しかし作者青柳の意識としてはそれをカッコいいと思って書いているらしい。
青柳恵介が白洲次郎の自己申告を『史実』にした代表例は、サンフランシスコ講和条約の逸話だろう。
NHKドラマでもこのエピソードソードが放映されて、白洲ブーム再燃となっているようだ。
◎青柳恵介『風の男 白洲次郎』新潮社より
『吉田茂が演説を行う二日前、白洲の許に吉田から電話が入り、主席全権の演説原稿に目を通してくれたかという。まだ見てないと答えると、早く見てくれという。「外務省は僕に見せると文句をいうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激とかいてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。(『昭和政治経済への証言』下)』
『白洲は外務省の随員に、書き直せと言いわたすと、その随員は草稿を抱え、白洲に渡すまいという姿勢をとった。白洲は怒り、渡せと、英語で怒鳴った(外務省では、その後白洲次郎は怒ると言葉が英語になってしまうという評判が立ったという)。草稿をひったくった白洲は外務省翻訳班長の小畑薫良(憲法の草案を白洲とともに翻訳した人である)を呼び、こういう趣旨の演説に改稿すると言い渡し、草稿の英文も生かしつつ日本語の原稿に改めた。そこに以前の原稿では一言も触れられなかった沖縄の施政権返還を白洲はもり込ませた。なるべく早期に沖縄を返して貰いたい、と。二日後、吉田茂は巻紙に書き記された日本文を読み上げた。しかし各国の高官たちには従来の英文が事前に配布されていた。』
『白洲は帰国早々、9月30日号の「週刊朝日」に「講和会議に随行して」という一文を寄せている。その一節に次の如くある。「調印の時も、演説の時も、総理の態度は本当に立派だった。その姿を見ながら、総理はやっぱり昔の人だなと言う感じが強かった。昔の人は我われ々と違って、出るべき所に出ると堂々とした風格を出したものだ。総理が、自分のポケットからペンを出してサインしたのも、いかにも一徹な総理らしかった。各国全権のうち、備え付けのペンを使わなかったのは、総理だけだったので、大変な反響を呼んだ。なぜ自分のペンを使ったのだろうかと、不審に思った人も沢山いたようだ。総理はなぜ日本語で演説したかという理由については、こまかいことは知らないが、英語でやるか、日本語でやるかを、前からはっきりきめていたわけではない。演説の草稿は英語で書き、それを日本語に直して演説したのだ。だから、議場で演説と同時にイヤホーンで放送したのは、その草稿の英文だった。」』
『「なぜ日本語で演説したかという理由」云々は、オトボケであると同時に皮肉であろう。吉田が巻紙の原稿を読み上げたとき、一部のアメリカ人は「あれはトイレット・ペーパーか」といぶかったという。自分のペンを使ったことを不審に思った人がいても不思議ではない。白洲は吉田を”昔の人”と言い、その堂々とした””一徹さ”に改めて感動を催している。』
以上抜粋。
◎青柳恵介は白洲次郎が掛けたバイアスの呪縛の中にいる作家である。
この白洲次郎の帰国直後の談話が、オトボケだと思い込んでいる。
白洲次郎が描くのはひとりカッコいい吉田茂像で、
そこには吉田の幇間としての白洲次郎がいるだけである。
白洲次郎が持っている権力はすべて吉田が与えたものだからである。
青柳恵介には、それが白洲次郎の実像であることが分らない。
彼は白洲次郎が吹聴する逸話と、帰国当時の談話との時間を考慮に入れない。
こういう迂闊な作家が白洲家の人間と協力して、
平成の世になってからも美麗なプロパガンダ本を量産しているのである。
『占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。』・・・はあ。
冗談でなく白洲次郎こそは占領に感謝感激していた当事者でなのである。
この時のためにこそ満を持して登場した男が白洲次郎なのだ。
もちろん吉田茂がいなければ為せないワザであった。
だから図式はこうである。
『風の男 白洲次郎』⇒『占領に感謝感激した男 白洲次郎』
占領期こそ売国奴工作に励んだ吉田&白洲の独壇場だった。
白洲はこの実態を韜晦すべく自ら『伝説』を吹聴する。
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