◎20年後の白洲次郎の自己申告
『昭和政治経済史への証言・下』1972年8月より
『講和条約への道 白洲次郎/ 聞き手 安藤良雄』
サンフランシスコ講和に向かう機上の白洲次郎と吉田茂......吉田は自分の出生の秘密を知っていたのでしょうか。白洲次郎と共通する出生の秘密を持つ二人が日本の独立のためにサンフランシスコに向かう姿はある意味で涙を誘う。だた一言だけ言いたい.....一応ありがとう,と。吉田と白洲の関係はその後の岸と賀屋興宣の関係と重複する。
『あまり知られていないが戦時内閣の大蔵大臣賀屋興宣(かやおきのり)がいる。戦犯として13階段直前で終身刑となり1955年釈放され,1958年に赦免され岸の側近となり自民党外交調査会のキーパーソンであった。いわば米国のCFRの日本版と言ったほうが分かりやすいであろう』
関連記事:ある日突然
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/15.html
広島原爆投下により第二総軍は消えた
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/243.html
生き残ったのは畑俊六......もともと広島へ行かなかった?
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=
『-そこで、いよいよ講和会議となったわけですが、サンフランシスコでは順調にいきましたか』
注:吉田茂側近がCIAに情報提供・早大教授が米公文書発見
http://www.47news.jp/CN/200910/CN2009100301000210.html
暗号名=ヨハンセン
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/456.html
黒幕?伏見博恭王
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2556
白洲次郎著:プリンシプルのない日本
http://1000ya.isis.ne.jp/1517.html
白洲次郎の妻・正子。1973年鶴川村の白洲家にて、当時63歳。(白洲正子『白洲正子の世界』平凡社 より)
関連記事:http://satehate.exblog.jp/9332877/
FRB(連邦準備制度理事会)をつくりあげたのはポール・ウォーバーグ。その息子のジェームズ・ウオーバーグはOSSの中に入り日本向けの情報担当官となる。
管理人注:FRBをつくりあげる直前タイタニック号が沈没するという奇妙な事件が起きた......陰謀だったのだろうか?
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2557
白洲次郎はウォーバーグのエージェントとなり、国務次官グルーからの情報を、ヨハンセン・グループに流していく。
ジェームズ・ウオーバーグが6歳の時白洲は生まれたので白洲の父親はPaul Warburgのようだ。年齢的にも整合性がある。
Warburg Family Tree
イシュマエルの典型的な顔。アブラハムと女奴隷ハガルとの間に出来た子供の血統参照。
白洲次郎の画像(イシュマエルの鼻型)
http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E&search.x=1&fr=top_ga1_sa&tid=top_ga1_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
顔立ちを見ればウオーバーグの庶子であったことは間違いないでしょう。Wikiによればウオーバーグ証券(現UBS)の役員や顧問をつとめていた。鬼塚氏は嫌いだったようですが私はその生き様が案外好きなのです。誰が何と言おうと......。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E6%B4%B2%E6%AC%A1%E9%83%8E
『白洲 吉田さんの演説の二日前に、吉田さんから電話がかかってききまして、主席全権の演説を見てくれたかというのです。見ないといったら、そんなことない、見ろというのです。外務省はぼくに見せると文句いうと思ったのでしょうね。しぶしぶもってきたのです。それを見るとしゃくにさわったね。第一、英語なんです。占領がいい、感謝感激と書いてある。冗談いうなというんだ。GHQの外交局と打ち合わせてやってるのです。英語のこういうものを日本の主席全権が演説するといって、向こうのやつに配ってあるわけです。そんなの勝手にしろといったんです。小畑さんにこういう趣旨で書くんだといって、ぜんぶ日本語で書いてもらったのです。それに書いたのは沖縄かえせということ。そんなこといったら困ると外務省はいったけど、困るもなにも、冗談いうなといったのです。いま施政権返還といっても向こうは驚きませんが、そのときは、それを聞いてアメリカの人がびっくりしたらしいですね。』
◎白洲次郎の24年後の自己申告
白洲次郎『占領秘話を知りすぎた男の回想』週刊新潮1975年8月21日号より
『占領下の日本人を語るためには、昭和26年の講和会議の舞台裏で起こったことにも触れておこう。僕はこの会議は、全権委員顧問の肩書きで列席したのだが、会議が始まる二日前、サンフランシスコのさる邸宅に宿舎を定めた吉田さんから、マーク・ホプキンズ・ホテルの僕のところに電話がかかってきた。僕が電話に出ると、吉田さんは「わたしの演説原稿に目を通してくれましたか」という。まだ拝見していなかったぼくは、さっそく随行の役人を呼んで、その原稿を取り寄せた。』
『ところが、僕は一読して、むらむらとくるのをどうすることもできなかった。その原稿は、日本の主席全権のものだというのに、なんと英語で書かれているのである。中身も、6年間にわたる占領について「感謝感激」と大げさな参事が述べられている一方、国民の悲願である沖縄返還については、一言も触れられていない。ぼくは思わず声高になった。「これはダメだ。全面的に書き直せ」。が、この外務省の役人は「これは、GHQ外交部のシーボルト氏と相談して書いたものですから、こちらの意思だけで簡単に書き直すわけにいきません」という。』
『いかに敗戦国の代表であるとはいえ、講和会議というものは、戦勝国の代表と同等の資格で出席できるはず。その晴れの日の演説原稿を、相手方と相談した上に相手側の言葉で書くバカがどこにいるか。僕は外務省の役人らの体にすっかりしみついてしまった”植民地根性”に、ただただあきれ返るばかりだった。幸い、演説原稿は二日間で全面的に書き改め、またこの恥ずかしいエピソードも外部に漏れなかったからいいようなものの、うっかりすれば、えらいことになっていたのである。』
『占領中の日本で、GHQに抵抗らしい抵抗をした日本人がいるとすれば、ただ二人。一人は吉田茂であり、もう一人はこのぼくだ。吉田さんは、そのことが国民の人気を得るところとなり、ずっと表街道を歩いたが、もう一人のぼくは、べつに国民から認められることもなく、こうして安穏な生活を送っている。けれども、一人ぐらいは、こういう人間がいてもいいと思い、べつにそのことで不平不満を感じたこともないし、いまさた感ずる年でもないと思っている。』
◎これは白洲次郎のいわゆる”ネタ”なのだろう。
ではネタの実態を見てみよう。
◎徳本氏の前掲書の抜粋の続き。
『だが彼の足跡を追ううち、意外な事実が浮かび上がった。演説を日本語に変更させたのは米国だったのだ。東京の外交資料館は講和条約の過程を記録した文書を所蔵する。作成者は当時の西村熊雄条約局長、その中に次の記述があった。「5日夜、ホテルで入浴中、シーボルト大使から米国代表部のホテルに来るよう連絡があった。急いでいってみると大使は(中略)『総理の演説は日本語でされることがよろしいであろう」。デイグニテイのため、とサゼストするところがあった。この趣旨を白洲顧問をはじめ同僚諸君に伝えたところ、みな日本語で演説され、島内君が英語を読むのがデイグニテイのためのわが方の趣旨を議場に徹底さすためにも良かろうとの意見であった。ただ問題はそれをどう総理に進言するかであった」(「平和条約の締結に関する調書」)』
『日本語演説を提案したシーボルトは後年回顧録でこの件に触れていた。「(日本語に変更させた)理由は、根本的なものだった。吉田は、英語の知識こそ立派なものだが、発音は、多くの日本人同様に下手で、時々慣れない語句が出てくると、聞き取れないことがあった。非常に悪い演説原稿を、発音の下手な、妙な調子で読み上げる。それを考えただけで身ぶるいするほどだった」(「日本占領外交の回想」)』
『9月7日午前、米国代表部が演説原稿を見たいと申し出た。首相秘書官の松井明が英文を持参するとシーボルトらが待っていた。彼らはアジア諸国の記述で守勢を求め、より洗練された表現に書き換えた。この場で米側は日本語でやるよう重ねて要請した。「米代表部から日本のデイグニテイのため日本語でされることをすすめる旨が同時に松井秘書官よりもちかえられた。白洲顧問も総理にそうした方がよろしいと今朝手紙で申し上げたところであるが、総理は英語でやると言下に答えられ『そう白洲君にいいたまえ』とのことであった」(「平和条約の締結に関する覚書」)』
『こうしてみると白洲の「戦勝国の代表と同等の資格」云々は全くの作り話だ。”植民地根性”を一喝したのは白洲一流のカバーストーリー(事実を隠すための話)だ。』
以上抜粋。
◎カバーストーリーも何回も宣伝すれば『史実』となり、
イケメンの配役でNHKドラマで放映されるのである。
白洲次郎の”気骨を示す逸話”はほとんどが本人の捏造である。
白洲次郎には勇気も気骨もカケラもない。
正子にバラされているが、次郎は弱虫でケチで空襲が怖かった。
次郎は英国ダンデイズムで自身の身を一流品で飾るが、
正子はお誕生日を含めてプレゼントを一回ももらったことがないという。
(え?マジ?)
しかも正子が病気になる真っ青な顔になってトンズラしてしまったという。
「ほかの女性だったら耐えられなかったでしょうけど、私はこんな性格だから」
夫婦関係が保ったのだという。
「生まれ変わってもまた次郎さんと結婚したいですか?」と聞かれたら、
「迷っちゃうわねえ」と言う正子であった・・・
前々回次郎&正子の愛情は本物と書いたことを、
お詫びして撤回しなければならない。
◎『吉田茂 熱血ワンマン宰相』2007年刊行のビジュアル本には次のようにある。
『当初、茂は英語演説するつもりだった。ところが、アチソン議長が「ソ連がロシア語でやったのだから、日本語でやったらどうか」とすすめてきた。「まことに結構な申し出である」と、茂は了解する。慌てたのは随行員たちである。日本語でやるとなれば、草稿を和紙に書くのが正式だ。ところが、演説まで時間がない。手分けして書いたため、草書もあれば楷書もあり、しかも継ぎ目はにじんで見えにくいという、晴れの舞台にはいささかそぐわない珍妙なものになった。(講和会議に傾向した硯、筆、墨、水差しなど一式の写真の説明文⇒随行員たちは吉田の演説時間ぎりぎりまで草稿を巻紙に筆書していた)』
◎白洲次郎の『自己申告の逸話』には外務官僚を貶めるものが多い。
これはおそらくは白洲次郎の劣等感からくる嫉妬であろう。
彼は吉田茂の独裁権力を嵩にきた『私的外務大臣』と恐れられたが、
ついに公式に外務官僚の立場を得ることはかなわなかった。
白洲は外務官僚をけなす一方で、内務官僚はベタほめである。
むべなるかな、内務官僚は吉田&白洲のコネクションの尽きぬ源泉である。
その代表例が正力松太郎と中曽根康弘である。
◎さてジークムントに戻る。彼はケンブリッジ大学で講座を取る。
ロビン・ストラッドフォードが次郎の親友になったのは、
ウオーバーグの依頼でお目付け役になったからだろう。
そのロビンと次郎の二人のオイリーボーイは車で北部に卒業旅行に行く。
恐らくここで二人はジークムントに取り込まれ、MKウルトラのような洗脳が施される。
薬物を使った人格破壊・再凍結である。
白洲次郎は死ぬまでその任を解かれることのない任務に就く。
◎再び青柳恵介の前掲書より抜粋。
『シグムンド・ウオーバーグは日本を訪れ「almost his Japanese double(まるで双子の)」白洲次郎と出会う。ウオーバーグと白洲は意気投合し、白洲の紹介で野村證券の社長に会い、以後ウオーバーグは積極的に資本を日本に投資することになるのである。白洲は「S・G・ウオーバーグ」の顧問となる。ただし、顧問といっても、シグムンドへの友情の上に立った非公式な個人的なアドバイザーである。今回S・G・ウオーバーグのスタッフのマーチン・ゴードンが寄せてくれた白洲の思い出の記から一部引用しておこう。』
『「白洲氏とウオーバーグ氏の関係は、遠距離であるにもかかわらず、非常に親密なものだった。ウオーバーグ氏が最後に日本を訪れたのは、1978年の11月で、日本政府から勲一等瑞宝章を受授章した時である。私は当時の福田首相がウオーバーグ氏トウオーバーグ夫人と同席し、白洲氏が隣のイスで微笑んでいる写真を持っている。白洲氏とウオーバーグ氏およびS・G・ウオーバーグ会社の同僚との何年にもわたる交友関係の間、ウオーバーグ氏と私たちは白洲氏や彼の親しい交友サークル、すなわち宮澤氏、永山氏、故森永日銀総裁の目を通して日本を見てきた。その結果、ウオーバーグ氏は白洲氏の指導の下で、過去25年間に日本が経済大国になる原因となった多くの注目すべき資質を見ることができた。白洲氏はウオーバーグ氏やS・G・ウオーバーグ会社の長老であるエリック・ロール氏やデヴィッド・シューロイ氏等に、最も興味深く影響力のある日本人を紹介した。その結果、日本での仕事はS・G・ウオーバーグ会社の幹部達にとって、常に楽しみであり、私たちにとって日本は決して外国のように感じられなかった。」その東京事務所ではサー・シグモンドの肖像画と並んで白洲の肖像画を掲げている。』
◎ジークムントは本家の跡取り息子であるが、父親がウダツのあがらない人だったので、
息子であるジークムントは若いころは不遇の時代を過ごしている。
しかし非常なやり手であるので、後年S・G・ウオーバーグという投資銀行の経営者になる。
ジークムントはスイスに所有している製薬会社にLSDを製造させる。
それをOSSにいた甥のジミー・ウオーバーグが、CIAのMKウルトラとして活用する。
ウオーバーグ一族とフロイトは懇意であり、両者は深くタビストック研究所に関与している。
(白洲次郎の父親アビーはフロイトの治療を受けている)
◎ジミーの父親ポールはFRB創設者として知られているが、
ポールの本当の姿はドイツ諜報機関のトップである。
つまりドイツ諜報機関のトップがクーン・ローヴ商会の娘婿になり、
アメリカの中央銀行を創設したのである。
ポールは1918年から27年にかけ、連邦諮問評議会の副会長・会長として、
連邦準備制度理事会の際策を計画決定している。
◎ユースタス・マリンズ 著『世界権力構造の秘密』より抜粋
『1918年12月2日付けの「合衆国海軍情報部報告書」に次の記述がある。-ポール・ウオーバーグ ドイツ人、1911年に合衆国市民権を獲得。皇帝より勲章を受領。ドイツ銀行家よりレーニンおよびトロッキーに提供された巨額資金を取り扱う。兄マックスあり。ドイツ諜報組織の長官。』
『ヒトラーのドイツにおいてさえ、マックス・ウオーバーグの会社は迫害から除外されていた。マックスが合衆国に向けて出発したのは1939年のことだが、一般に想像されるようなユダヤ人に対する制約規制になんら拘束されなかった。』
『ポールの甥のエドワードは1941年にドノヴァン将軍の跡を継いで情報調整官に就任し、その後の第二次大戦中はロンドンのSHAEF連合国派遣軍最高司令部でアイゼンハワー将軍に特別政治顧問として仕えた。』
◎ウオーバーグはロスチャイルドと並んで、シナリオを画策するもう一つの雄である。
昨今の正子&次郎ブームは、連中が仕掛けたプロパガンダである。
『白洲次郎と正子 乱世に生きた二人 お互い、自ら信じた道に妥協はしない。
風のように韋駄天のごとく、激動の時代を駆け抜けた-』
↓
実態
『白洲次郎と正子 乱世に楽した二人 お互い、他人が用意した道に妥協した。
コンプラドールとして激動の時代を食い物にした』
私は思う。
自分のお世話を自分で出来ない連中を、
『貴族』と呼称する慣わしはいい加減やめたらどうだろう。
『人類の寄生虫』という真実の名前で呼ぶべきだ。
ノーブレス・オブリージ(高貴な者の義務)などという言い草もタワケだ。
人のお世話がないと生きていけない人種に高貴な義務も何もない。
どうか自分のお世話を自分でできるよう努力されたい。
今まで人類にかけた迷惑を考えたらもうそれだけで十二分である。
次郎&正子も自分で自分のお世話ができない。
風の男次郎と韋駄天お正は、寄生虫階級の価値観の中で生きた。
正子は次郎を指してこう言う、本当の本物は贋物と見まがうばかりの妖しさがあると。
ホワイツ・クラブのようなトップクラスの場所に出入りした吉田と次郎は本物だと。
彼女は人類の寄生虫ザ・オーダーの価値観を共有しているのである。
そんな白洲正子に何の真贋を見きわめる目などあろうか。
◎さて白洲次郎は第二次吉田内閣の初代貿易庁長官に就任する。
ザ・オーダーのシナリオには「ここからが茂&次郎の本番」と書かれていだろう。
『ボクは昭和23年10月、第二次吉田内閣が成立した直後に、マッカーサーじきじきの”お名指し”で貿易庁の長官に就任する。貿易庁は商工省の外局にすぎなかったが、占領下わが国の貿易は、当時、まだ”政府貿易”しか許されていなかったために、海外への輸出は、政府のライセンスを必要とし、このライセンスの順番をめぐって、汚職のウワサが絶えなかったのである。貿易庁汚職のウワサは、国際的にも喧伝され、ワシントンでは”ボウエキチョー”という言葉が、一時、汚職の代名詞として使われた。ここに至り、マッカーサーは連合軍最高司令官の威信にかけ、占領下日本のスキャンダル摘発に乗り出すべく、ぼくを貿易庁長官に任命したらしいのである。が、それにもかかわらず、ついに貿易庁の汚職を根絶するまでには至らなかった。ぼくはやむなく、貿易庁の廃止を決意する。このほうが汚職を撲滅する早道と思われたからだ。そして貿易庁はやがて商工省に吸収され、通商産業省に衣替えするが、通産省誕生のきっかけは、実に貿易庁の汚職防止から始まったわけである。』(週刊新潮昭和50年8月21日号「占領秘話」を知りすぎた男の回想)
◎事実は真逆である。
再び徳本氏の前掲書より抜粋。
『日本国憲法制定に携わった後、白洲次郎は終戦連絡事務局を退任した。そして、第二次吉田内閣発足に伴い、1948年12月1日、貿易庁の長官に就任する事になっていた。その白洲は、以前から商工省の抜本再編論者で知られた。国内産業育成から、輸出産業の振興に軸足を移し、外貨獲得を目指すべきというのが持論だった。長官に就任した彼は、直ちに組織再編に取りかかった。翌年の19449年2月8日、通商産業省(仮称)の設置が明らかにされ、5月には設立されるスピードだった。その後、通産省は強力な輸出振興策を打ち出し、「日本株式会社」の代名詞になった。』
『だが一つの疑問が残る。この組織再編は、当の貿易庁はもちろん、商工省内でも反発が強かった。国内産業重視の看板を降ろすのに、官僚の抵抗が強かったからだ。現に彼らは、組織再編を進める白洲長官に最後まで抵抗した。ところが英国側文書によると、すでに1948年9月初め(つまり次郎が長官に就任する3ヶ月前)、貿易庁は駐日英国代表団に組織再編のアドバイスを求めている。』
『ちょうどこのころロンドンのボード・オブ・トレードに、駐日英国代表団から機みょな問い合わせがあった。組織再編を検討している日本の貿易庁が、英国のボード・オブ・トレードを模倣したいと言っている。至急、機構図や関連資料を送って欲しいという。当時貿易庁は商工省の外局で、本来商工省は国内産業育成を重視し、海外貿易は二の次だった。そこで抜本的な組織改革を行い、通商貿易全般をカバーする英国の組織を模倣したいとの事だった。』
『「貿易庁が英国式に再編される事で、わが国が日本の経済政策に影響を与えやすくなるかどうかの判断は、われわれよりボード・オブ・トレードが適している」「これが占領下の日本での、英国の地位向上にどれほど重要かは分らない。しかし、民主主義は米国の独占ではない事を日本人に示すため、あらゆる機会を生かすべきである」(1948年9月15日英国外務省報告)』
『明らかに(商工省の)組織として矛盾する、二つの力が働いていた。ここで一つの仮説が真実味を帯びてくる。それは、貿易庁に近い関係者が、独自に英国代表団にアプローチしたという推論である。その人物は、英国の政府機構を熟知し、ボード・オブ・トレードを貿易庁の再編モデルにしたいと考えていた。そして英国がGHQに焦りと反発を募らせている事も熟知し、彼らが飛びつくと見抜いていた。当時、日本側でこれだけの動機と知識を持った人間はごく限られてくる。白洲次郎である。戦前、日本水産幹部として渡英をくり返し、英国政府とGHQの内情に通じた彼なら可能性がある。』
『さらに興味深いのは、当時の日本市場を狙った英国企業の動きである。戦前、彼らは日本と活発な貿易活動を行ったが、GHQの占領下、身動きが取れないでいた。民間人の来日は厳しく制限され、現地の情報収集やコネクション開拓もできない状況だった。一方、米国企業は独自のGHQルートを築き、虎視眈々と日本でのビジネス拡大を狙っていた。このままでは、貴重は日本市場をむざむざ米国勢に明け渡してしまう。次第に英国企業は焦りを募らせ始めていた。日本国内に、彼らの目や耳として強力な代理人が必要だ。そして、これが白洲の人生の大きな転機となるのである。』
◎徳本氏は人格高潔なためか連中のシナリオが読めない。
吉田茂と白洲次郎の悪辣さが実感できない。
白洲次郎は予定通りの転機を迎えたに過ぎないのだ。
GHQで特権と情報を掌握して下地が整ったのだ。
◎徳本氏の前掲書の続き。
『白洲は戦後、数々の英国企業の顧問、アドヴァイザーを務めた。商社のジャーデイン・マセソン、石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェル、投資銀行のS・G・ウオーバーグなど錚々たる企業だ。しかも白洲はトップと個人的親交を結んでいた。S・G・ウオーバーグ創業者のシグムンド・ウオーバーグ卿、ロイヤル・ダッチ・シェルのジョン・ラドウン会長など経済界の重鎮ばかりだ。白洲はGHQの集中排除命令で四社に分割された日本製鉄の、広畑製鉄が富士製鉄に返還されようとしたのをジャーデイン・マセソンと合併させようと吉田首相に根回し話を進める。これに激怒したのが後の富士製鉄社長の永野重雄だった。永野の必死の政治工作で阻止した事、銀座のクラブで白洲と乱闘を起したことは前著で触れた。もう一つは四日市の級海軍燃料払い下げである。各石油会社が落札に奔走する中、三菱石油と組んだのがロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを協力に支援したのが白洲だった。紆余曲折の末、昭和石油が落札に成功する。その後、彼らは三菱シェルグループと連携し一大石油コンビナートを建設する。ここで白洲批判が噴出した。通産省を動かし力づくで落札させたとの告発だった。』
◎徳本氏の前著『英国機密ファイルの昭和天皇』より該当箇所抜粋。
『戦後、日本製鉄はGHQの集中排除命令で、八幡製鉄・富士製鉄・日鉄汽船・播磨耐火煉瓦の四社に分割される事が決まった。その広畑製鉄所は、当時、日産一千トンの高炉二基、二百万坪の工場を持つ最新鋭施設だった。奇跡的に戦火を免れ、やがて富士製鉄に返還されると見られていた。その広畑を白洲は、英国のジャーデイン・マセソンと合併させようとしたのだ。彼は吉田首相らに根回しして、話は順調に進んだ。』
『これに激怒したのが、後に富士製鉄社長を務める永野重雄だった。永野は「広畑を取れなければ腹を切る。将来の日本経済のため、製鉄業を外国資本に任せられるか」と政治工作を行い、ぎりぎりで阻止する事に成功した。後に永野は、銀座のクラブで鉢合わせちあた白洲を怒鳴りつけ、彼の頭をテーブルに押しつけてしまった。外貨獲得の大儀名文があるとはいえ、白洲のやり方に相当頭に来たのだろう。』
『前述した通り、講和条約締結の直前、ジャーデイン・マセソンは、日本のビジネスを進める上で白洲に目をつけていた。白洲の影響力に冠する東京支店長の報告は、ロンドン本社から英国外務省に転送されたくらいだ。その後、彼がジャーデイン・マセソンへの広畑売却に動いた事実を考えると、両者が裏で手を組んだと見るのが自然だ。』
『さらに白洲は政治情報も先方に渡していた。サンフランシスコ講和会議の翌月、1951年10月3日つけの東京支店長報告は、白洲から入手した日米安全保障条約締結の内幕を記述している。当時の白洲は、東京電力会長に就任した直後だが、講和会議に主席全権顧問として出席した。帰国後、ジャーデイン・マセソンの東京支店長と会い、講和会議について意見交換したようだ。』
『最近英国大使館のカクテルパーテイーで太田一郎外務次官は同席した英国人外交官に、こう吐き捨てたという。「吉田首相と一緒に仕事なんか出来ないですよ。あの白洲次郎が、私的な外務大臣のように振舞っていますから」(1951年2月6日英国外務省報告)。吉田首相は外務大臣を兼ねている。その正確は倣岸不遜、手法はワンマンで、圧倒的存在感を持っている。その私的外務大臣という白洲次郎とは何者か。占領中、主な外務官僚が追放された間に、この男が日本外交を牛耳っているのではないか。直ちに彼らは、白洲の経歴と性格を調査し、「東京・パーソナリテイ・レポート№70」という報告書にまとめた。その翌月の3月22日、今度は、ジャーデイン・マセソン商会という英国商社から報告が入った。差出人はエリック・ポロックという東京支店長だ。』
『その中に「只見川水力発電所」という記述がある。「次郎は、日本の権力構造で比類のない立場にある。公益事業委員会の松本烝治委員長や松永(安左エ門)委員長代理も、彼の影響力と友情に恩義がある。次郎は今、日本で最も強力な人間となりつつある」(1951年3月22日ジャーデイン・マセソン商会報告)。白洲をファーストネームで呼んでいるところを見ると、ポロックと白洲は、以前から面識があったようだ。その上でポロック報告は、英国の電力会社の代表団が翌月来日するが、只見川水力発電計画に彼らも参加させるべきだと提言した。何のことはない、東北電力で絶大な権限を持つ白洲を、商売に利用しろと言っているのだ。吉田内閣の私的な外務大臣、政財界に強力なパイプを持つ男として、白洲の存在は大きかった。日本に於ける強力な代理人として、彼の名は英国政府と企業に広がっていった。』
『さらに、白洲の政治工作は、四日市の旧海軍燃廠払い下げでも発揮された。この燃料廠は、旧海軍が太平洋戦争に備えて建設した施設だ。数隻のタンカーが同時に接岸でき、パイプラインで精製工場に陸揚げできるのが魅力だ。戦後、無傷でGHQに接収された燃料廠を、石油業界は熱い視線で狙っていた。日本石油、出光興産、日本鉱業など各石油会社が、何とか落札しようと奔走した。そのバックには、提携先の英米の国際石油メジャーがついていた。』
『その中で、三三菱石油と組んだのが英国系石油メジャーのロイヤル・ダッチ・シェルだ。そして彼らを強力にバックアップしたのが白洲だった。紆余曲折の末、1955年、昭和石油が落札に成功した。その後、彼らは三菱シュエルグループと連携して四日市に一大石油コンビナートを建設していくのだが、白洲への批判が噴出した。貿易長長官時代、彼の部下だった通産省の永山時雄官房長を動員し、力づくで落札させたとの批判だった。強引な行政指導を行った永山は、退官に追い込まれたほどだ。』
『これら白洲の働きぶりを、私が会った英国人は「次郎は、我々の良き”コンタクトマン”だった」と評した。持ちかけられた案件によって、ある時は情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作者となる。日本進出を狙う外資の総合コンサルタント業である。吉田首相の側近で、通産省の産みの親ろいう立場は、白洲が国際的ブローカーの地位を築くには最高だった。』
『その彼を批判する者は英国にもいた。元英国外務省職員の証言によると、ある元駐日英国大使は、白洲を「蛇みたいな男だ」と忌み嫌っていた。二枚舌を持つヘビと同様、自分の立場を使い分ける狡猾な男とい意味だ。また、ある英国人ジャーナリストは、苦笑いしながら、「次郎はとてつもなく傲慢で、1920年代のケンブリッジ・イングリッシュを話していた」と語った。次郎は終生、若い頃に英国で身につけた英語を話していたらしい。良く言えば格調高い、意地の悪い言い方をすれば、骨董品のような英語をはなしていたのだ。その白洲らしさが如何なく発揮されたのが、戦後の占領期だった。焼け野原の東京で、格調高いケンブリッジ・イングリッシュを話す、傲慢で狡猾な日本人と出会い、GHQの将校もさぞ面食らったはずだ。』
◎白洲次郎は流暢なケンブリッジ・イングリッシュを話す。
それをGHQ民生局の将校に褒められた時
「あなたも私のように勉強すれば上手くなりますよ」
と切り返したという。
これは次郎のカッコいい逸話として伝えられている。
しかし実のところは古色蒼然とした英語を話す自分が得意で、
それをからかわれているとは本人に分らなかったのだろう。
◎再び徳本氏『1945日本占領』より抜粋。
『「なるほど、その白洲とは一種のコンプラドールだったようだな」「コンプラ・・・何ですか、それは」一瞬面食らって訊ねた。デービスがにっこりと笑った。「コンプラドール、19世紀の中国っで外国企業は中国進出を狙っていた。時は帝国主義ノ全盛期、巨大な市場は大きな魅力だった。だがそこで彼らh厄介な障壁に直面する。言葉や商習慣の違い、現地有力者とのコネクションだ。それを同克服するかがビジネスの成否を左右した。ここで一部中国人が強力な助けを提供した。英語に堪能で有力者と太いパイプを持つ者だ。彼らは仲介者として中国進出を支援した。これがコンプラドールと呼ばれた中国人だった。その見返りに彼らは莫大な報酬を手にした。中でもジャーデイン。マセソンのコンプラドールは有名で中国の政治に関与する者も現れた」。』
『デービスの話を聞いて私は目の前の霧が晴れる気がした。19世紀の中国で外国企業のため働いたコンプラドール、占領下の日本で外資系を支援した白洲、両者の役割はピタリ重なる。持ち掛けられた案件の情報収集を行い、ある時は仕掛け人、工作人となる。日本進出を目指す外資の総合コンサルタントだ。そしてその働きにふさわしい報酬の支払われていた。私のインタヴューに応じた白洲の長女牧山桂子はこう証言した。「これらの会社と父には正式な契約書もなく個人の信用でやっていたはずです。定期的ではないけど報酬はもらっていたのではないかと思います。英国や米国の銀行に預金口座があったようです」。皮肉だが白洲がコンプラドールとして活躍できた理由、それは占領の賜物だった。』
以上抜粋。
◎白洲次郎は雑誌の対談で平然と「自分が貧乏なのはみんなが知っている」
「じぶんが一番嫌いなのは嘘つきだだ」などと言ってのけている。
次郎は大金持ちである。彼の英米の銀行口座には、
外資系企業からちょうだいしたリベートがたっぷり貯まっている。
白洲次郎の言動のほとんどは、傲慢なあるいは巧妙なウソでできている。
白洲次郎が付き合った文士たちは、揃いも揃ってボンクラである。
白洲次郎著『プリンシプルのない日本』には、彼ら文士たちとの座談会が収められている。
そこでは白洲次郎がいち早く日米開戦を予見し、悲惨な敗戦を見越して疎開していることを、
文士連中が「先見の明がある」「その通りになった」と激賞している。
次郎の自己申告を鵜呑みにして死後も虚像をベタほめしてやまない。
『若い友人の堤清二は語る。「私利私欲をもってつき合おうとする人間を白洲ほど敏感に見抜き、それに対し激しい反応を示した人を他に知らない。そして、そういう人間は白洲を怖い人と思うだろう。白洲が晩年に至るまで、仲良くつき合っていた人に共通した性格があった。私心のない人、大所、高所に立って、自分の考えや行動すらも客観的に捉えられる人、本当の愛情のある人。白洲次郎は真の意味での国際人であったが、『国際化』という言葉が叫ばれる今日、むしろ国際化の逆コースをたどっている。経済界で本当の”国際人”が何人いるか。白洲の目には寥々たるものに映ったであろう。日本の経済が発展し、孤立している、その孤立していることにすら気づかず、あるいは孤立していることを、諸外国が日本経済の発展をやっかんでいるとしか思わない、そういう人間を白洲は”イヤシイ奴だ”と言っていた。白洲次郎に、もしわがままな所があったとすれば、そういう”イヤシイ奴”と決して付き合おうとしなかったことだろう、・・・』(青柳前掲書より)
私利私欲をもってつき合おうとする代表者が白洲本人である。
『それに対し厳しい反応を示した人を他に知らない』というのは、
いかに私利私欲の塊であったかの証左として私は取る。
自分と同類項の人間を見ると鏡に映された自分を見るようで耐え難かったのだ。
私の知人に数年間かつての白洲次郎を接待したことがある人がいる。
接待場所はたいてい銀座のマキシム・ド・パリ、白洲は話す相手を区別していたという。
例えば裸一貫で成功した食品会社の社長には絶対に話しかけなかったという。
白洲はいわゆる『成り上がり者』を軽蔑していたという。
白洲の人品を物語るエピソードである。
『イヤシイ奴』とは白洲次郎のことだ。
どんなにイヤシイ小心者であるかを、茂&次郎コネクションの辰巳栄一が青柳にバラしている。
青柳恵介にはそれをイヤシイと思う思考回路がない。
『風の男 白洲次郎』なのである。
◎青柳恵介の前掲書より抜粋。
『昭和62年の夏、私は白洲正子夫人に伴われて世田谷区成城にある辰巳栄一氏のお宅を訪れた。辰巳氏は小柄な方であったが、92歳とはとても思われぬ、カクシャクとした様子だった・・・辰巳の知り合いで、戦前から疎開を実行し、実際に百姓を始めたのは白洲次郎一人であった。「まあ、白洲次郎さんというお人は、実に単刀直入な方で・・・」と嬉しそうに、野菜を放り投げて足早に去って行った人の後姿を追うように辰巳氏は遠くを眺めた。』
『「ただ一回だけ、私は白洲さんをお助けしたことがあるんです。戦争も末期になって、或る日白洲さんが家に見えて、”辰巳さん、俺、召集されちゃったよ”と言われるんです。”白洲さん、あなたもう40を過ぎてるじゃありませんか。丙種でしょ”というと”ああ丙種”と。東部軍の参謀長なんていう役職についていると、方々の人から召集についてはいろいろ頼まれるんです。軍人の奥さんなんかからですね。私は一切そういうのを断っておったんですが、白洲さんの時は早速に召集主任に連絡を取りました。白洲次郎という人を説明し、そんな人を招集するなんてけしからんじゃないかと言いました。それで召集取り消しになったんです。そうしたら白洲さん喜ばれましてね、いろんな缶詰を山のように持ってこられまして、”これは辰巳さんの分、これはその召集主任にやってくれ”と、とても感謝されました。」』
『辰巳の話を聞き、白洲正子夫人は一寸びっくりして「あら、私そんなこと何も知りませんでした」と呟いた。すると、辰巳氏は間髪を要れず、「そうです。あの方はご自分のことなど一切お話になりません」と断言したのだった。』
◎白洲次郎は『ご自分のことなど一切お話になりません』のである。
辰巳栄一が断言したことを胆に銘じてほしい。
白洲次郎の伝説は後年になって本人が吹聴した作り話であることを。
辰巳の箴言を念頭に置いて、白洲伝説を翻訳し直してほしい。
差し出すものは命だけしかない民草は、戦いに赴いて多くは異国の地で果てたのである。
そして召集令状をチャラにした非国民白洲次郎が、戦後の「占領を背負う男」になった。
吉田の私的外務大臣として最高権力を掌握し外資系企業との利権に繋げた。
吉田茂&白洲次郎の最強の売国奴コンビの独壇場である。
彼らは田布施王朝以来の、コンプラドールの掟と伝統をよくわきまえている。
アヘン王の出先機関ジェーデイン・マセソンの日本進出を助ける掟。
国際金融犯罪組織の便宜を図っておこぼれを頂戴して優雅な生活を送る伝統。
こんな野郎に「プリンシプルがない日本」と言われたらお終いである。
『ボクは人から、アカデミックなプリミテイヴ(素朴)な正義感をふりまわされるのは困る、とよくいわれる。しかしボクにはそれが貴いものだと思ってる。他の人には幼稚なものかもしれんが、これだけは死ぬまで捨てない。ボクの幼稚な正義感にさわるものは、みんなフッとばしてしまう。』(昭和26年11月18日号週刊朝日)
私は自分の不明をお詫びして訂正しなめればならない。
白洲次郎は自己申告のプロパガンダの達人である。
ソエジなどは足元にも及ばないほど狡猾である。
白洲次郎に正義感などあろうはずもない。
彼が貴いと思うものは、階級と権力と金である
そもそも素朴で幼稚な正義感を貴いと思う者が、
白洲次郎のような利権漁りを生業とするだろうか。
第三者の目撃談が語る白洲次郎の人物像は、
傲慢で特権意識に凝り固まった貴族主義者である。
特権階級と成り上がり者を峻別して対応したという。
(友人や女性には例外的に接したようである)
しかしユダヤ財閥の元をたどれば、ゲットーからの成り上がりである。
白洲次郎がカブレていた英国貴族たちも同様である。
彼らのそのほとんどは濃淡の差はあれ、ゲットーのユダヤ人の血が混じっているのだ。
白洲次郎が成り上がりものをバカにするのは、目くそ鼻くそを笑うの類である。
名家といわれる家系もずっと元をたどれば、
ネアンデルタールとかアウストラロピテクスに行き着く。
白洲次郎とは何者か。
ユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。
「占領を背負った」「日本一カッコいい」「風の男」とは、、
戦時中の召集を免れて安全地帯に隠れていたくせに、
戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、
あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。
商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、
商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、
外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。
白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。
2・26の時から抹殺される要人は決定されている。
戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。
この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
近衛は五摂家筆頭の血統が昭和天皇の劣等感を刺激したのだろう。
白洲次郎と牛場友彦と松本重治は近衛親子に貼り付いて工作している。
白洲次郎は弱虫なので汚れ仕事の現場には行かない。
吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、
寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。
寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、
戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。
このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。
吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。
おまけ......ルイス・ファラカーンの叫び(ただしイエズス会には一切触れていない)
http://mizu888.at.webry.info/201310/article_110.html
おまけ......情報知恵袋
http://www.knack4life.com/