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堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その3

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(4)    評論家・落合莞爾

繋がっていますのでその1よりお読みください

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/952.html

関連記事:3種の神器と小野寺直

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/951.html

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-967.html

 江戸幕末に生じた諸々の現象の根底に横たわる対立は三点あった、①開国の是非、②幕藩体制の存廃、⑤皇統の南北論これである。そのうち最大の対立点は、実は皇統の南北論であったが、下記の「堀川政略」が奏功し、奇跡的な円滑さで南朝復元が実現する。その真相を、朝廷も明治新政府も厳重に隠蔽したのは、「万世一系思想」の通俗的理解に捉われ、ないしは迎合したからであろう。爾来百四十四年、インターネット社会が到来して偽史隠蔽はもはや無理となり、真相を探究し公開する事業が私(落合)に託されたのである。

 皇統の南北交代を目的とする政略の核心は、孝明天皇が崩御を装い皇太子睦仁親王や閑院宮皇統の一部と共に堀川御所に隠棲され、奇兵隊士・大室寅之祐が皇太子と入れ替って明治天皇として即位することであった(先月稿では「堀川戦略」と呼んだが、今後は「堀川政略」と呼ぶ)。「堀川政略」の立案者は孝明天皇以外にはあり得ず、近親閑院宮皇統と岩倉具視ら側近公卿がこれを輔翼したのである。おそらく天皇は、外寇の接近と幕藩体制の破綻の迫る中、蒼生に潜在する南朝復元願望が噴出してきた新事態を見抜かれ、救国のために南北朝の合体を図られたものと察せられる。

 南朝思慕の念は、教科書歴史に拠れば、幕末に至り水戸学・国学の影響から下級武士・郷士・神官・上級町人らの間に芽生えたとされるが、実の処は北朝に対する歴史観的違和感と足利政権に対する反感が室町時代以来、識字階級に潜在していた。理由は、三代将軍足利義満(一三五八~一四〇八)が真の北朝皇統を暗殺してわが子を皇統に送り込み、後小松帝(一三七七~一四三三)と伏見宮貞成親王(一三七二~一四五六)としたとの簒奪説にある。義満が現に受けた待遇、すなわち①実子が天皇になった皇族が受くべき「太上天皇」の謐号を受けたこと、②継室日野康子が「後小松天皇の准母」とされたこと、が簒奪説を裏打ちする。これを進んで義満の家礼になった上流公卿たちの阿諛と言い繕う者もいるが、わが朝にあっては、古今を通じて、いかなる権臣にもこの待遇をしない。

 義満簒奪説に立つならば、実態は南北朝の対立ではなく、後醍醐皇統と足利王朝との対立となり、ことは天皇の「万世一系」性に関わる重大事なのである。南朝思慕の念は、足利将軍が権力を保持していた時期には表面化せず、江戸時代に入っても、足利政権を復活した形の徳川政権に対する畏れから、表明する者は少なかったが、水戸藩二代藩主徳川光圀が楠公忠臣論を公に鳴らすや、一転して南朝正統論が世を風靡する。光圀が建てた水戸学は、水館派の朱子学的と江館派の陽明学的に別れるが、前者の名分論から導かれた南朝正統論が、後者の知行合一精神と結びついた時、水戸藩内に南朝復元計画が秘かに芽生えても不思議はない。

 幕祖家康の定めた江戸幕府の秘密憲法『元和元年応勅公武法制』は、水戸中納言を副将軍とし将軍廃立の権限を与えた。すなわち水戸中納言は自ら将軍に就かず、幕府の悪政を認定した時には尾張・紀州の両家から新将軍を選び、両家に適材なき時には広く諸侯から将軍を選ぶ権限である。歴代の水戸藩主が歴史研究を怠らなかったのも、畢竟将軍廃立の職責に備えたものと観るよりない。しかるがゆえに、水戸学の南朝正統論は決して空論でなく、その真意は政体変改を機に現行北朝を排して南朝皇統を復元することで、光圀が後南朝の熊野宮信雅王の子孫を探し当てて会津藩領澤村に保護した主旨もそこにあった。「公武法制」の内容を窺い知った雄藩も将軍廃立の日に擁すべき新天皇を予備すべく、隠れた南朝皇統を探し求めた。古来、反乱勢が天皇に請うて倒幕の綸旨を賜る例から、北朝天子を擁する徳川氏に対抗するには南朝発給の綸旨を必要と考えた、井伊氏の尊良親王系三浦天皇、毛利氏の光良親王系大室天皇、伊達氏の後亀山系小野寺天皇のほか、紀州徳川家が高禄を給した護良親王系井口氏も、皆これ南朝の末裔である。土佐勤王党員で宮内大臣を長く務めた伯爵田中光顕は、後年三浦天皇を称する三浦芳聖に、「吉田松陰先生は、足利偽朝を倒して長州萩にいる南朝後裔を天皇に立てねばならぬと言われた」と語ったという。江戸幕府でも、変乱の際に新天皇として擁立するため、東叡山寛永寺に皇子を招いて、輪王寺宮法親王とした。

 皇統南北論は、幕藩体制の中核をなす下級武士・下級公家らの体制批判、すなわち待遇改善要求とも連動していた。米穀生産を財政基盤とする幕藩体制において、主な俸給生活者は武士・公家及びその使用人らであった。貨幣経済の浸透と商品生産の多様化が進むと、国民総生産における米穀生産の比率は低下するが、これは、俸給を玄米で受け取る俸給生活者階級の国民経済に対する地位が相対的に低下することを意味するから、武士・公家の、ことに下層部の窮乏化は著しく社会的地位も低下し、代わって経済的・社会的地歩を高めたのは、増大する商品の取引の自由を享有しながら租税負担の少なかった商人階層であった。

 俸給生活者階級の経済的窮乏化を救う措置を何ら講じ得ない幕藩体制に対する不満は、滔々とした暗流となって湧き上がろうとしていた。安政三年(一八五六)、将軍家定に輿入れ予定の篤姫(後の天璋院)を近衛家の養女とする一件で、主君島津斉彬の密命を受けた西郷吉之助が京都で見た情景がそれであった。幕藩体制を支える知識階級下層部が経済的窮乏のために動揺を始めれば、幕藩体制は安定を失い、体制の上層部が着々と進めている公武合体運動も、上滑りに終るしかない。西郷がそれを知ったのは、おそらく建春門外の学習院であろう。下級公家の研修所として弘化四年(一八四七)に開講した学習所は、嘉永二年(一八四九)に孝明天皇から「学習院」の勅額を賜る。安政初年には各藩の志士が秘かに出入りするようになり、下級公家と交流し、国事を論ずるに及び。体制維持のため公武交流の場が、体制批判の場に変じたのである。

 水戸中納言斉昭は、「公武法制」所定の職責を果たすべき時期の到来に備えた。弘化四年、水戸斉昭の十歳の七男慶喜が、将軍家慶の命で御三卿の一橋家に養子入りする。嘉永六年(一八五三)家慶が病死すると、後嗣の家定が病弱のため、将軍後継問題が生じた。将軍就任資格を有する一橋慶喜が最有力候補となるが、大老井伊直弼ら南紀派の推す紀州慶福(後の家茂)との争いで一橋派は南紀派に敗れる。さすがの斉昭も、幕政の現状を未だ悪政に至らぬと見て、「公武法制」を持ち出すことはしなかったのである。

 泉湧寺所蔵の孝明天皇御尊影を描いたのは側近の堤哲長である。家禄三十石で家格名家の下級公家の哲長は、貧乏を凌ぐために秘かに町医者渡世をしていた。天皇が世情を熟知しておられたのは、側近公家の情報によるもので、公家の背後に光格天皇の登極を機に堂上方忍者となった丹波大江山衆がいた。堤哲長は、妾の渡辺ウメノが丹波穴太村のアヤタチ上田吉松の従妹に当るところから、ウメノを通じて大江山霊媒衆の情報を得ていたのである。

 当初は公武合体を期しておられた孝明天皇が側近と「堀川政略」を謀られたのは、仄聞するに学習所が開講した弘化四年(一八四七)で、嘉永五年(一八五二)ころに六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘密御所を営む計画が立てられた。すなわち、将来の開国に伴う皇室の東遷に備えて、閑院宮皇統を京都に残すための施設「堀川御所」である。その後、社会の根本的改革のためには政体の抜本的改変が必要と判断された天皇が、幕藩体制の破棄を決断されたのは安政五年(一八五八)前後のことで、同期して皇妹和宮の降嫁および幕末通貨問題が生じた。「堀川政略」の骨子は南北皇統の入れ替えで、崩御を装った孝明天皇と皇太子睦仁親王が堀川御所に隠棲し、皇太子と入れ替えた長州藩奇兵隊士大室寅之祐を東京に遷し、次代天皇(明治天皇)として即位させるものであった。

 当初降嫁予定の皇女富貴宮が夭折したため、皇妹和宮が新たに降嫁候補に挙げられたが、有栖川宮との先約のために縁談は難航する。そこで和宮の代わりに候補となったのは生まれたばかりの壽萬宮で、岩倉具視の実妹堀河紀子を母とする正に「堀川政略」の申し子であったが、余りにも若過ぎるため幕府の強い希望で和宮に決定した。その萬壽宮を、翌文久元年(一八六一)に夭折したと装い、秘かに堀川御所で育てたのも、「堀川政略」の一環である。天皇義弟となった将軍家茂は、「堀川政略」を理解してあらゆる努力をした。天皇の偽装崩御に合わせて、自らも大坂城で脚気急死を装ったのである。

 幕末の通貨問題は、既に述べたから簡単にする。金本位国の日本では、銀地金の不足に対処するため、金貨単位の一分(四分の一両)を表示した名目通貨の一分銀を大量に発行した。「金一分」と表示するものの、その三分の一の含有銀量しかない一分銀は、実質は銀製の紙幣というべきものである。日米修好通商条約の通貨条項は、アメリカの要求で同種通貨を同量通用としたから、一$銀貨が一分銀三枚と交換できた。一$銀貨を一分銀に両替し、天保小判に再両替すると四分の三枚となり、それを上海で金地金として売ると、三$になって元金は三倍になる。実際には、天保小判が品不足のため、両替相場には小判にプレミアムが付き、三倍とまではいかなかったが、総領事ハリスを筆頭に居留外人たちはこの取引に狂奔した。

 万延元年(一八六〇)一月、条約調印と通貨交渉のために、新見豊前守を正使とする幕府使節が出発したが、その四日後、天保小判一両を三・三七五両に通用させる増歩令が出され、四月には万延小判(雛小判)が新規発行される。小栗忠順は遣米使節に目付として同行するが、これに先立ち、元中間の三野村利左衛門に命じて、秘かに天保小判を買占めさせた。三月三日に井伊大老を暗殺した水戸浪士が、井伊の罪状の第二条として小判買占めの私曲を掲げたが、取り調べの結果、「上のために行った」と判り、井伊に咎めはなかった。

 大老の命令で買占めを実行した小栗は、利益金を隠匿したために、慶応四年(一八六八)官軍の命を受けた高崎藩・吉井藩らの藩兵のために斬首された。小栗は利益金を赤城山に埋蔵したと偽装して、秘かに京に送り、本願寺に保管して「堀川政略」の基金としたのである。これだけの大事を悠々実行した小栗忠順が、雑兵の手に徒死する筈もなく、姓名を変えて再び渡米し、明治史に残る一大事を成すのであるが、其れは後日に述べる。

 つらつら思うに、治承寿永の乱と言い、幕末維新の変乱と言い、実態は想像を超えた大計画の下に諸事が運ばれた一大リストラ戦争であった。計画した中心人物は、自らの死を以て世間を欺隔する必要があったが、実際に死ぬ必要はないから生き延びた。平家の公達は固より、孝明天皇・睦仁親王・壽萬宮・徳川家茂・小栗忠順らは皆それである。

堀川辰吉郎と閑院宮皇統(5)      評論家落合莞爾

 明治維新を遡ること十年、安政五年(一八五八)は頗る多事の年であった。一月、水戸藩を中心とする攘夷論を抑えるために朝廷の威光を借りようとした幕閣が、日米条約締結を朝議に出した処、岩倉具視・中山忠能ら中下級公家八十八人が条約案の撤廃を求めて列参、座り込みをしたので、孝明天皇は条約締結反対を決断し二十日に不許可の勅答を下した。中下級公家の列参が天皇を動かして条約勅許の阻止を実現したことで幕府の権威は失墜し、世情は幕末に向かって大きく前進を始めた。

 通説は、この列参を中下級公家の幕府に対する鬱屈から出たものと説くが、むしろ彼らの待遇改善要求が条約勅許を機に噴出したと観るべきである。公家社会を幕藩体制の一角に押し込めていたのは、幕府の法制「禁中並びに公家諸法度」であるから、この列参も広く謂えば幕府に対する反抗ではあるが、彼らが処遇の改善を要求した相手は幕府でなく、五摂家・九清華家ら上級公卿であった。自分たちを抑圧しつつ、朝幕間を周旋して利得を専らにする上級公卿に対し反感を募らせた中下級公家は岩倉に煽動され、条約反対を名分に幕府掣肘の形勢を示し、以て上級公卿を震憾させて処遇改善を取り付けようとしたのである。かかる些事が幕府権威の失墜を引き起こしたのは予想の外で、これが幕末現象となった。以後の朝廷は、公武合体と勤皇倒幕の間を揺れながら維新に向かうが、その中心に孝明が端然と座し閑院宮皇統を従え岩倉具視ら側近公家を用いて「堀川政略」を進めていたことを洞察し得ず、左右からの風圧に靡く葦なぞと見做していては、歴史は解けない。

 上級公卿に対する贈賄の甲斐もなく日米条約が不勅許となり、老中堀田正睦が京洛の地で悩んでいる間に、江戸では将軍家定の継嗣を巡り老中松平忠固と紀州藩附家老水野忠央らの南紀派が井伊直弼の大老就任を工作していた。その功成って四月二十三日に大老に就いた井伊は、将軍継嗣を紀州慶福(家茂)に決し、日米条約の締結を強行する。井伊に反感を抱く水戸斉昭は、子息の水戸藩主徳川慶徳を始め、尾張藩主徳川慶勝・越前藩主松平慶永ら親藩を糾合して無勅許締結の非を鳴らすが、井伊幕閣より隠居謹慎の処分を受け、これが安政の大獄の発端となった。公武合体論者の老中阿部正弘と組み、一橋慶喜を病弱の将軍家定の継嗣とするために、養女篤姫を家定の御台所に送り込んだ薩摩藩主島津斉彬は、井伊に抗議すべく薩摩兵五千を率いて上洛せんとしたが、出発を前にして病を発し、七月十五日を以て急死する。異母弟久光派による斉彬の毒殺は、邦家のために惜しむべきことであった。

 南紀派の井伊直弼が大老に就いたので六月二十日家茂が将軍継嗣に決まり、六月二十五日諸大名を招集してその旨を公表した家定は七月五日一橋派の諸大名の処分を決定し、翌日急死する。死因について、大奥御使番の藤波が実家に宛てた手紙に「ごく内々ながら、御どく薬にて・・・水戸・おはり・一ッ橋・越前、まづヶ様なる所、皆くみして居候云々」とあるのが措信に耐え、家茂の決定を憤った一橋派が、不要になった家定を、井伊大老に対する警告の意味で毒殺を敢行したと見て良い。将軍急死が公表された八月八日、孝明天皇から水戸藩に宛てて「戊午の密勅」が下された。内容は①条約無勅許締結に関し幕閣の責任追及、②公武合体の主旨で幕府支援、③攘夷推進の主旨の幕政改革を推進するよう、水戸藩に命ずるものであった。之を知った井伊が、諸藩への直接的な勅命は幕藩体制の根本を揺るがすとして弾圧を決行したのが安政の大獄で、翌六年は攘夷派の朝野要人と志士の逮捕・処罰で終始した。

 新将軍家茂に対する内親王降嫁は、安政の大獄下でヒビの入った朝幕関係を修復するための公武合体策の決め手として浮上したと通説はいうが、そもそも公武合体策は六代家宣の侍講新井白石が唱えた政治理念で、享保十年(一七二五)十月十八日の霊元上皇と将軍吉宗の修学院中之御茶屋における極秘の直接会談で合意した朝幕間の基本契約である。具体策の一つが朝幕縁組で、これを受けて閑院宮家の五十宮倫子女王(上皇の曾孫)が十代将軍家治(吉宗の孫)に入輿するが惜しい哉男児に恵まれず、二女子も夭折した。朝幕ではその後も降嫁の機会を待っていたから、安政五年六月に将軍後継が家茂に決まるや、内親王降嫁が浮上して当然であった。当初は、この年生まれた富貴宮(御母九条夙子)が候補で、適齢の皇妹和宮は既に有栖川宮と婚約中のため遠のき安政六年四月二十七日に翌年冬の人輿の予定が決まる。富貴宮は八月に夭折するが、これに先立つ五月、議奏久我建通らが宮中で和宮の降嫁を内議して、以後は和宮が降嫁候補となる。万延元年(一八六〇)四月十二日、京都所司代酒井忠義から関白九条尚忠を通じて和宮の降嫁を願い出たが、有栖川宮との婚約などを理由に却下した天皇は、重ねての奏請に遭い、侍従岩倉具視の意見を徴したところ、「幕府が条約を破棄し鎖国に復元するならば認めるべき」との奉答があった。岩倉は少壮公家と謀り、朝威を借りんとする幕閣の意図を逆手に取り「攘夷の実行と朝廷の許可なしに重要国事を決定しないことの確約」の条件をつけて降嫁を認めるよう、天皇を説得したのである。幕府から「十年以内に破約し、攘夷を実行する」との奉答を得た天皇は、降嫁をあくまで固辞する和宮に対し、「前年生まれた壽萬宮を降嫁させ自らは譲位する」との決意を示したので、和宮は天下のために降嫁を承ることとなった。万延元年(一八六〇)八月十八日、天皇は結婚了承の内意を伝え、十一月一日に降嫁が公表された。

 降嫁に尽力した久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直の四公家と堀河紀子・今城重子の二女官は、和宮を人質に差し出した「四奸二嬪」として尊攘派から非難され、文久二年(一八六二)尊攘気運が高まると、三条実美ら尊攘派の公家十八人が連名して処罰を求める願書を八月十六日に提出、「四奸二嬪」は蟄居、落飾を命じられた。堀河紀子は岩倉具視の異母妹で天保八年(一八三七)に生まれ、嘉永五年(一八四八)に出仕して孝明の寵愛を受け、安政六年(一八五九)三月二十二日に壽萬宮を産むが文久二年(一八六一)五月一日夭折。同年十月八日に産んだ理宮も翌三年に夭折した(公表事歴)。

 ところが両宮の生存を暗示する状況証拠があり、ことに壽萬宮はその後の事歴と写真から昭和十年代までの生存が明白である。安政五年ころ「堀川政略」が始動し堀川御所の建築が進められる中で、孝明直孫を残すための要員と決まった両姫宮は、文久二年から三年にかけて夭折を偽装して所在を移されたのである。安政六年五月、降嫁候補が和宮に交代したのも、「堀川政略」の都合と考えられる。通説が、①幼過ぎる富貴宮よりも、適齢の和宮を幕府が強いて望んだと謂う片方で、②富貴宮が夭折したから、とするのは相矛盾している。朝廷が、当初候補の富貴宮の存世中(八月夭折)に和宮に切り替えて内議した理由が、富貴宮の健康問題にあるのなら、三月二十二日に生まれた壽萬宮を身代わりにすべきである。和宮に切り替えた理由を、幕府が公武合体の果実たる御子誕生に好都合な和宮への交代を望んだからと謂うが、右の経緯からすると、交代の理由はむしろ朝廷側にある。むろん朝廷側でも御台所の年齢を意識したことは有り得るが、むしろ「堀川政略」の具体化の中で、孝明の直孫を残す目的から、夭折を装った二皇女を堀川御所に隠すと決まった可能性が高く、それならば富貴官の薨去も疑わしくなる。和宮が一転して関東降嫁の候補とされたのは、孝明の妹で直流?ではないため、堀川御所に入る皇女の身代わりとなったのではないかとも推察される。

 慶応二年十二月二十五日、孝明崩御の場所は御所ではなく、堀河紀子邸とされる。四年前に宮中退出と掌侍辞職を命ぜられて霊鑑寺の尼僧となった筈の紀子が、孝明天皇の御幸を待つために秘かに構えた私邸である。その「紀子邸に住んでいた孝明の二人の幼い姫宮が、孝明暗殺の数日前に堀河家に移された」との説(宮崎鉄雄『明治維新の生贅』)が、壽萬宮と理宮が生存していた傍証となる。孝明の死因は、表向き天然痘とされるが、当時から暗殺の噂が立ち、死因として毒殺説と刺殺説が挙げられた。昭和十五年、大阪学士会の講演で毒殺説を立てた医事史家佐伯理一郎博士は、宮中侍医伊良子光順の日誌を解読した結論として、「天皇が痘術に罹患した機会を捉え、岩倉具視が堀河紀子を操り、天皇に毒を盛った」と断言し、「岩倉の姪(?)で、霊鑑寺に尼僧をしていた当の婦人から聞いた」と付け加えた。一方刺殺説は、寵姫私邸の便所に潜んだ長州藩の刺客伊藤博文が、槍で刺殺したと謂うもので、急遽現場に喚ばれて診察した複数の外科医の証言を掲げて、謀主を岩倉具視と指摘する。『中山忠能日記』にも「御九穴より御脱血」と、刺殺を仄めかす記載があり、その他の風聞や間接証拠も世上に多く、いつまでも決着がつかない。

 実はこれも「堀川政略」の一環で、孝明の生存を隠蔽するために関係者が故意に虚報を流布したのである。まず天然痘説は無論虚報で、状況も造りものである。毒殺説は、犯人とされる岩倉兄妹自らが流布したもので、刺殺説の『中山忠能日記』などもその伝である。内科・外科の医師数人が招かれた現場は作り物で、死体はむろん替え玉であった。医者の証言は騙されて行なった偽証であるが、佐伯博士に対する紀子の証言のごときは故意の偽証である。毒殺説と刺殺説の両方を流したのは、論争を招いて決着を付かなくするための、極めて巧妙な手口と見て良い。後人見事にこれに嵌められ、両説激しく論争するが、孝明生存の真相を見抜いたものは今まで本稿以外にない。
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