関連記事:大塔宮政略
http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/3176
明治天皇の系譜は一応こうなっている
http://www.geocities.jp/japanischekonigsfamilien/japan/122.html
明治天皇は中山慶子が鍵
http://ameblo.jp/64152966/entry-11373379484.html
『さらに鬼塚氏は興味深いことを書いている。
明治天皇の生母とされる中山慶子(つまり孝明天皇の種をもらった女性)の墓が東京・文京区の豊島ケ岡墓所にある。ところがこの明治天皇の生母の墓を、明治天皇を始め皇族まで誰も参拝に行っていないのだという。現在の中山家当主は、鬼塚氏の問い合わせに「生母に関しては箝口令がしかれていて、一切答えられない」と言ったそうだ。これはつまり、明治帝がやはり孝明天皇と中山慶子の子ではないことの証明である』.....当たり前ですね,孝明天皇は生きていたのです。つまりすべて孝明天皇の陰謀だったということでした。じゃんじゃん!!
南北朝時代 (日本)
日本における南北朝時代(なんぼくちょうじだい)は、日本の歴史で、皇室が南北2つに分裂した時代である。一般的には鎌倉時代の後で、元弘の変や建武の新政も南北朝時代の事件として含まれる。正確には、1336年(延元元年/建武3年)に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野転居により朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代を指す。これは室町時代の初期に当たる。
この時代の朝廷には、南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在する。それぞれ正統性を主張した。南朝を正統とする論者は「吉野朝時代」と称する(→南北朝正閏論)。後述のように皇室は南朝を正統としている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%29
南北朝の天皇 をご覧ください(Wiki元記事)
http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-751.html
疑史 第68回 ★清朝宝物の運命 落合莞爾
前月まで二回に亘り奉天宮殿の清朝秘宝について述べたが、実はこの他に、成立の経緯を異にする宝物が奉天にあった。それは乾隆皇帝が極秘に隠匿秘蔵した数千点に及ぶ各種美術品で、成立の時期を「四庫全書」が完成した乾隆四十七(一七八二)年と推定する根拠は、乾隆帝がこの年に奉天に文遡閣を建て、宮殿の改装など大工事を行っているからである。つまり、奉天宮殿の大工事に紛れて宮殿外の数か所に宝物の秘納庫を設けられたものと推量するのである。
正確な場所は分からないが、天正五年暮れから六年二月にかけてその宝物を接収した奉天省長兼督軍の張作霖が、一部を奉天軍司令部(張氏帥府)に移したものの、残りを北陵内の番小屋に保管していたことから見て、秘納庫は元々広大な北陵の中に、数か所に分けて設けられていたものと思う。奉天北陵は清朝第二代皇帝皇大極の廟所であって、清朝時代には番兵が常駐して厳しく警護していた。例えば紀州藩が下津長保寺を、金沢藩が卯辰神社を重代の宝物の秘庫としたように、秘宝の隠し場所は古今東西に亘り、古社寺と相場が決まっているが、蓋し北陵は宝物隠匿に最も相応しい施設であった。
宝物の倉庫として既に奉天宮殿を利用しているのに、乾隆帝がわざわざ隠し蔵を設けた理由を、皇帝が漢族意識に染まったからだと吉薗周蔵は説明している(『周蔵手記』)。則ち、表面に見せる何倍もの財貨を隠す漢族富豪の風習として、貴重な財物は絶対他人に見せないが、それにも法則がある。所有財物を四級に分け、A級は存在さえ絶対に見せない。B級は、普段は隠しておき必要に応じて敵の上使(交渉相手)にやや見せる。相手に褒めさせて強引に押し付けるという巧妙な贈賄が目的である。C級は日頃から応接間に飾り、D級のごときは居間に転がしておいて、客の目に留まったら躊躇なく与える。清朝の支配者満洲族も永年漢族に囲まれて暮らす裡に漢族の気質に染まり、紫禁城にはC級を日常に飾り、B級を秘蔵し、A級宝物にあっては存在そのものを隠す癖が付いたと云うのである。
大正九年七月奉天に派遣された吉薗周蔵に上記の説を吹き込んだのは、既に紹介した満鉄総裁秘書の上田恭輔であった。それを聞いた周蔵が、漢族特有の財貨隠匿習慣だけに絞ったのは説明として不完全で、その根底にある面子―メンツー意識を知らねば、完全な理解は無理だろう。識者によれば、面子意識の本質は、極度に形骸化された虚栄心が漢族の根底的行動規範として固定したものらしい。虚栄心には様々な形態があるが、その最たるものは磊落を気取る事で、要するに吝嗇の謗りを受けたくなく、その結果として「他人に所有物を褒められたら無条件で与えよ」との行動規範が固定化したが、形骸化した虚栄心に過ぎず、本音は与えたくない。そこで、絶対に他人に与えたくないA級品は、その存在を隠すことで、規範と本音の矛盾を回避したわけである。乾隆帝の如く一天万乗の主であっても、意識が漢族化したからには、その根底的行動規範に従わざるを得ず、因って自らA級品を選んで泰天城に送り、厳重に隠匿した。上田のそんな説明を、周蔵は単純化して理解したのである。
乾隆帝の奉天秘宝は、A級品ばかりであるから、愛親(新)覚羅氏の中でも本流しか存在を知らされていなかった。明治四十四年、辛亥革命の結果清朝が倒壊した時、その存在を知っていたのは幼帝溥儀の実父・醇親王と僅かの側近だけであった。前年紫禁城に入り、内廷の小院に住んでいた堀川辰吉郎がその存在を告げられたのは、愛親覚羅氏の本貫の地たる満洲(清朝の東三省)の宗主権を確保するための原資として、その活用を委ねられたのである。
既に観たように、奉天宮殿と熱河避暑山荘の清朝什宝は革命直後、早くもその処置が列強の関心を呼び、陶磁器と文遡閣の書籍に対してはわが皇室も取得希望を漏らしたが、大正2年に大総統・袁世凱が国務総理・熊希齢に命じて北京に移送させ、終に放出しなかった。乾隆帝の奉天秘宝がその間も奉天北陵に静まり返っていたのは、それだけ秘密が保たれていたのである。大正三年欧州大戦が勃発、日本の対華二十一箇条要求や袁世凱の帝政復帰工作が進む中で、堀川辰吉郎の命を受けた大谷光瑞が、乾隆秘宝を用いた工作を秘かに立案していた。
この辺で堀川辰吉郎の正体を明かさねば、本稿はもはや諸賢に認めて貰えまい。辰吉郎は明治十三年、孝明帝の血統を享けて京都の堀川御所に生まれた。明治二年、西郷・吉井・大久保の薩摩三傑が宮中改革を図り、孝明帝の女官を京都に留めたことは周知であるが、その女官たちは、維新後も京都堀川御所に住した京都皇統に仕えたのである。堀川御所は明治天皇の行在所を名目に設けられた施設で、堀川通り六条の日蓮宗本圀寺旧境内にあった。足利尊氏の叔父・日静上人が鎌倉本勝寺をこの地に移し、皇室鎮護の霊場として本国寺と称したが、水戸光圀により本圀寺と改めたこの名刹は昭和四十六年に山科区に移転したが、旧境内は実に広大で、現在の西本願寺もその一部を割譲されたものである。堀川御所は昭和三年に廃止されたと聞くが、皇統の本拠としての意義を果たし終えたからであろう。
注:長州ファイブ(通称マセソンボーイズ)
http://bakumatsu.org/events/view/400
彼ら5人はジャーディン・マセソン経由で英国へ渡るがその裏にはライオネル・ロスチャイルドがいたのです。そして山口県田布施町(朝鮮人部落)の伊藤博文を初代総理大臣にしてゆきます。それが勝者の歴史の始まりでした。
管理人注:ジャーディン・マセソンの関連記事
http://yaplog.jp/kenchicjunrei/archive/161
京都皇統の中核的人物として生まれた辰吉郎は、井上馨の実兄・重倉の籍に入ったが、生地に因み堀川姓を称した。(重倉については未詳だが、玄洋社員と聞く)。幼くして玄洋社に預けられた辰吉郎は、上京して学習院に入る。皇族・華族の子弟教育の機関で一般民の入学を初等科に限っていた学習院に入学したことは、辰吉郎の貴種たるを暗示する。明治三十二年、清国の革命家・孫文が日本に亡命した時、その支援を図る玄洋社は、実質社主・杉山茂丸の計らいにより、弱冠辰吉郎を孫文に付して、その片腕とした。
ここに至り、杉山の本性も明かさねばならぬが、茂丸は実は福岡藩主・黒田長溥の実子で、島津重豪の実孫に当たるが、長溥が実子・茂丸を杉山(竜造寺氏の男系)の籍に入れながら、藤堂家から養子を迎えて黒田家を継がせた深謀遠慮を解くには紙面がない。ともかく、常に伴う辰吉郎を日本皇子と称したことで、孫文の清人間に於ける信用が俄かに高まったのである。
杉山は玄洋社の石炭貿易を通じて、明治二十五年から上海の英国商人と相識り、在英ワンワールド勢力の実体を深く認識し、海洋国日本としては彼らとの提携に賭ける他ない事を覚り、以後は彼らの意向を日本政界に伝達すべく、渾身の力を注いでいた。近世史は、地政学でいう海洋勢力大英連邦と大陸勢力露西亜帝国によるグレート・ゲームの展開に他ならず、玄洋社の孫文支援は、海洋勢力の元締めたる在英ワンワールドの意向に沿うものであった。日清・日露の戦争も正にその一環で、海洋勢力の戦略上其の不可避なることを知る杉山は、ややもすれば非戦主義に傾く長州閥を調略・分断し、これも在英ワンワールドの薩摩支社となっていた薩摩閥の三巨頭、松方正義・樺山資紀・高島鞆之助を側面支援して開戦に踏み切らせたのである。
愛親覚羅氏が日本に接近するのは、日本の実力を目の当たりに見た日露戦争の後である。接近は西太后の側近・袁世凱を通じて行われたが、東京皇室は固より、政体・桂太郎内閣も敢えて対応を避けたのは、東京皇室と京都皇統の間に国務分担の密約があり、皇室外交と国際金融は京都皇統の分野だったからである。愛親覚羅の意を受けた杉山は、明治四十三年に辰吉郎を紫禁城に送り込むが、前年には中島比多吉が紫禁城に入り、幼帝溥儀に仕えて事前準備をしていた。
辰吉郎を盟主と仰ぐ京都皇統の芯核は孝明帝の祖父・光格帝由来の宮中勢力で、光格帝と実賛同血統の鷹司家を始めとする旧堂上の一部である。之に加えて、孝明帝の皇妹・和宮が将軍・家茂(紀州慶福)に降嫁した公武合体に発する紀州藩・会津藩の勢力もあった。辰吉郎傘下の実行部隊は玄洋社だけではなく、京都に根拠を張った寺社勢力がそれで、東西本願寺が当時の棟梁格であった。外郭の中で、最も強大な勢力は前述の薩摩ワンワールドで、在英海洋勢力の支部として杉山茂丸の指示に従いながら、辰吉郎の経綸を実行していた。また丹波大江山衆は、光格帝の実母・大江磐代(大鉄屋岩室氏)に由来する禁裏の外郭で、亀岡穴太村の上田吉松を頭として江戸時代から禁裏の諜報に携わっていたが、多くは玄洋社に誘われて満洲に渡って馬賊となり、或いは清国本部に潜入して国事に備えていた。彼らが創めた大本教が、玄洋社と並んで辰吉郎支援の実行部隊となり大正時代には民国内に実質支部の紅卍会を建て、辰吉郎はその日本総裁となる。
上田吉松と結んで大本教を開いた綾部の出口ナヲの次男・清吉は、高島鞆之助の計らいで近衛に入隊し、日清戦争後の台湾土民平定に参加したが、凱旋中の輸送船上で蒸発し、北清事変で軍事探偵・王文泰として手柄を挙げた後、満洲に渡って馬賊に投じた。この王文泰が馬賊仲間で三歳年下の張作霖を指導し、親日に誘導して日本陸軍の支援を取り付け、満洲の覇王に養成するのである。堀川辰吉郎は辛亥革命後、しばしば満洲に赴いて張作霖と慇懃を通じ、長子・学良と義兄弟の盟約を交わしたと謂う。
辰吉郎は、漢族自立を図る孫文、満洲保全を望む愛親覚羅氏の双方と親しく交わったが、その立場に毫も矛盾はなかったのは、蓋し双方とも満漢分離で一致していたからである。革命後の中華民国が民族独立に傾かず、旧清国領を保全して多民族の合衆国となった理由は良く解らないが、やはり在英ワンワールドの意向であることは間違いない。粛親王の宗社党と結び、満蒙独立を図った陸軍内の大連派は、このために大きく当てが狂ったのである。新生中華民国が群雄割拠となったのを国情の必然と覚った袁世凱は、共和政は不可能として帝政復帰を図るが、これを孫文にとって重大な障害と観た辰吉郎は、革命党に手を回して大正五年に袁を毒殺させたと聞く。袁の暗殺に先立って、乾隆秘宝を用いた張作霖支援を企てていた辰吉郎は、西本願寺の実質的法主・大谷光端を語らい、秘宝中でも価値の高い歴代の古陶磁を用いた作戦を立てさせた。大正三年から大連に移り現地の文化人を配下に収めた光端師は、満鉄秘書役・上田恭輔に古陶磁研究を命じ、これを受けた上田は大正五年の春、『明治紀要』に「支那陶磁ノ研究ヲ薦ム」を発表した。
宗社党の満蒙独立運動を支援した大隈内閣が、袁世凱の急死と同時に方向を転換し陸軍内大連派に撤兵を命じたのは、在英ワンワールドの意向に基づくものと思われる。そのため、粛親王と宗社党を支援していた日本陸軍内の大連派には、彼らの損害を補填すべき義務が生じ、参謀本部支那課長の浜面又助大佐は、その財源探しに四苦八苦していた。在英ワンワールドの戦略に従う辰吉郎は、張作霖を地方政権として育成し、満洲を特殊地域化する戦略を立てた。張作霖が乾隆秘宝を接収したのは大正五年十二月で、大連派に対するジェスチュアとして、秘宝強奪の形を取った。
明治末期、海洋勢力と大陸勢力の地球的規模の角遂、即ちグレートゲームが織り成す世界史は、従来両勢力の緩衝地帯であった中近東を統治していた中世帝国オスマン・トルコの解体に向かっていた。複合民族国家オスマン・トルコの支配階級はトルコ種で、スラブ・アラブ・イランなどの諸種族を統治していたから、海洋勢力の本宗イギリスは、民族自決を標榜してこれら諸民族にオスマン・トルコからの独立をけしかけ、封建領主に対する露骨な軍事援助により、多くの民族国家を樹立せしめた。
同じく複合民族国家の大清帝国は、支配階級は満族及び縁戚関係にある蒙古族であったが、領土領民の大部分は漢土漢族であった。客家の孫文が革命を指導し漢土(中華本部)における漢族の自決を実現したが、旧清国はあたかも乗っ取り合併によって成立した企業集団を再分割するにも似た状況となり、漢族自治から排除される側の満蒙族の故地と人民に付する統治権の帰趨が問題となった。
矢田行蔵・『満蒙独立秘史・紀州出身軍人の功績』によると、辛亥革命から三ヶ月経った明治四十五年の初春、北京では川島浪速が粛親王を擁し、満蒙を打って一丸とする新国家建設の計画を建て、蒙古王族のカラチン王やバリン王と往来して議を進めていた。粛親王の義弟カラチン王の所論は、「元来蒙古は支那の一部ではない。清朝そのものから恩顧を被った為、その統治に服したのであって支那の国家そのものとは何らの関係はない。今、清朝が亡びた以上、蒙古は当然支那とは関係なしに、独立すべきものである。しかしながら、蒙古にはその実力がないから、日本の支援によって、それを実現しなければならない。仮に民国が満洲朝廷を倒して、漢人の土地を快復するのは当然とするも、その為に蒙古まで自国の領土と見るようなことは、丁度他家の遺産を自分の所有とするも同然で、甚だしい誤りと云わねばならない」と謂うもので、パリン王も之に共鳴し、また自領が満州に接していたヒント王も同様であった。
海洋勢力の傘下に入り、大陸勢力の本宗たる帝政ロシア及び黄河流域勢力に対抗して極東の確保を担った日本は、漢族革命後に対処するため同年一月、参謀本部が高山公通大佐を参本付に補して北京に派遣すると、川島浪速が上の計画を明かしてその賛意を取り付けた。ここに日本は、中近東におけるイギリスの相似象を成すこととなったのである。高山大佐の指揮下に入った多賀宗之少佐と松井清助大尉は、宣統帝の熱河蒙塵の噂を聞き、身柄を途中で奪取して満蒙新国家の君主と仰ぐ計画を立てたが実行できず、代案として世襲親王家の粛親王を二月六日に旅順に落とし、之に応じて奉天将軍兼東三省総督・趙爾巽が起つことになった。高山大佐は参謀本部次長・福島安正中将に、
「粛親王兄弟は満洲蒙古において勤皇軍を起し、祖先の地に拠り他日民国の離散するを待たんとす。この北方に興る一国は一に我国の援助によるに至らんとす。右につき内地当局にたいし適当の御尽力ありたし」
と打電したので、福島次長は高山らを奉天に移転させて、配下の人数も増やした(これを以って奉天特務機関の嚆矢となす)。漢族の養子だが祖先が満族の趙爾巽は、国体護持を主張して清朝支持を明確にし、歩兵統領・張作霖・呉俊陞に命じて革命派と対立させ、満洲の革命派をほとんど消滅せしめた。
ところが二月十二日宣統帝が退位し清朝が崩壊すると、趙爾巽は機敏に袁世凱支持に回り、新政府の奉天都督(東三省総督の後身)に就いた。呉俊陞・張作霖も軌を一にして、袁世凱と趙の新体制を支持したので、粛親王・川島らは一挙に孤立した。
北京では松井清助大佐と木村直人大尉が蒙古独立工作を画策していた。カラチン王・パリン王・ヒント王ら蒙古王族を主体にして蒙古軍を結成し、日本から運んだ武器で蜂起させ、各王の領地を中華民国政府から独立させて新政権を建てる計画で、新たに派遣された貴志彌次郎中佐が多賀少佐と協同して日本での武器調達を担い、松井が武器の秘密輸送計画を練り、これに日本人馬賊薄天鬼(益三)が加わった。五月二十五日に武器輸送を開始し、支那荷馬車四十七台からなる輸送隊が、松井大尉の指揮下で薄天鬼に護衛されて公主領を出る。多賀少佐も追って公主領を出発、途中奉天に立ち寄り、高山大佐と貴志彌次郎中佐に会って画策した。
しかしながら、松井らの軍事行動は早くも民国官憲の注意を引き、奉天都督・趙爾巽の知るところとなった。蒙古独立軍は、趙都督武力阻止命令を受けた鄭家屯の歩兵統領・呉俊陞とタイシャポーで衝突し激戦となるが、奮闘空しく松井たちは民国官兵に捕縛される。この時貴志と高山が時計その他貴重品を売り払って仕入れた阿片を賄賂にして、ようやく簿天鬼たち捕虜を救出することができた。銃殺寸前九死に一生を得た松井らは六月二十六日生還し、その後も独立工作を続けたが、九月二十八日に関東都督・福島安正中将から突然中止の命令が下り、奉天特務機関長・高山大佐は同日付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明した。
以上が第一次満蒙独立運動(タイシャポー事件)のあらましであるが、陸軍中央が突然中止命令を出した背景について、巷間数説ある。
その一は、漢・満・蒙の一体国家を望んでいた英国が満蒙独立を妨げるため誘導したもので、日本政府日英同盟の下で海洋勢力(在英ワンワールド)の指揮に従わざるを得ず、支那通軍民の活発な活動も政府の外交方針に影響を与えることはなかったと謂う。
その二は、陸軍中央が革命政府を支持しており内政干渉を避けたとの説であるが、革命により漢族主権を恢復した中華本部の安定が海洋勢力にとって望ましいにしても、元来中華本部に含まれない満蒙の独立は漢族自立にはむしろ資する筈で、その点で肯い難い。さらに日本政府が日露協商に向けてロシア側に配慮したとの説は一応理に適うにしても、所詮イギリスの意向を無視して出来ることではない。
注目すべきは、海洋勢力は当時から満洲をユダヤ族究極の安住の地として予定しており、その大目的のために日本の関与による満蒙独立を排除したと謂う説で、その後イギリスがバルフォア宣言によりパレスチナにユダヤ国家を作ったのを見ると、あながち否定できない。
高山は独断専行の咎めを受けて同年九月、歩兵第二連隊長として内地に召還され、多賀少佐が残って(表向きは九月付で福州駐在)蒙古諸王との連絡に任じた。多賀は辮髪に支那服を纏って賀忠良と名乗り、その後も大正二年十月から数ヶ月の第三連隊付少佐以外は、漢土に常在して軍政官や軍事顧問を務めた。正にアラビアのロレンスの相似象である。
手元に、昭和九年頃に作成された『粛親王家對川島家事件概略』と題する文書があるが、書き出しは「明治四十四年清国の崩壊により、故粛親王は難を旅順に避け、密かに清朝の再興を謀りたり。大正四年に至り、当時の総理大臣・大隈伯の斡旋により、大蔵喜八郎男より金百万円を借りて、いわゆる蒙古軍事件を起したりしが、不幸にして失敗に終れり。その後日本国軍部より粛王府に更に軍事費補償の意味で五十万元を支給せり」とある。
第二次満蒙独立運動は大正四年、袁世凱の帝政復帰に反対する大隈内閣の方針を受けて、川島浪速が企てたもので、関東都督府陸軍部(後の関東軍)をはじめ、現役・予備役の軍人と民間の志士浪人が多数加わっていた。入江種矩大尉指揮の下に粛親王の第七王子・金璧東を奉じる馬賊隊が、打倒袁世凱の義旗を挙げる一方、青柳勝敏大尉が蒙古の英傑パプチャップの軍政を指導して満洲に侵入、その虚に乗じて木澤暢大尉が一挙奉天城を占領するという計画で、これに先立って、袁世凱と通じる奉天督軍・張作霖の暗殺を予備役少尉・三村豊と民間志士伊達順之助・志賀友吉が企てたが、失敗した。
挙兵に先立つ六月六日の袁世凱の突然死により、大隈内閣は方針を一変して満蒙独立計画の中止を命じたが、パプチャップの蒙古義軍は既に活動を開始していた。七月二十二日に内蒙古の突泉県で洮南鎮守使・呉俊陞
麾下の民国官軍と衝突した蒙古義軍は、以後連日の戦闘の末、八月十四日に郭家店を占領したが、日本政府の変心により、進退窮まるに至った。参謀本部は閣議決定を受けて、蒙古軍を無条件で撤兵させるため、支那課長・浜面又助大佐を急遽現地に派遣した。孤立無援となり武器もない蒙古義軍を素手で放置すれば、帰還の途上で民国官兵により殲滅されるのは必至と見た浜面大佐は、職を賭し独断を以って砲四門と小銃二千四百挺を義軍に与える。九月二日に郭家店を出発した蒙古義軍は、途中民国官兵と戦いながら林西城に至り、十月六日熱河都督麾下の林西鎮守使軍と交戦するが、この戦闘においてパプチャックが戦死し、第二次満蒙独立運動は終わりを告げた。
この混乱の中、八月付で西川乕次郎少将に替わって歩兵二十五旅団長・高山公通少将が関東都督府参謀長に補せられた。関東都督は二年前に福島安正から中村覺に交替したが、関東都督府を策源地として粛親王と同心の上満蒙独立運動を推進した彼らは旅順派と呼ばれた【先月号で大連派としたのは誤り】。浜面又助もその一人で、七年七月付で高山に替わって関東都督府参謀長となる(八年四月に関東軍参謀長と呼称変更)。
『粛親王家對川島家事件概略』には、満蒙独立運動の結果、粛親王府に残ったのは、政商大倉喜八郎からの資金と陸軍機密費を合計した百五十万円から諸費を差し引いた四十五万円であった。粛親王側ではこれを年八分で満鉄に預ける案を立てたが、川島浪速が反対し実弟の鉱山事業に投資すると称して費消してしまう。これを座視できない関東軍参謀長・浜面又助は、粛親王ら宗社党の支援のために関東軍で裏金を作った。大正八、九年頃、関東庁殖産課長・黒崎貞也とともに関東軍司令官・立花小一郎に談じて賛同を得たうえ、司令官より関東長官・林権助に商談して貰い、大連の土地五万三千坪を粛親王に貸下げ、その又貸しで親王に利益を得せしめるに至った経緯が述べられている。
粛親王を担いだ旅順派に対して、張作霖を支援したのが奉天派である。奉天派の頭領は明治四十五年四月から十二月まで陸相に就いた上原勇作で、一年余の病臥の後大正三年四月に教育総監、四年二月に参謀総長と陸軍の中枢にいた。上原が奉天派たる所以は高島鞆之助の後を継いで在英ワンワールド薩摩支部のグランド・マスターであったことにある。実効支配に重きを置く国際法からして国際社会が認めた民国政府を混乱させるのは得策ならずとする外務省も奉天派に与した。
上原の上には京都皇統の堀川辰吉郎が居たのだが、それを知る者は極めて少ない。辰吉郎は、光緒帝の実弟で宣統帝溥儀の実父・醇親王と秘かに結んでいて、ここから「乾隆秘宝」問題が生じて、大正九年奉天特務機関長・貴志彌次郎少将が活躍するのだが、今月の紙数は尽きた。