ヨハネの黙示録から4人目の騎士。第四の騎手はタロットの死神のモデルとされるが3.11にこの死神が現れたということだろう。
イルミナティの最高位ルシファーの花嫁参照
↑儀式ではシェイプシフトするレプティリアン(爬虫人類)は人間の血液を必要とします。彼ら自身にも人間の部分がありますし、そうでない部分があります。彼らには人間の血が必要なのです。彼らには血に対する非常に強い嗜好があり、血を渇望しています。レプティリアンは人間の血液中にあるホルモンを必要とします。彼らはそれを儀式の時に手に入れるのです。カナダでの子どもの大量死では血だけ抜かれて埋められたと考えられる。彼らにとって理想的な血は洗礼前の男の子である。
血のチョコレート参照
上の修道院はイシス・ホロス・セト信仰である。
終わりの時の幻
ヘブライ語直訳の律法
これらのHP・終わりの日の預言はキリスト教徒が書いているのではなく仏教徒が書いている。これぞまさしく仏基一元論であり空海が唐で洗礼を受けた理由である。
ニネベ(NINEVEH)の陥落:ティグリス(Tigris)のにぎやかだったアッシリアの都の陥落は紀元前612年のメデス=メディア人(MEDES)とバビロニア人の預言者の預言どおりになった。バビロニアの預言者はニネベについてこう語った。「これが,かつてにぎやかだった都だろうか。かって,人々は安らかに住み,心の中で”私だけだ。私のほかにだれもいない”と言っていた。どうして都は荒れ果て獣の伏すところとなってしまったのか。ここを通り過ぎる者は皆驚きのあまり,口笛を吹き,手を横に振る。(ゼファ二ア書第3章15節)。(ナホム書第2章3,4,6節参照)
悠久の天竺で慈光さんに天の采配が整うという意味なのですが........
天の采配が整う条件は慈光さんによれば、2つ。
1.それが、天の御心に沿ったものかどうか。
2.それをするに充分な徳(実力)があるかどうか。
今後天竺へ戻られてから灼熱の大地を、身ひとつで裸足で歩きながら、人びとの話に耳を傾け、仏法を持って苦しみを和らげようとされたお釈迦さまのように空前絶後の想像を絶する壮絶な修行がはじまるのですが慈光さんと私とでそれを乗り越えていこうと思っています。従いまして「天竺から慈悲の光」は終了します。何人かの方が愛語施を残されたことを慈光さんはとてもとても喜んでいらっしゃいました。
サンカ((山窩))とゴシェン その3」
弓月の君と秦氏
秦の始皇帝の子孫とされる融通王が韓半島から来日したとされるのが、王神天皇の御世だったとされる。融通王は国ごとの日本への移住を求めており、その交渉のために来朝したといわれている。
彼の願いはあっさりと聞き入れられ、天皇は多くの船を派遣して彼の国の民と財宝を様々な困難を排して日本へ運んで来たのである。
それは人道的な或いは義侠心ということではなく、融通王が差し出した多くの財宝の力によるものだった。
朝廷、天皇と強がったところで日本はまだ貧しく、融通王たち難民の方が遥かに多くの富を有していたのだった。
さて中国の古代史に潸然と輝く統一国家『秦』とは、いったい如何なる国であったのだろうか。水上氏の指摘では『秦』の歴史とは、ひとつの国を指しているのではない。
有体に言えば真実の『秦』とは、アケメネス朝ペルシャを指すものであるという。
中国は古代には大帝国ペルシャの植民地であり、ペルシャを圧倒したアレクサンダーの殖民地でもあったとする研究も存在するらしい。
そういえば、以前に読んだペルシャ系アメリカ人の著作でも日本とペルシャの不思議な共通点に感激し、信じていなかった著者の父親の話しを実感したとあった。やはり、秦はペルシャの植民地であったのだろう。
そして始皇帝の建てた『秦』とはアレクサンダー大王のグレゴ・バクトリアの植民地であった『シナ』のことであるらしい。
そうであれば、始皇帝とはグレゴ・バクトリアの将軍か植民地の総督といった立場にあった人物かも知れない。ならば、ユダヤ系の人物であったとしても不思議ではない。
シリア文字はネトリウス体ともいう
仏典に依ると大秦景教の大秦とは始皇帝の秦のことではなく、グレゴ・バクトリアの方を指しているという。それで始皇帝の子孫が日本へ来ると、その歴史的なコンプレックスまたは誇りの為であろうか、後に与えられた土地に『大秦』(うずまさ)と名付けるのである。
来朝し多量の財宝と引き換えに移住を許された融通王は、早々に名前を弓月(ゆずき)と改め、後にその一族は秦氏と改名する。
そして時代は下りその子孫達が山城の国(現在の京都府)に根拠地を得て、大秦と命名し絹織物の技術で富を蓄積していくのである。
後に平城京からの遷都の地に山城の国が選ばれると、秦氏は協力を惜しまなかったのだろう。そして、新しい都の命名権を貰ったのかも知れない。
その結果がイールシャローム(エルサレム)『平安京』であり、その都で多くのユダヤ的な祭りや地名が現在に残ったのであろう。
尤もここでも、ユダヤの失われた十部族が日本へ辿り着いた結果だとも、そうでないとも言えない。失われた十部族はモーゼに率いられた人々ではなく、当然のこと神との契約など知る由もないのである。
それにも拘らず秦氏の文化がユダヤ的なのは、ユダヤ文化というよりも景教の影響が強いのではないかと推測できる。
景教とは原始キリスト教の一派、スネトリウス派のことであるとされる。(シリア文字の拡大はここ)ローマ帝国から異端とされて追放された一派の教えは、ペルシャを経て中国へと到着した。
中国大秦寺からは大秦景教の碑が発掘されており、そこには60名もの宣教師の名が刻まれているという。
余談だがそのレプリカが高野山に存在している。それを建てたのはE・Aコルドン夫人であった。彼女はキリスト教と仏教は元々がひとつの教えだとする『仏基一元論』の研究に余念が無かった(管理人注:鈴木大拙訳の「仏教と基督教」=仏基一元論)。釈迦はペルシャ系のシャカ族の出身であるとされ、その一族はユダヤ系の人々と関係があった可能性もある。当時の宣教師達が失われた十部族を意識していたかどうかは、判らない。(管理人注:空海が唐で洗礼を受けた意味は仏基一元論という言葉を聞けば理解できるであろう)
冒頭にある「終わりの日の幻」は「終わりの日の預言」というHPを持つ僧侶である。
景教は中国の地で保護と迫害という荒波にもまれながらも、それを乗り越えて大秦寺が現代に残った。
その景教と財宝、様々な技術を携えて弓月の君とその民が来朝し、古代日本の中心に根を下ろしたのである。
その後にも、この秦氏は日本の歴史に様々なかたちで係わってくるのである。
『京都は、桓武天皇が、784年長岡京に、794年平安京に遷都し、1868年の東京遷都までの約1000年の長きにわたり、日本の首都として栄えました。
管理人注:「記紀」は、天皇家によるわが国支配を正当化するねらいを持つ史書である。その中に、天皇家の体面を汚す過去は記録できない。中国に朝貢していた倭王に関する記録がほとんど無視されているのは、そのためであろう。
したがって、邪馬台国という国名をもじった題の暗号形式の落書は、その題によって、国家の体面を汚すなと権力者に向かって訴えているのではなかろうか。(=「と か な く て し す」 つまり 「咎なくて死す」)「いろは歌」の暗号より)
皆さんは泉涌寺を訪ねたことはありますか?以前高橋五郎著「日本の正体」で天皇の記事を引用しましたが今一度注意して読んで見ると(97~98ページの要約・解説)天武天皇系の系譜は天武天皇・持統天皇・文武天皇・元明天皇・元正天皇・聖武天皇・考謙(称徳)天皇である。記紀のうちの日本書紀では,天智と天武は兄弟とされている。天智の息子・大友皇子と,天智の弟・大海人皇子が壬申(みずのえしん)の乱を戦った。勝利した大海皇子が即位して天武天皇になった。しかし、その血筋は,考謙(称徳)天皇を最後に絶えた。
以後皇統は,天智系の光仁天皇に移る。持統天皇も元明天皇も天智の娘であるから,その意味では天智系・天武系という区別は無意味とも思えるが,それは「日本書紀」の記述を信じればの話である。「日本書紀」が記す通りに,本当に天武天皇が天智の弟だったとすると,年齢計算が合わないという指摘が古くからあった。
天武系の皇統というのは,今日に続く天皇家とは別の系譜だった可能性が出てくる。すなわち,天武系の位牌がないということは,天武系が別王朝であるということを暗示している。『泉涌寺史』の「資料編」に載る『霊明殿奉安歴代天皇尊牌』という資料を見ると,明治9年に奉安されたはずの元明天皇の位牌が,なぜかリストから消えている。リストにないということは位牌は存在しないということだ。1978年に発表した古代史家の小林恵子(やすこ)の論文「天武天皇の年齢と出自について」で泉涌寺が天武系の天皇を祀っていないことを明るみにだした。それは天武と天智が本当は兄弟ではなく,百済王の系譜を引く天智に対して,天武は森羅系渡来人だったから,というのが小林の説である。
小泉純一郎政権時に,皇室典範問題が浮上したとき,有識者会議が出した結論は皇室典範改正案は,女性天皇が”渡来人の皇婿(こうせい)=女帝の正夫”を迎えることを可能にした。それは京の単位の天皇カンパニーの金が絡んでいるのだ。』
その平安京の建設に、大きな貢献をしたのが、渡来人の秦氏です。 秦氏一族は、中国で流浪の民とも呼ばれ、4世紀頃に日本にやって来ました。 また、秦氏に関しては分かっていない事が多いのですが、ネトリウス派キリスト教徒のヘブライ人であったとも言われています。』
秦氏は世界帝国ペルシャをアレクサンドルと共に倒し、シナという広大な植民地に君臨しながら没落し、韓半島に小国を築いたりしながら、長い潜伏期間を経て日本を目指して渡海し、やがて日本の支配階層となった。
その秦氏はダビデ王と始皇帝を祭り、石を神の寄り代として考える人々であった。
日本の地で支配階層となり勢力を得ながらも、何故かダビデ王も始皇帝も時とともに埃を被り歴史の片隅に埋もれていった。
しかも秦氏の名前と存在自体が、知らぬ間に歴史の表舞台から消えうせてしまった。無論、一族が絶えたなどとは思えず、やはり得意の改名により異なった系列の人々の中に紛れ込んだのであろう。
秦氏といえば当然のことユダヤ的な信仰を思い浮かべるが、しかし秦氏はなぜか仏教を携え仏教と強く結びついていた節があるが、それがまた謎なのである。
水上氏はユダヤ教が偉大な宗教足りえているのは、世界最大のキリスト教が聖書を聖典として認めているからに過ぎず、ユダヤ教単独では東アジアでは通用しなかったと述べている。どう見ても場違いであり、更なる伝統を誇る日本の渡来人の前で旧約聖書などを持ち出せるはずもないというのである。
そこで彼らはユダヤ教を捨てて仏教へと鞍替えしたらしい。
仏教はインドのものと考え勝ちだが、実際のところインドでは仏教徒よりもヒンドゥー教徒が圧倒的に多い。
それもそのはずで、先述したとおり釈迦はペルシャ系のシャカ族の王子として誕生し、その名をゴータマ・シッダルタという。
大阪外語大学の教授は6世紀に寺院建立のために来日した工人の名前を、すべてペルシャ語で読めるとし、大工、石工、陶工、画工などは全員がペルシャ人であったとする。
そして日本の古代史上で一世を風靡した蘇我氏は、恐らくはペルシャ系の渡来人であったろう。
仏教はユダヤ教とは異質の教えであるが、しかし失われた十部族の影響を受けた可能性も否定できない。なぜならその教えの中にはユダヤ的な救世主が織り込まれているからだ。
弥勒菩薩は釈迦の死後56億7千万年後に出現し、衆生を救済するというのがそれだ。
秦河勝が造営した太秦寺の弥勒菩薩は、このようなユダヤ的救世主論をペルシャの影響を受けながらも仏教の中へ巧みに織り交ぜたものであるといえる。
祇園はシオンか?(祭りにみるユダヤ)
再々から平安京はヘブライ語のイールシャロームであり、キネレット湖になぞらえて琵琶湖と名づけられていると指摘しているが、祇園とはやはりシオンの意味なのであろうか。これも何やらユダヤ的な臭いがプンプンする。
祇園祭は清和天皇の御世に、疫病が猛威をふるい、その原因をスサノオ怨念としてその怒りを静める為に牛頭天王を祭り疫病の退散を願ったものが始まりとされる。
歴史も古く最も日本的な祭りと思われる祇園祭で、山鉾の前掛けがどうしてペルシャやタナフの一場面とされるタペストリーが使われているのだろうか。
坂東氏の著書によれば、これは『イサクに水を供するリベカ』と呼ばれるタナフの物語だという。タナフとは『トラーの巻物』『予言の書』『諸々の書』の頭文字を合わせた呼び名である。
TANAKH
この前掛けはベルギー製のタペストリーで、1718年に寄付されたものであるらしい。この時代は厳しい禁教の時代であるのだが、何故にこの様な図柄が人目に付く山鉾の前掛けとして用いられ、それが許されていたのか不思議である。
ゴブラン織前掛け:イサクに水を供するリベカ
注:リベカは創世記に登場するイサクの妻。ヨサクとイサクの区別がつかない人もいるんでしょうね~,きっと(笑)。でも恥ずかしいことではありません。今この時点で勉強しましたからね。
この祇園イコール・シオンであるとすれば祇園祭はシオン祭であり、シオンとはエルサレムの別名であるらしい。本来のヘブライ語では『ツィオン』であり英語読みでは『ザイオン・ジイオン』となる。それが日本へ来て、ツィオンがギオンと変化し、漢字を当てて祇園となったのであろうと言われている。
故国を去って世界に離散したユダヤ人にとって、シオンは永遠の憧れであり帰るべき都なのである。
多くのユダヤ系渡来人が居住していた京都で、彼らが永遠に憧れるシオンを想い祭りを行っていたとしても何等不思議ではない。平安京と琵琶湖がエルサレムでありキネレット湖であるのなら、彼らの祭もまた同様に祇園祭はツィオン祭なのである。
イスラエルでは様々な祭が行われるが、本来は全てエルサレムの神殿に於いて行われていたという。それらの祭を総称して『ツィオン祭』と呼ばれている。
また日本では榊が神様の樹としてお払いやお清めの儀式に用いられるが、イスラエルでも同様に祭の始まりの時にヒソプという榊に良く似た樹を用いてお清めとお払いが行われるのだという。
祇園祭の神幸祭は7日間に渡って行われるが、イスラエルの過ぎ越し祭や仮庵祭も同じく7日間なのだ。仮庵祭では庵を建てるが、祇園祭では山鉾を建てるのである。
そして7月17日は、あの洪水伝説のノアの箱舟がアララト山に流れ着き、救われた日である。祇園祭は人類が全滅を免れ、救われた日に行われるのである。
更に祇園祭の山車はノアの箱舟を象徴するものだとする研究家も存在する。
山車には様々な動植物の装飾が施されており、正に総ての種を男女一対ずつ乗せていたとされる箱舟を描写している様であり、言い得て妙である。
祇園祭はイスラエルのシオンから?
日本人の中に見られるユダヤ的な一面は、私達にもっと身近な事柄にも残されている。
例えば年末の大掃除、正月の餅もそのルーツ、或いは世界中で最も近似な習慣がユダヤには存在している。
過ぎ越し祭の前には掃除をして家を清める、そしてタナフに「その初めの日には、家からパン種を取り除かねばならない」とあり、人々はその時に種入れぬパン『マッツア』を食すのだ。
このマッツアは別名を『ハ・メッチ』と言い、ハ・モチと発音する人もいるようだ。
まさしく、餅がユダヤにも存在しているのである。
そしてまた、全国の祭にもユダヤの聖典に記されている内容と照合することで、はじめてその意味が理解可能な奇祭も存在する。
長野県の御柱祭は山中から巨木を切り出して、人力と川を使い諏訪大社まで運び、そこで柱を立てるという行事である。それはソロモン王の時代にレバノンからレバノン杉を切り出し、筏(いかだ)に組み、川を下り木材を運搬したことの再現であろう。
神社に潜む謎の勢力
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/1c8d923c23d859d8f85eddb50e00801e
諏訪大社
まとめ:天皇家と失われたイスラエル10支族
それから諏訪大社にはもうひとつ、意味不明の祭が存在する。
『御頭祭』がそれだが、柱に縛られた少年を神官長が刀で切り首を神に捧げ様とするが、そこで使いが現れ、神官を止め少年は解放され救われるというものだ。
このストーリーは、何処かで聞いたことがある。
そう、聖書に出てくるアブラハムが神の命令により一人息子のイサクを生贄にしようとして、神にその信仰心を認められ、イサクは開放されるあの場面だ。(管理人注:旧約聖書の『創世記』第22章1-14節に出てくるアブラハムの物語)
日本神話には存在しないこのストーリーが、諏訪大社で祭として奉納されているのは一体、どういうことだろう。
拙稿:沈黙のヨハンネス参照
やはり、私達の祖先はイスラエルの失われた十部族なのだろうか。それとも共通した世界的な文化が海で遮断された日本と、世界を流浪しながらも祖先の習慣を守り続けることで民族のアイデンティティーを保持する拠り所として、イスラエルの民に色濃く残ったものだろうか。
そうだとすれば、両極端な運命を辿った日本とユダヤがこれ程に似通った習慣を持っているのは非常に面白いことだ。
それとも、世界を還流していたイスラエルの民が、これらの文化を日本から持ち出して自らの事として様々な物語に織り交ぜたものなのか。
何れにしても、非常に興味深い事柄のひとつであることに変わりはない。
日本の中に在るペルシャ的なもの
ペルシャとは現在のイラン辺りの事を指すが、秦氏が根拠地を得た京都に集めた人々はユダヤ系だけに限らなかった。
日本に最初に伝わった仏教は、工人の名前がペルシャ語で読めると主張される研究者が存在すると書いたが、前述したようにペルシャ型のものであったろう。
そしてそれ以前に伝来した稲作が、やはりペルシャからもたらされたのであれば、ペルシャ型仏教の伝来は少しも不自然ではない。
水上氏の著書で杉山二郎氏の研究を挙げ、稲のルーツはインディカ米に限らず、アフリカ方面からのものが存在したとしている。
そのアフリカ種は地中海東岸からカスピ海南岸で栽培されており、イランのハリメジャン地区は純然たる稲作農耕地帯であったとされる。
そこには弥生農耕村落をイメージさせる校倉高床式の家屋、明治時代ころまで東京の下町に残っていた『座り流し』の台所や、臼と杵を使った脱穀、畝のある水田などが存在していたとしている。
今日、遺跡に再現されている弥生集落は、水田こそ無いが正にこの様なイメージと重なるものである。
そればかりか、伝統的な盂蘭盆(うらぼん)の行事がペルシャにその源を発するとすれば古代ミステリーへの興味はますます湧き上がる。
盂蘭盆、といえば京都の大文字焼が有名だ。夕暮れから点火され、舟形や妙法、左右の大文字などを浮かび上がらせる壮大な火の祭である。
水上氏によれば、この盂蘭盆はサンストリック語の辞書に無く、従って仏教行事ではないとして、これをペルシャの火祭りだとしている。
しかも実は大文字は『大』ではなく、元々は五芒星であったと予想されている。
そして、舟形は舳先の上がった外洋航海船であり、農民たちとは無関係な船であり、そのことから航海を経て日本へ来た古代人の記憶の名残だとも指摘する。
更にはこの盂蘭盆の行事を行ってきたのは、農村部の人々であるということが稲作と関連して古のペルシャ人を思わせるのである。
またアイデルバーグは『侍』という言葉はヘブライ語のシャムライに由来していると主張している。これは見張る、護るというシャムに職業を表すライ(接尾辞)がついたもので、その文法は完全にヘブライ語であるとしている。
それから彼は侍の鎧(よろい)についても異説を展開する。侍の服装は中東の皇子のそれであり、鎧(よろい)もそうだというのだ。
そういえばアレクサンダーが鎧を着た肖像のイメージは、確かに日本の侍の鎧に似ているようにも見える。
西洋の甲冑(かっちゅう)とは明らかに異なるが、日本の鎧とはかなり近い感じもするが定かでない。(記事はその1からユダヤと日本の不思議な関係から許可を戴いて編集・要約・解説をしています。
大摩邇さんの聖書関係の記事
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/cat_46171.html
日本のルーツはシュメールを経て古代イスラエルか