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この世で私は理解されない

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IcannotbegraspedinthehereandnowforIliveaswellwiththedeathaswiththeunborn.Somewhatclosertotheheartofcreationthanusualbutfarfromcloseenough.....PaulKlee(1879-1940)...

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赤い風船1922。グッゲンハイム美術館。

この世で私は理解されない。いまだ生をうけてないものや、死者のもとに私がいるからだ。創造の魂に普通よりも近付いているからだ。だが、それほど近付いたということでもない(墓碑)。

或る阿呆の一生

https://aozora.binb.jp/reader/main.html?cid=19

死と火(1940) ベルン美術館

メメント・モリ(藤原信也)。焼け残った足(ムンバイ)。

関連記事:

死の弁証法

https://shins2m.hatenablog.com/entry/20150610/p1


晴天の巴里で5時間時間があったのでKleeの展覧会を見たという知人からのメールが入った(その知人とはミネマコさん)。クレーはまるでリルケとシンクロしているようだ。

 いつも一緒の「MAKOは子浦で静かに眠る」で記事にしましたが「私は一流新聞の犬記者」の主人公MAKOのお墓が管理人の家の庭にあります。2009年8月15日ミネマコ(MAKOの飼い主)さんや関係者が集まって遺骨を埋葬しその後お墓が完成した次第です。4月11日MAKOの一周忌なのでスイスのミネマコさんから日比谷花壇経由でお花がどさっと届き謹んでMAKOの冥福を祈りました。


 MAKOは柴犬とビーグル犬との雑種でタイムズの東京支局長だったロベルト・ワイマント(故人)邸の前に生まれてまもなく捨てられていてワイマントご夫妻が大切に育て昨年18歳でスイスで亡くなったとのことです。ワイマントさんはケンブリッジ大学で日本文学を専攻されたので夏目漱石の「我輩は猫である」を参考にしたようです。ワイマントさんのお墓はここ子浦のお寺にあります。ワイマント氏はスリランカの津波でお亡くなりになりました。墓地は小浦にあります。



 こんなに小さかった頃のマー君とスー君。いまでも仲良しです。仲良しといえば池の鯉もペアーでいつも一緒。メダカは赤ちゃんを産んで数が二倍に増えました。金魚はもうじき赤ちゃんを産みそうです。そんな中,ヒキガエルの雌は何処かへ行ってしまったのですが,雄(かなり大きい)が卵を抱え水中の壁にへばりついており3月末におかしいので網ですくうと腐っておりそれをおたまじゃくしの赤ちゃんが餌として食べていたのでしょうか,その下から沢山のおたまじゃくしが出てきました。こうなると人間よりはよっぽどましですね。ごはんは現在「メダカのきもち」という粉末の餌を食べています。ある時不動産屋から連絡があってこの家を日テレの中山不動産という番組で取材申し込みがあったということで協力しました。

 MAKOの一周忌でお花を飾ったのでいつもは庭の中では首輪もつけないのにリードでつながれ神妙な顔のマー君。4月23日に9ヶ月(人間でいえば13歳)になりました。体重20キロ。ワンちゃんの一生は短いからね,精一杯,遊ぼうね

 MAKOのお墓が完成したとき不思議な現象が起きた。マー君がお墓の前で長い間じっと動こうとせずその日の晩御飯はまったく食べませんでした。首輪をつけなくてはいけないのは人間かも。

 スー君もすこし緊張気味。スー君は8ヶ月になりました。体重18キロ。

 スー君深く何に反省?

 KLEEがリルケとシンクロしている点:

ピエール・クロソフスキーの仏訳から日本語に訳したリルケの「廻り角」を紹介しよう。「長い間,彼は,力を尽くして視たあげく,そのものを自分のものとした。向けられたそのまなざしの烈しさに,星はその膝を折った。

 また、跪いて彼が観想していると,その切なる願いの香りに,神々しい何者かがまどろみ,その眠りの中から,彼に微笑んだ。塔は,かれがそのように眺めると,戦慄し,かれの一目で,空の高みに向かって,あらためて,そそり立つ。だが,いかにしばしば,昼の重荷にあえぐ風景は夕べになって,かれの沈黙の認知の中に長々と延びて,憩ったことであろう。

 信頼にみちて,動物達は,かれの開いた視線の中に,草を食みながら,入ってきた。虜われの獅子達はその凝視するまなざしでかれを探るように見た,恰も考うべからざる自由がそこに或るかのように。何羽かの鳥がそのつばさで,かれを,感じやすいかれを,横切った。いくつかの花は,子供の心のように,大きく開いて,かれの中に,自分の姿を映した。このような観想者がどこかにいるという噂は,見えやすいようにみえて,しかももっとも見えがたい者達,すなわち女達を感動させた。

 遥かに遠くから来る時間の中で,眺めながら,遥かに遠くから来る時間の中で,心の飢えに耐えながら,視線の奥から懇願しつつ,外国で,彼が待望のなかに生きていた時,旅宿の,陰欝な環境で彼をとりまくまとまらぬ,かれに背をむける,かれが腰をおろしている部屋の中で,また鏡の中に宿る,またしても部屋の中で,さらに後になって,転転反側させる寝台の上から,眺められた,またしても,部屋の中で,その時,そのものは,空間で,討論していた。

 かれの感じ易い心について,苦悩に顛倒した彼の肉体の奥底で,また,それにもかかわらず,感じ易い彼の心について,捉え難く,そのものは討論していた。そして彼の心を判じていた。愛については,彼は何ものも所有してはいなかった。何回も,新しい「達成」が彼に対して拒絶された。こうして今,かれの視線には一つの限界が課せられた。見られる宇宙は,愛の中に咲き開こうと欲している。見る働きは成った。

 その後,心の営みをなせ。お前の中の影像の側らに,これらの捕囚の影像の側らに。というのは,お前はそれらの影像を征服した,だがそれらを識らないままでいるのだから。内面の人よ,健闘のあげくもろもろの中から手に入れた,お前の内にある,乙女を見よ,かの女は,やっと獲得されただけで,まだ愛されていないのだ」これが死と向き合うということ。死にも美学が必要です。

 鴨居玲もKLEEから影響を受けていたのであろうことは鴨居の作品から伝わってくる。作品:ピエロ(1983)

『あらゆる劇は"世界の究極の意味を探る試みであると言える。その場合に、一つのやり方は、人間を超えた絶対的な目、つまり神の目を想定し、その目で見れば世界は隅々まで見えるのだと考えることである"。  

  "もう一つのやり方は、絶対的な目の存在を認め、しかもそれを人間のものと考えることである"。"我々は歴史の流れの中にある法則性ないし秩序を認め、歴史の目で見れば世界の意味が分るだろうと考えるのである。つまり、人間は歴史に究極の意味の認識を委ねるのであって、いわば歴史が神の代りをするのだと言える"。
  "道化の精神はこれら二つのやり方のどちらもとらない"。人間を超えた絶対的な目も、歴史の法則性も否定する。"世界の究極の意味を現在この場で見てしまおうというのだ。道化の立場から見れば、過去と現在と未来との間には何の相違もないことになる。誰が王になろうと、誰が権力闘争から脱落しようと、同じことだというわけだ。人間とは要するに、自らの意志とは無関係にこの世に生まれ、欲望に動かされて生き、何の理由もなくやがて死ぬものなのだ"。
  " 道化とは完全な認識を得ようとする人間のことだ"。神にもっとも近づいた時のあり方だが、"しかし、人間は神ではない。賢明な道化はそのことを知っている。だから道化にできるのは、あたかも自らが神であるかのように、あたかも自らが世界の究極の意味を知っているかのように振舞うだけである。あらゆる道化につきまとう演技性はこうして生まれてくるのではないか。フェステやタッチストーンは、あるいはハムレットやフォールスタフは、愚者ないし狂人を演じているにちがいないが、彼等はまた神をも演じているのである"。(喜志哲雄「シェイクスピアの道化」)』


 この世界には、なぜ、《自己》と《外界》について認識する能力を持った個体が存在できるのだろうか。この問題に理論的に答えようとする哲学の徒は、必然的に方法論的な障害に突き当たることになる。すなわち、問題を定式化することそれ自体が、きわめて困難だという事実である。

「世界が統一されている」ことは・疑う必要のない前提・と見なし、「心」と「物」を本質的に異なった別個のものとして捉える二元論的な見解は、非生産的という理由で無視する。《主観的世界》と《客観的世界》は、同一の世界の異なるアスペクトだと解釈する。

吉田伸夫:この世界についての仮説より)

最後に老荘の言葉をプレゼント。今の人間を見ていると首輪をつけなくてはならないのは人間かも。

1)利益というものを,人間の生き方の中心に置いた社会というものは必ず破滅する。

2)便利な生活というものを,最高の価値として,それだけをひたすら追いかけると冷酷非常な世の中になる。

3)世の中が乱れることの根本は,賢くなれといって頭のいいことを人間たることの第一の価値として強調することだ。

イルミナティの組織図

https://megalodon.jp/2009-0524-1059-27/www.vaticanassassins.org/kolvenbach.htm

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