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日陰の女と演技論

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写真はスタニスラフスキーKoheleth(コへレト)とはキング・ジェームズではEverythingisMeaningless(意味は何ひとつありはしない=空しい)で始まります。ThewordsoftheTea...

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Koheleth(コへレト)とはキング・ジェームズではEverything is Meaningless(意味は何ひとつありはしない=空しい)で始まります。The words of the Teacher,son of David,king of jerusalem.つまりダヴィデの息子と言っているのですが,コへレトは伝道の書というか説教師を指しているのです。つまりPreacherなのですが英文ではTeacherとしているところが面白い。この雰囲気を敏感にとらえたのがシェークスピアの文章に多く見られます。

 例えばマクベスでは.......

『 明日,また明日,また明日と,時は小きざみな足取りで一日一日を歩み,ついには歴史の最後の一瞬にたどり着く,昨日とという日はすべて愚かな人間が塵と化す死への道を照らしてきた。消えろ,消えろ,つかの間の燈火(ともしび)。人生は歩き回る影法師,あわれな役者だ,舞台の上でおおげさにみえをきっても,出場が終われば消えてしまう。わめきたてる響きと怒りはすさまじいが,意味は何ひとつありはしない』


写真はシェークスピアを育んだ田園ストラッドフォード・アポン・エイボン

ウイリアム・シェークスピアは1564年イギリスのストラットフォード・アポン・エイボンに生まれました。同じ年にセルバンテスが生まれ,同じ年に二人とも52歳で死んで往きました。ドンキホーテは宇宙を眺め叶わぬ夢を追っていたのでしょうか?
 シェークスピアの本を読んでみると,必ず星座に関する記述があります。「私はクルミの殻の中に閉じ込められた小さな存在に過ぎないかも知れない。しかし私は自分自身の無限に広がった宇宙の王者と思い込むことも出来るのだ」とハムレット第ニ幕場面ニで言っています。

 このエリザベス朝最大の劇作家は,戯曲と詩に,当時の占星学に関する世間の興味を反映させています。もっとも有名なのは「リヤ王」の中で私生児のエドムンドに言わせています。「べらぼうな話だ。運が悪くなると~それはたいてい自業自得なのに,その不幸の原因を太陽や月や星のせいにする。人間は天体の圧迫で,よんどころなく悪者にもなり,阿呆にもなるかのように思って,悪党となるも,盗賊となるも,謀反人となるも,同じく天体の争いがたい感化。大酒のみも,うそつきも,間男も,みんな止むを得ない星の影響。

 おれの親爺は大熊星の下でおふくろとねんごろにして,そのために俺は気が荒くて色を好む。フン,よしんば大空で第一等の潔白な星が,外借腹の真っ最中に,どうきらついていようとも、俺はまさにこの通りにお育ち遊ばしたに相違ないわい」注:外借腹(げしゃくばらの原語は日本で言う「放送禁止用語」ですから,説明しなくてもわかりますよね!

 ラルフ・ワルド・エマーソン,あんたもかい?「占星学は,地上にもたらされ,人間の生活に適用された天文学である」と。
 そういえば宮廷というのは暇だったらしく,エリザベス一世とジョン・デイ,カトリーヌ・ド・メディシスはじめJ・Bモリン,法皇ウルンバ8世,ウエールズ生まれのエヴァンズ,ヨハネス・ケプラー、アラン・レオ,エヴァンゲリン・アダムス,マーガレット・ホーン,最近亡くなった米国のディーン・ラドハイアーなどまだまだおります。




 働く者の眠りは快い/満腹していても,飢えていても。金持ちは食べ飽きていて眠れない。(コヘレトの言葉:第5章12節)

 現在の新宿2丁目はかつての赤線地帯である。パンパンくずれの梅毒もちの女の掃き溜めであったこの2丁目も作家にかかると見違える女になる。

 「青春の門」自立篇で早稲田大学へ入ったばかりの信介は,ある日校門の前にいた2年生の緒方に出会い,物語は始まる。緒方は演劇を専攻し信介は,はじめて新宿2丁目の「かおる」を知る。学生は金がない時,かおるのもとへ本を持参して金を借り,バイトが終わると借りた金と引き換えに本を返してもらう。

 いつもかおるの部屋は,貧乏学生の本でうまっていた。悲しい真理を知りつくしている哲学者的「かおる」と楽しい真理しか知らない学生との交流を描いている。

 緒方は信介に言う。夜になると面白いぞ あっちでもこっちでも女達の例の声がきこえてな。あれは客に早く行かせるための演技にすぎんがね。

 「スタ二スラフスキーの演技論]では,まず自分が感情移入して その役と状況に没入してしまわなきゃならん。

 だがここは演技で没入しちまったら意味がないだろ。自分はあくまでも醒めていて,客だけを興奮させなきゃならんのだからな。

 夢中にならず真に迫る,という困難な命題が彼女達には課せられているわけだ。

 日陰の女を描く場合,具体的な男女の交接はもし表現されれば,一瞬に文学的価値を失う。 谷崎潤一郎の「痴人の愛」の[なおみ]を今演じられる女優はいない。松島奈々子とか藤原紀香では到底お呼びでない不可能な世界なのだ。



こういう女性がナオミのイメージでしょう。なおこの女性は韓国の方です。

 強いてあげれば「なおみ」に一番適しているのは誰であろうか?また河合譲治役には「佐藤浩一」。 もし僕が監督だったらやってみたい。 
 
 これほど難しい映画はないのです。あの「かおる」と同様「なおみ」も悲しい真理を知った女でなければならない。その上で「痴女」を演じる。つまり正気の狂人女を演じるということだ。

 残念ながら楽しい真理しかしらない監督では到底無理なことである。理性の目には「汚辱」と見えることが,感情の目には「立派」に見えるのだから。(ドストエフスキイ「カラマーゾフの兄弟」熱烈なる心の懺悔より)


スタニスラフスキー・「俳優修行」の分析・研究

以下省略~演劇を目指している方はご覧ください

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