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ニコライ二世一族の骨は

日露戦争ビデオ

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むすび大学~教養としての日露戦争

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ロマノフ朝

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高校生のためのロシア

http://www.y-history.net/appendix/wh0602-052.html

ロシア(4) ロマノフ朝のもとでの大国化(ロシア帝国)

17世紀に始まるロマノフ朝は18世紀、ピョートル1世とエカチェリーナ2世というツァーリズム専制君主制の下で全盛期となり、領土を四方面に拡張、後のソ連邦、ロシア連邦の基盤を作った。

ロマノフ朝の成立

 1613年に成立したロマノフ朝は、モスクワ大公国の貴族層が、イヴァン4世死後の動乱時代のポーランドなどの外国の干渉から国家を守るという意識で結束し、その共同の利害を代表するものとして全国会議でわずか16歳のミハイル=ロマノフが皇帝に選出されて始まった。貴族の共同統治という面が強かったが、17世紀中ごろの第2代アレクセイのとき、1670年に農民反乱ステンカ=ラージンの反乱を鎮圧して、農奴制の強化に成功し、また徐々に西欧的な国家機構の整備を進め、貴族世襲制の国から官僚制・常備軍に支えられた絶対主義国家へと変貌していった。またアレクセイの時にはリトアニアに奪われていたウクライナ(かつてのキエフ公国)の東部とキエフを奪還した。キエフはロシア国家の発祥の地であったので、ロシアはその故地を回復したことになるが、それだけに留まらず、先進的な文化を有し西側に開かれた都市を獲得したことはロシアの発展にとっては重要な意味があった。

ピョートル1世

 ピョートル1世(在位1682~1725)は17世紀末にツァーリとなり、自らヨーロッパ各国の視察を行い、積極的な西欧化政策を推進した。特に西欧の技術者を多数招聘し、産業の近代化に力を入れた。ロシアが西欧諸国に互していくためには、バルト海に進出する必要があると考え、バルト海沿岸に面して新都のペテルブルクを建設し1712年に遷都した。その間にバルト海の覇権をめぐって1700年からスウェーデンとの北方戦争を戦い、一時は敗北を喫したがそれを機に軍備を整え、ポルタヴァの戦いに勝利して1721年ニスタットの和約で有利な講和を結んだ。その結果、ロシアは「バルト海の覇者」と言われるようになった。
 東方ではシベリア進出を推し進め、1689年に清の康煕帝との間でネルチンスク条約を締結してた。これは清に有利なものであったが、初めてアジアにおける国境線の画定であった。またベーリングを派遣してカムチャツカ、アラスカ方面を探検させ、ロシアの東方進出の足がかりを作った。南方ではオスマン帝国からアゾフを獲得し、黒海方面への突破口としいわゆる南下政策を開始した。このピョートル大帝の時が実質的なロシアの出発点であり、後のロシア帝国の繁栄、それを領土的には継承したソ連邦、そして現在のロシア連邦のもととなったといえる。「ルーシ」に代わって「ロシア」が正式な国号となるのもこの時である。

ツァーリ専制政治の混乱

女帝エリザヴェータ 1725年にピョートル大帝が死去した後、ツァーリの継承での混乱が続いた。皇后のエカチェリーナ(1世)、孫のピョートル2世、姪のアンナと次々に交替し、さらにアンナの姪のアンナの子イヴァン6世が即位すると、わずか生後2ヶ月だったのでその生母のアンナが摂政となった。その間、ドイツ人の宮廷官僚が政治を主導するようになった。1741年11月、ピョートル1世の娘エリザヴェータはフランスとスウェーデンの公使と結び、近衛部隊を動かしてクーデタを断行、冬宮に入り摂政アンナを逮捕して即位した。
貴族政治と農奴制の展開 エリザヴェータ女帝(在位1741~1761)は父のピョートル1世を模範とした絶対君主制を再建しようとして内閣制を廃止し、皇帝官房を設置して貴族政治に戻した。また製鉄業や酒造業などの商工業育成も図った。しかしツァーリ政治と貴族社会を支えるロシアの農奴制はこの時期にもっとも強まり、農奴に対する虐待は最悪の事態を招いた。
 対外的には、オーストリア継承戦争(1740~1748)ではオーストリアマリア=テレジアと同盟し、同じくオーストリア側に付いたイギリスがフランスと戦うにあたり援軍を送った。次の七年戦争(1756~1763)でもオーストリアを支援しプロイセンのフリードリヒ2世と戦った。
エカチェリーナのクーデタ 七年戦争の最中にエリザベータ女帝が死に、後継には姉の子がピョートル3世として即位した。ピョートルはプロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していたので、オーストリアとの同盟を破棄したため七年戦争はプロイセン不利の情勢が一挙に逆転し、オーストリアの敗北で終わった。このような定見のないピョートル3世は人格的にも未熟なところがあり、1762年、その妻であったドイツのホルシュタイン家出身のエカチェリーナが宮廷官僚と近衛部隊を動員してクーデタを敢行、ピョートル3世を幽閉して女帝として即位した。

エカチェリーナ2世

 エカチェリーナ2世(在位1762~1796)は啓蒙専制君主として改革や文化の保護にあたり、一方ではポーランド分割に加わるなどで領土を拡大した。アメリカの独立戦争に対しては武装中立同盟を提唱してその独立を助けた。この女王の時代はフランス革命、イギリスの産業革命が展開した時期であって、ロシアでも近代化を急がなければならない状況であったが、革命の勃発は避けねばならず、エカチェリーナはもっぱら上からの改革、つまり啓蒙専制君主としての改革を進めることとなった。外交面では1768年にオスマン帝国とのロシア=トルコ戦争(第1次)を開始し、1783年にクリム=ハン国併合、 した。また1772年に第1回ポーランド分割を主導して、領土の拡張を図った。1773年に大規模な農民反乱であるプガチョフの反乱が勃発したが、それを鎮圧した後はさらに反動的になる。
 
ロマノフ王朝の秘宝
 

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