https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/681668c6f3efaccb65a9cfa839bb6b54
先日TeacupからGoo Blogへ引っ越ししてきましたがここのブログは殆どがお花畑記事であり,このような暴露記事は恐らく見る人が殆どいないと思われる。
https://president.jp/articles/-/16322?page=2
..........「理研には闇の部分が多すぎると思ったのである。その闇の部分が拡大し、日本という国家の闇の部分の中に溶け込んでいると思ったのである」と書く。太平洋戦争中に戦時国家体制を支えた存在として、戦後間もなく、理研産業団は解体。それに伴って、理化学研究所も解散させられるが、その根は地下深く残った。
例えばそれが、大河内と田中角栄の蜜月となって現れる。2人の出会いは、大河内が新潟県柏崎に理研関連の工場建設を請け負ったことに端を発する。終戦間際、アメリカの空襲を避けるために、これらの施設を朝鮮に移設する工事を田中が任される。工事費総額だけでも約2000万円。現在のお金に換算すると400億円にものぼる。しかし、戦況悪化により工事は中断し、田中は残金をカバンに詰めて帰国。その金が金権政治といわれる政治の闇につながる。
『角栄さんはその後総理大臣にまで上り詰めますが赤旗に小佐野賢治との錬金術などの特集を組まれたりしました。政治家としての本人は懐が甘いところがあり,政敵三木武夫の子飼いの稲葉修を法務大臣にするという失敗をして,ロッキードでは指揮権発動ならずで逮捕されてしまいます』
注:これらの施設=サイクロトロンなどの原爆関連施設
これだけでは良くわからないでしょう。この頃理研では天才物理学者の仁科芳雄が核物理学の分野で世界をリードしていたのです。
https://www.nishina-mf.or.jp/doctor/
仁科芳雄博士略歴
博士は,1890年 (明治23年) 12月6日,岡山県浅口郡新庄村浜中 (現在の里庄町) の代々庄屋の家に生まれた。皆が認める勉強家で図画などにも多才な少年であった。旧制第六高等学校 工科 (岡山) から東京帝国大学電気工学科に進学し,最先端技術の電気工学を習得して首席で卒業 (卒業論文:Effects of Unbalanced Single-Phase Loads on Poly-Phase Machinery & Phase Balancingをご覧いただけます)。ここで身に着けた技術者の素養が,後の大型実験装置建設の素地になっている。
東大在学中に,世界初の”原子模型” (1904年) を提唱した長岡半太郎教授の講義を聴いて,まだ黎明期にあった「原子の世界の究明」を目指す「基礎物理学」に魅かれ,1920年,「財団法人理化学研究所」(理研)に入所した。理研は,1917年にわが国初の「純正科学たる物理学及びその応用」の研究所として設立されたばかりであった。
入所後,長岡半太郎主任研究員 (東大兼務) の勧めで,1921年、原子の”核”を発見した (1911年) Ernest Rutherford が所長を務めるイギリスの Cavendish 研究所に留学した。そこで,全く新しい「原理」による原子模型を提唱した Niels Bohr との運命の邂逅となる。デンマークのコペンハーゲンにある Bohr の研究所は「量子力学」誕生の中心地だが,そこに Bohr の招聘で移り,1923年より1928年まで,世界の若き天才たちに交じって研鑽を積み,X線分光の傑出した実験成果を挙げた。この間、1927年には、ハンブルグ大学で Wolfgang Pauli のもとで Isidor Rabi とX線吸収の理論研究を行っている。
1928年にコペンハーゲンに戻った博士は理論家としての才能を開花させ,盟友の理論家 Oskar Klein とともに Paul Dirac が新たに発表した「相対論的量子力学」に基づいて,X線の電子による散乱に関する「Klein ―仁科の公式」を導き,原子物理学者として世界に認められた。
この7年に及ぶ滞欧留学の間に,語学に堪能な国際人としての素養を磨くとともに,未解決の課題に人種や師弟にこだわらず自由闊達な議論を通じて共同で挑む「コペンハーゲン精神」を会得して理研に持ち帰った。
帰国後,1931年からは理研で最も小さな「仁科研究室」を主宰することになるが,みずから主たる大学に行脚して新しい原子物理学の神髄を講義するほか、若き天才の話をじかに聴かせようと,資金を調達して Werner Heisenberg,Dirac を招聘。また,放射性同位元素のトレーサー技術を開拓した博士の師である George Hevesy も招聘。さらに1937年には念願の Bohr の招聘も実現した。
これらの講義に魅了された俊英たちが,次々と「仁科研究室」に結集し,理研で最大級の研究室になった。このようにして素粒子,宇宙線,原子核,放射性元素などを探求する世界最高水準の研究者をわが国に育てることに力を尽くした。後にわが国初のノーベル物理学賞に輝く,湯川秀樹博士の「中間子論」,朝永振一郎博士の「量子電気力学」をはじめとする素粒子論,また巨費のかかる大型実験装置の建設による原子核,宇宙線研究の発展,放射性同位元素の医学・生物学への応用分野の開拓は仁科博士の指導と励ましに負うところが大きい。博士は,当時世界最大と称せられた人工元素変換装置「サイクロトロン」を建設したが,1945年11月,原爆開発との誤解で進駐軍によって破壊されてしまった。
原爆投下直後の1945年8月8日,日本帝国陸軍の要請を受けて「原爆かどうか」を確かめるため,広島に入った。レントゲンフィルムの感光,人骨などの放射化など仁科博士ならではの科学的証左から「原爆なり」との結論を出して,わが国の終戦に大きな契機をもたらした。博士は広島の惨状を「まるで生き地獄」と回想している。広島のあと長崎の調査も行って帰京した。放射線の生物影響を研究していた博士にとっては「命懸け」であったにちがいない。
1948年,進駐軍に財閥と見做されて解散となった理研をなんとか存続させるために(財団法人)理所を(株式会社)科学研究所という民間会社に変身させ,その初代社長として奮闘するかたわら,わが国の科学技術の再建にも尽瘁したが,不幸にして途半ばで病に倒れ,1951年1月10日に逝去された。肝臓がんであった。「働きて働きて病む秋の暮」は辞世の句となった。
博士は,1946年文化勲章を授与され,1948年日本学士院会員,1949年からは日本学術会議初代副会長としてわが国の科学界を牽引した。
「戦争はしてはならぬ」は博士の遺言となり,その遺志は「核兵器廃絶」として多くの門弟に引き継がれた。一方,エネルギー資源の乏しいわが国に「原子力」エネルギーの動力源への活用をいち早く訴えたのも仁科博士であった。
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(公開中)高梁川流域デジタルアーカイブ(5分) |
は <中央公論社 科学雑誌 「自然」300号記念 総集録> 仁科芳雄・湯川秀樹・朝永振一郎・坂田昌一(1971年3月増刊号)の「仁科芳雄」抜粋
仁科芳雄博士の偉業
仁科芳雄博士は、わが国の「素粒子論」「宇宙線」「元素変換」「ラジオアイソトープの 生物・医学利用研究」の始祖であり、またウィルソン霧箱、サイクロトロンといった「大型の最先端実験装置建造」の始祖でもありました。これらは、博士の後継者に受け継がれ、湯川秀樹、朝永振一郎、南部陽一郎、小林誠、益川敏英教授の素粒子論に関するノーベル物理学賞、小柴昌俊、梶田隆章教授の宇宙線観測によるノーベル物理学賞を輩出することに繋がっていきます。わが国は、いまでは世界最高性能の大型の宇宙線観測施設、加速器施設の隆盛を誇っていますが、この礎を築いたのも、仁科博士です。
X線分光研究
仁科博士はニールス・ボーアの弟子のゲオルク・ヘヴェシーもとで、まずは原子の研究には必要不可欠なエックス線分光技術の習得から始めました。そしてその最先端を習熟しただけでなく、抜群の実験センスの良さで遂には新しい元素分析法を考案して、ボーアの原子模型の確立に大きな貢献をすることになります。こうして仁科博士は実験家としてボーアらに認められることになります。
素粒子論研究
ところが、博士の才能の開花は、それに留まりませんでした。
それが「クライン─仁科の公式」の導出です。仁科博士はオスカー・クライン博士とともに、 ガンマ線やエックス線といった光子が電子によって散乱されるコンプトン散乱強度を理論的に求めるという大問題に挑戦し、この「公式」を導きました。 下に示した手書きの計算メモは散乱強度を得たところで、長いメモの原本が理研の「史料室」に保管されています。これ はその一部です。 この貴重な史料は、旧理研3号館の博士の部屋にあった段ボール箱のなかから偶然に見つかりました。ディラックが発表したばかりの方程式を用いた計算の悪戦苦闘の跡が見受けられます。
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「クライン─仁科の公式」計算メモ
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仁科研究室の俊英たち
こうして、世界的な業績をあげた仁科博士は、帰朝後、完璧にマスターした量子力学をいくつかの大学に行脚して講義しました。その講義に魅了された若い俊英が、その後続々と仁科研究室に集結します。 仁科研究室の理論研究グループ名簿には、後にわが国の理論物理学を牽引することになるほぼすべての若い研究者たちがずらりと名を連ねています。仁科博士が恩師ボーアから学んだ自由闊達な討論を通じた共同研究環境の中で、これらの錚々たる俊英たちが「日本発の素粒子論」を生み出したことを髣髴とさせます。 ここに写っているのは、仁科研究室に在籍した湯川秀樹博士(左)、朝永振一郎博士(中)、小林稔博士(右)、坂田昌一博士(後)です。坂田博士は、小林博士と益川博士の恩師です。(写真は名古屋大学理学部物理学教室坂田記念史料室 蔵)
宇宙線研究
1935年に湯川博士が、核子間の相互作用を媒介する未知の中間子(パイ中間子)の存在を予言する論文を発表します。仁科博士は世界に先駆けてその存在を宇宙線中に検証するため、世界最大のウィルソン霧箱を建造しました。そして横須賀の海軍工廠にあった潜水艦搭載電池の充電器を借りてこれを稼働し、欧米の1、2のグループとほぼ同時期にパイ中間子が崩壊してできるミューオンの存在を確証し、 米国のフィジカル・レヴュー誌に論文を発表しました。しかも、仁科博士たちが測定したミューオンの質量が世界で最も精度が高かったことは特筆に値します。宇宙線の中に未知の素粒子とその性質を調べるこの研究手法は、小柴博士のカミオカンデ、梶田博士のスーパーカミオカンデでのノーベル物理学賞に輝く発見に繋がっていきました。また、宇宙線の相互作用を調べるため、開通したばかりの清水トンネル内で世界最深度での宇宙線観測を行いました。
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世界最大のウィルソン霧箱
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清水トンネル内での宇宙線観測
元素変換研究
この写真は、1954年に朝日新聞社が撮影した旧理化学研究所の航空写真です。仁科研究室は3号館と右上の23号館、37号館に居室がありました。 仁科博士は、1930年代初頭に始まったばかりの加速器による元素変換研究を世界をリードして推進するため、まず、コッククロフト・ウォルトン静電加速器を37号館内に建設、続いて発明者アーネスト・ローレンスのサイクロトロンから遅れること3年の1937年に小サイクロトロン(写真内上)での元素変換研究を開始しました。世界で2番目でした。
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旧理化学研究所の航空写真(朝日新聞社撮影) 小サイクロトロン(上) 大サイクロトロン(下)
仁科研究室は ➂:3号館 ㉓:23号館 ㊲:37号館(仁科記念室)にあった。
特筆すべき成果は、サイクロトロンによって発生した速い中性子による「新同位元素ウラン237の発見」と「ウラン235の対称核分裂の発見」で、これらは、英国のネイチャー誌と米国のフィジカル・レヴュー誌に発表されました。前者のウラン237は負電子放出のベータ崩壊をして93番新元素となることが確認され論文に発表されました。こうして仁科博士の放射化学グループは世界初の超ウラン元素の発見者となる筈でしたが、不運にも、半減期が非常に長かったため、その崩壊系列の中に化学分離できず、新元素発見の栄誉にまでは浴せませんでした。しかしこの仁科先生の新元素発見の夢は、60年有余を経て理研仁科センターの森田浩介博士(2005年仁科記念賞受賞)らの113番新元素ニホニウムの発見で叶うことになります。欧米の核物理学者を驚嘆させたのは後者です。ウラン235の核分裂は遅い中性子の吸収でしか起らないという常識を覆したからです。太平洋戦争勃発直前に仁科博士の命を受けて渡米した矢崎為一博士は、これを米国の学会で発表しました。その時の錚々たる核物理学者の絶賛の様子が、矢崎博士が仁科博士に送った手紙に活写されています。 仁科博士はこれらの研究をさらに推進するため、ローレンスの助けを借りて、より高エネルギーでよりビーム強度の大きい大サイクロトロン(写真内下)を敗戦間際の1943年の暮れに始動しますが、敗戦後1945年11月に突如占領軍によって切り刻まれて東京湾に投棄されてしまいました。その後、株式会社から特殊法人になった理化学研究所は埼玉県和光市に移転し、1967年、仁科博士の大サイクロトロンを再建します。さらにこれをステップアップして、2007年、世界最高性能の超伝導サイクロトロンが始動しました。
広島・長崎原爆被害調査
章末に掲げた遺稿集「原子力と私」の「原子爆弾」によると、1945年8月6日に広島に原爆が投下された2日後、仁科博士は日本帝国陸軍の要請で、投下された爆弾が原爆かどうかを検証するため広島に入ります。放射能の生物への影響を熟知していた博士にとっては命を賭した調査でした。写真は、その時博士が携行したA5判のノートです。これは今では、「仁科ノートI」「仁科ノートII」 (コピー) (原本とコピー:【パスワードはお問合せ下さい】)と通称されています。記述は、8月9日から始まり、投下された爆弾の威力が物理的、生物学的に分析されています。8月10日の調査隊の会議で、博士は「爆薬にあらず(中略)原子弾又は同程度のもの」と結論(判決)しました。そしてこの判決は即座に大本営に報告されました。8月15日、日本は無条件降伏しました。これには仁科博士の結論が決定的な影響を与えました。博士は、広島の後、続けて長崎の現地調査も行い、回顧録 (「原子力と私」の「原子力の管理」)で「まさに生き地獄であった」と記しています。博士が「原子力の平和利用」を訴える一方で「核の国際管理」を強く世に訴えたのは、原爆被害の惨状を目の当たりにした原子物理学者としての責任感によるものだったのでしょう。
史料1:当時の国策通信社 同盟通信(共同通信、時事通信の前身)が、川越市にあった受信所で傍受した「原爆投下」についての「トルーマン大統領声明」「アトリー首相声明」等を翻訳して大本営と仁科博士に届けた「敵性情報」。
史料2:陸軍の軍用機で広島に向う前日の夜、門弟の玉木英彦博士に宛てた「置き手紙」 この情報は同じく門弟の武見太郎元日本医師会長(仁科博士の主治医)の義祖父である牧野伸顕伯爵を通じて即座に昭和天皇に上奏された。仁科記念財団編纂「原子爆弾」宣伝広告の編集者の言葉のうち、武見太郎を参照されたい。
日本アイソトープ協会と科研製薬株式会社の設立
わが国で最初に、ラジオアイソトープを加速器で 製造しこれを最先端の生物・化学・医学研究に利用 したのは仁科博士です。仁科研究室で研鑽を積んだ 俊英たちが戦後日本のラジオアイソトープ科学を発展させました。その中には後に日本医師会の会長と なった武見太郎博士もいます。 戦後、大小の2台のサイクロトロンを失ってしまった仁科博士はGHQ との粘り強い交渉の末、アメリカから原子炉製のラジオアイソトープを輸入することに成功します。この写真は、1950年に輸入されたラジオアイソトープを取り出して感無量のスナップです。このラジオアイソトープ輸入供給事業は、博士の没後1955 年より日本アイソトープ協会(初代会長:茅誠司)に受け継がれ日本の医療に大きく貢献しています。協会は、今も旧23号館に本部があります。 財団法人理化学研究所は財閥と見做されて GHQ によって解体されることになりますが、仁科博士の英断 で株式会社科学研究所に改組し1948年民間会社として再出発することになります。この会社は、現在の科研 製薬株式会社の前身です。仁科博士は新会社の財政基盤を固めるため創薬事業に乗り出します。博士は本業の真空技術を活用して真空培養器(左)を開発し、ペニシリン、ストレプトマイシンの商品化で利益を上げ て事業家としての才能を発揮しました。
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アメリカから輸入した原子炉製のラジオアイソトープ
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ペニシリン製造用の真空培養器
日本の科学研究体制の刷新
仁科博士は、科学研究所の経営に腐心するかたわらで、日本の科学体制の刷新にも力を尽くしました。それが、日本学術会議の創設です。博士は志を同じくする日本の科学者に加え、親交を深くしたGHQ 経済科学局科学技術部長ハリー・ケリーらとも議論を重ねて、1949年、全国の科学者の選挙による日本学術会議を創設しました。 写真(下)は、右から仁科芳雄初代自然科学部門副会長、ケリー、亀山直人初代会長、我妻栄初代人文・社会科学部門副会長、兼重寛九郎 (後の会長) が一同に会しているスナップです。(ノースカロライナ州立大学図書館 所蔵)
仁科博士は、同時期に広島の原爆調査を行った荒勝文策京大教授とともに「日本学術会議は、平和を熱愛する。原子爆弾の被害を目撃したわれわれ科学者は、国際情勢の現状に鑑み、原子力に対する有効なる国際管理の確立を要請する」という声明を起草し、満場一致で承認されました。この声明の自筆の原稿 が残されています。文頭の「平和を熱愛する」は亀山会長が付け加えた言葉です。
また、最晩年には、日本の科学界の代表として国際学術会議やユネスコ会議に出席して平和を求める国際社会への復帰に尽力しました。
仁科芳雄博士の墓
還暦を迎えてまもなく鬼籍に入られた仁科博士のお墓は、東京都府中市の多磨霊園にあります。墓標の揮毫は、親交の深かった当時の首相吉田茂です。そして左傍らには、ケリー博士が分骨されて眠っています。揮毫は、茅誠司日本アイソトープ協会初代会長、元東京大学総長。また、右傍らは、朝永振一郎博士のお墓です。揮毫は、武見太郎元日本医師会長。墓標には「師とともに眠る」とあります。敗戦日本の科学技術の復興に尽瘁した仁科博士との厚い同志愛、子弟愛がここに眠っています。
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仁科芳雄博士の墓
あくまで参考に~うまく誘導されていますね。竹やりで最後まで戦うとした第二総軍をピンポイントで皆殺しすることは空からでは不可能です。第一アインシュタインがあんなでかいものを飛行機に載せるなんて不可能だと大統領に手紙まで送っていますね。何よりも起爆装置のサイクロトロンなんて一軒家位の大きさですから。上のビデオには当然ありませんが湯川秀樹(当時理研の助手みならい)がスパイの役割を果たしたことは広く知られています。その見返りがノーベル賞とは........
田中角栄の生みの親は理研3代目所長子爵大河内正敏で仁科芳雄博士は4代目所長です
ついに地上起爆の仕組みがわかった
https://1tamachan.blog.fc2.com/blog-entry-15368.html
下の記事にはこう書かれています~パンプキン爆弾(ファットマン)は使用されることもなく、機密保持のためテニアン島の沖合に海中投棄されたといいます。
http://www.peace-aichi.com/piace_aichi/201210/vol_35-13.html
ご丁寧にNHKがちゃんと放送しています。飛んできたのはエノラゲイのみでラジオゾンデを何個かパラシュートで落としています。放射能の記録装置なのですがちゃんと密約で日本軍が回収してくれているのです。エノラゲイを急遽爆弾倉つきの爆撃機にすることなどありえないことでしょう。
B29:エノラゲイ最後の乗組員の証言
広島原爆投下機、B29エノラゲイの乗組員で最後に生き残ったヴァン・カーク氏は、日本の取材AERAに対して気になる意味不明の言葉を残した。
その言葉とは「物事には諸説ある。一部は事実だし、真実でない情報も紛れ込んでいる。実際に何が起こったかの詳細は、あなた方は決してみつけられはしないさ」と・・・・。
これはB29-エノラゲイが広島に原爆を投下したのではない秘密の暗示だった。
戦前、理研の仁科・武谷原爆はウラン10%濃縮で使えた。これに水を加えると立派な核爆発になる。実際に核爆発したのは800グラム。
『日米がもっとも隠してきたかった事は負ける役を演じることになった日本が自ら原爆をしかけ、あたかも仮想敵国から落とされたかのごとく装うことである......』下の記事より
「広島で使われたのは、このウランの大砲爆弾だった」
http://ameblo.jp/bishamonten337/entry-10811783889.html
映像は1953年5月25日米国での15キロトンの核爆発(広島と同じ規模)
理研の元研究員・槌田教授がさらりと激白!!!
管理人注:これは完全な地上起爆(広島に続いて長崎も)
https://youtu.be/8nqp_nfZzzU?t=1807
水を使う原爆~30分から46分
決定的な話~38分から.........大砲の中に10%濃縮ウランを入れてから水を入れるとある時間が経過すると大砲もろとも核爆発する。下の映像は研究により砲弾として7マイルも飛んだがこの場合は第二総軍と学徒の皆殺しを狙ったピンポイントで地上起爆したのでクレーターは殆どなかった。一般市民は人体実験が目的 使用された砲身は五式十五糎高射砲か五式13の砲身を短く切ったものかと思われる。特に五式十三糎高射砲は広島でも長崎でも配置してあったろう。これに10%濃縮ウランをつめ水をかけて地上起爆に成功したということだろう。別の見方では沈没前の大和の製造段階の46センチ砲が使われた可能性もある。大和が地上起爆の実験台になったとの記述もあるしあれだけの巨艦船が真二つに割れることは考えずらい。
https://youtu.be/8nqp_nfZzzU?t=2364
当時のパイロットの証言
http://datasea.seesaa.net/article/465501669.html
元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言!
https://youtu.be/o1dKP3cv9zw
↑動画 「私、空中から爆弾を落としたとは思ってないんですよ。下から爆発」
元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏の証言!
【戦士の証言】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く Part3[桜2010/8/13]
https://www.youtube.com/watch?v=07eSQ82V15U&list=PLBF239C1C967DFAD8&index=2
↑動画 【証言シリーズ】元第343海軍航空隊 少尉 本田稔氏に聞く 後編[桜2010/8/5] 15分くらいから原爆証言
肝心な発言は以下にある~地上起爆の決定的な証拠
https://youtu.be/o1dKP3cv9zw?t=233
こんな事、また起きるんじゃないかな、こんな事を許しとったら
長崎原爆投下の5時間前に軍の指導者は知っていた。
66年経って真実を伝えられた本田稔さん
「分かってた!?なんで命令出さんのですか。5時間もあれば十分待機できたはずですよね。
これが日本の姿ですかね。
こんな事、また起きるんじゃないかな、こんな事を許しとったら 」
そして、日本の降伏が決まり、証拠資料は燃やされ、灰は粉々にされた。
本田さんの地上起爆の発言はカットされていますがこのビデオは長崎の原爆。
一応投下5時間前に紫電改に迎撃を準備させB29(ボックスカー)を迎撃していたら原爆投下の大義名分が成り立たなくなるからです。
これが地上起爆させた裏の真実です。
以下は本田少尉の貴重な証言です。
関連記事~
http://ameblo.jp/tamaichi2/entry-12166559208.html
http://cosmic-dance.blogspot.jp/2016/03/blog-post_62.html
<転載開始:すべて原文のまま>
幾多の実際の戦闘で、爆弾や爆発状況を見ていた軍事的に専門的知識のある彼が広島原爆の爆発の瞬間に広島城上空を紫電改で単独飛行しており
目撃体験、その生々しい証言では「私は空中から爆弾落としたとは思ってないんですよ。
下から爆発、何で何が爆発したと思って上を気をつけてませんから全然知りませんねB29に対しては・・・」の一言。
彼がウソの証言をしているとは思えません。
この発言後の日本の戦争への取り組み方への疑問も、彼の軍人としてのまじめさ、冷静な判断の持ち主であったことが伺えます。
2つのユーチューブの証言、どちらもインタビュアーがB29からの投下についてとあえてB29を絡めて聞いているのですが、
彼は完全にB29については存在をスルーしています。
戦闘機乗りならまずは上空をチェックしたり爆撃機を探すはずです。
つまりは、彼が目視できる範囲に爆撃機は見当たらなかったということでしょうね。
爆発前にも、もしB29が上空にいて投下したとしたら飛行気乗りとして目の前の状況を捉えるはずです。
この大和のことも含めて、戦後の敗戦処理のために、とにかく本来の家族を守ろう、故郷を国家を守ろうとしていたクソまじめな優秀な軍人たち(陸軍、海軍それぞれに)を一同に集め
一瞬で大量抹殺する。
それがずる賢い敵国とも手を結んだ支配者層の考えていたことでしょう。
天皇家側のサブミナル
https://ameblo.jp/kazukttk/entry-12756728922.html
私たちは現代史の転換点にある
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/2232657.html
日本などはロシアは悪というプロパガンダを継続している以上非常に近い将来手ひどいしっぺ返しを食らいそうだ。