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日本は侵略国家宣言

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http://ameblo.jp/stageup-gate/entry-11082956802.html

『人類史全体に興味のある方はこのサイトで勉強されたら良いと思います。歴史の変遷は常に一部の先導創造者誘導により創られて来た洗脳操作による歴史変遷 近代史部分の流れの要約です。人類の歴史経緯を学ぶなら此のサイトです』

小泉「日本は侵略国家」宣言

http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/2001-10/2005_koizumi_shinryaku.html

平成17年(2004)4月22日に、首相の小泉はアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の壇上に立ち、高らかにこう宣言してしまった。
「(わが国の)植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた。・・・・・こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ」

細川の「侵略戦争」発言や村山の「侵略」発言は国会や近隣諸国との二国間会談だったが、小泉は国際会議でアジア、アフリカの各国首脳が集まる場で、「わが国はアジアを侵略した」と公言してしまった。

  細川の「侵略戦争」発言
  村山の「侵略」発言

世界中で一国の最高責任者が自国は侵略国家だと宣言する国はない(日本を除いて)。たとえ明らかに侵略を行なったとしても自国の行為を正当化し、自国の言い分を主張するものである。

日本は侵略国家ではない。日本が侵略国家というのは東京裁判によって作られた虚構に過ぎない。

なぜ小泉はこんなことをのたまったのかといえば、バンドン会議の直前に、反日教育で洗脳された支那人が、小泉の靖国神社参拝などを口実に支那各地で反日暴動を繰り広げ、日本の国旗を焼き、在支日本領事館、大使館を汚し、日本人経営の店を襲撃し、日本人に暴行を加えていた。日本政府の抗議に、支那は「日本が支那侵略の歴史を反省しないからだ」とずうずうしくも日本側に責任を転嫁した。小泉はこの件で、「とりあえずは謝っておけば支那も黙るだろう」と考えたのだ。
バンドン会議での暴言は小泉得意の場当たり的発言だった。

この小泉の謝罪発言に対して、支那からは「立ったままでの謝罪は誠意のない証拠だ」「ひざまずけ!」「土下座しろ」と逆に辱められた。
さらに小泉は8月2日の衆議院本会議で「戦後六十年」
の反省謝罪決議を採択、続いて小泉は8月15日に「反省と謝罪」声明を行った。

日本の売国奴史

年 月 売国奴と売国行為
1941年
(昭和16) 12月
8日 大使館員の怠慢で「奇襲攻撃」に
井口貞夫(いぐち さだお)、奥村勝蔵(おくむら かつぞう)、寺崎英成(てらさき ひでなり)といった輩は送別会をやっていて国交断絶の通告書を渡すのが遅れ、真珠湾攻撃をスニーク・アタック(騙まし討ち)にし、「リメンバー・パールハーバー」というアメリカの口実にされてしまった。
1946年
(昭和21)
? 東京裁判当時に東大教授だった横田喜三郎は、裁判中にマッカーサーの「極東軍事裁判所条例」を擁護した。横田は「東京裁判は世界が最後の審判を下したもの」とキリスト教の神の裁きのごとき表現をし、日本の自衛論を否定した。「日本の戦争は20年間の侵略」と連合国側の立場で決め付けた。さらにいい加減なパリ不戦条約を持ち出し日本を断罪した。この横田喜三郎は後に最高裁判所長官となり、勲一等旭日大綬章を与えられた。
1982年
(昭和57) 6月26日 教科書誤報事件起こる。これに関して、官房長官の宮沢喜一が談話(宮沢談話)を発表し、誤報を事実として謝罪。
1986年
(昭和61) 「新編日本史」外圧検定事件起こる。中曽根康弘内閣、後藤田正晴、文部省は、支那や朝鮮の内政干渉に屈する。
1990年
(平成2) 3月 大蔵省銀行局長である土田正顕(まさあき)(大蔵大臣は橋本竜太郎)が総量規制の通達出したことにより、土地は暴落、莫大な不良債権が生まれ、1650兆円が消え、景気はすっかり冷え込み、今も日本経済を苦しめている。
1991年
(平成3) 首相の海部俊樹は訪問先のシンガポールで「多くのアジア・太平洋地域の人々に、耐えがたい苦しみと悲しみをもたらした我国の行為を厳しく反省する」などといったたわごと(海部「反省」発言)をのたまった。海部は中曽根内閣の文部大臣として、昭和61年(1986)の「新編日本史」外圧検定事件での売国的役割を演じた責任者である。
11月 宮沢喜一内閣が成立。この前後から朝鮮の戦争被害者と称する人間の訴訟が相次ぐ。
1992年
(平成4) 官房長官の加藤紘一は、「従軍」慰安婦問題に触れ、事実ではなく、証拠もまったくないのに旧日本軍の関与を公式に認め、謝罪してしまった。その直後に、韓国を訪問した首相の宮沢喜一は、韓国国会で公式に謝罪してしまった。
さらにこの年の暮れ、官房長官になった河野洋平は朝鮮の「従軍」慰安婦問題で根拠がまったくないのに強制連行があったと認める発言を行なってしまった。
1993年
(平成5) 8月 首相の細川護煕(もりひろ)は、「大東亜戦争は侵略戦争と発言。後の国会の所信表明でも同様の暴言を繰り返す。
11月 韓国を訪問した首相の細川護煕(もりひろ)は、「わが国の植民地支配によって、朝鮮半島の方々が、母国語教育の機会を奪われたり、生命を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用などで、耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことに加害者として心より反省し陳謝したい」などとありもしない事を羅列してわびてしまった。(参照:創氏改名、「従軍」慰安婦)
1994年
(平成6) 首相の羽田孜(はたつとむ)は、「日本は侵略した」と発言。
1995年
(平成7) 6月 首相の村山富市は戦後五十年国会決議を衆議院本会議で採択させた。また、土井たか子を団長とする謝罪使節団を、アジア諸国に派遣。
7月 首相の村山富市はアジア女性基金なる代物を設立、韓国、台湾、フィリピンに金をばら撒く。
8月 首相の村山富市は戦後50年の首相談話(村山)を発表。
11月 首相の村山富市は「首相の韓国大統領への書簡」を送り、土下座外交を完成させた。「植民地支配の下で、朝鮮半島の人々に耐え難い苦しみと悲しみを与えたことについて、深い反省と心からのお詫びの気持ちを表明する」などと相変わらず史実を歪曲したたわごとをほざいてしまった。
90年代
半ば マレーシアのマハティール首相が提唱したアジアの経済ブロック化を、アメリカの意向を受けて、橋本龍太郎(通産相)と河野洋平(外相)は潰そうとした。アジアの経済的団結を訴えてきたマハティール氏は東アジア経済協議体(EAEC)の結成を呼びかけたが、アジア経済の強大化を防ぎたいアメリカの反発にあった。圧力をかけてきたアメリカに橋本と河野はおそれをなし、積極関与をためらったばかりか、EAECにオーストラリアを入れようなどと言い出した。マハティール構想は、アジアの白人支配に終止符を打つ目的を持っていた。さらに河野は外相昼食会でオーストラリアの参加を渋るマレーシアを罵倒、ASEAN諸国の外相をあきれさせた。。
1996年
(平成8) 6月 首相の橋本龍太郎は「創氏改名などが、いかに多くの韓国の方の心を傷つけたかは創造に余る。(従軍慰安婦問題に関しては)これほど女性の名誉と尊厳を傷つけた問題はない。心からお詫びと反省の言葉を申し上げたい」と史実に反することをのたまって謝罪。(参照:創氏改名、「従軍」慰安婦)
8月 終戦記念日前日、首相の橋本龍太郎は元「従軍慰安婦」などという人々宛てに「おわびの手紙」などという馬鹿げた代物の中で、「従軍慰安婦」への軍の関与を明記し、謝罪した。
8月 終戦記念日当日に、首相の橋本龍太郎は「アジア諸国民への加害」なるものに言及、「深い反省と哀悼の意」を表明。
鳩山由紀夫、菅直人らが中心となって誕生した民主党は、「日本は何よりも、アジアの人々に対する植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えている」などとほざき、元「従軍慰安婦」なる人物に深い反省と謝罪を基本政策にかかげた。
1997年
(平成9) 1月 首相の橋本龍太郎は、大分県別府市で日韓首脳会談が行なわれたとき、韓国大統領の金と握手する際に左手で右手を支えて差し出し、臣下の礼をとる行為を行なう。橋本はこの前年の訪韓時にも袖をまくり上げる動作で臣下の礼を示すなど卑屈な対応を続けてきていた。橋本はあたかも支那と勧告の傀儡政権のごとくであった。竹島だけでなく、尖閣諸島の領有権に対しても顔色をうかがい続けた。
5月 首相の橋本龍太郎は西村信悟氏の魚釣島の上陸視察に対し、上陸するなら土地所有者の許可を取っていけ、などとほざいた。
2000年
(平成12) 大蔵大臣をしていた元首相の宮沢喜一は、G7(先進国七カ国財務省・中央銀行総裁会議)に出席したとき、日本は日銀の金利4%引き下げを提案する意向だったが、アメリカのサマーズ財務長官が宮沢を呼びつけて撤回を要求すると、宮沢はいとも簡単に同意し、従来どおりゼロ金利を継続した。サマーズは会談の後、「宮沢はちょっと脅かせば言うことを聞く」とうそぶいていた。
2001年
(平成13) 8月13日 終戦記念日8月15日の靖国神社参拝を公約に掲げて首相になった小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて二日前倒しし8月13日に参拝。小泉はこの後、支那に謝罪旅行に出かけた。
10月 官房長官の福田康夫は「追悼・平和記念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」などという施設懇談会を設置し、靖国神社に代わる施設の審議を始めた。
11月 首相に就任した後初めて訪韓した小泉純一郎は、「日本の植民地支配により韓国の国民に対して多大な損害と苦痛を与えたことに対し、心から反省とお詫びをする」と記者団に語った。
2002年
(平成14) 2月 アメリカ・ブッシュ大統領の日本の首相(小泉)との靖国神社への参拝を外務省と首相官邸が拒絶。結局、明治神宮に代えられ、小泉純一郎は行かずにブッシュ夫妻だけで参拝した。
4月21日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて4月21日に参拝。
6月 総理就任後、アメリカを訪問した小泉純一郎はアメリカ大統領ブッシュに「戦争に負けて日本国民はアメリカの奴隷になるかと考えていた。しかしアメリカが寛大に接し、食料も提供してくれたため、アメリカが日本を旧日本軍から解放してくれたという気持ちが強い」などとのたまった。
? 首相の小泉純一郎は、橋本の路線を踏襲して、元「従軍」慰安婦という人に対して、「いわゆる従軍慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題でございました。私は、日本国の内閣総理大臣としてあらためて、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し、心からお詫びと反省の気持ちを申し上げます」との手紙を送った。
2003年
(平成15) 1月14日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月14日に参拝。
2004年
(平成16) 1月1日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月1日に参拝。
2005年
(平成17) 4月22日 小泉純一郎の「日本は侵略国家」発言
8月2日 小泉政権、衆議院本会議で「戦後六十年」の反省謝罪決議を採択。
8月15日 小泉純一郎「反省と謝罪」声明
10月17日 首相の小泉純一郎は支那と朝鮮の非難を恐れて1月1日に参拝。

時期不明 民主党の元党首の菅直人は「日本は何よりも、アジアの植民地支配と侵略戦争に対する明瞭な責任を果たさずに今日を迎えて」などとほざき、民主党の基本政策に元従軍慰安婦への深い反省と謝罪を掲げている。
時期不明 民主党の元代表の岡田克也は「靖国神社には参拝しない」と明言している。
時期不明 衆議院議長の河野洋平は外遊に出かけたとき、途中、台湾の台北に飛行機が降りた。支那に気兼ねした河野は飛行機の中から一歩も出ずに、長時間、機内で我慢していた。河野は支那の忠実な下僕である。

細川護煕「侵略戦争」発言(1993年8月)

平成5年(1993)、自民党政権が倒れ、非自民六党連立与党で誕生した内閣の首相となった細川護煕(もりひろ)は、8月10日の記者会見で、大東亜戦争について「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」というとんでもない発言をしてしまった。

また、8月23日に行われた国会の所信表明でも「わが国の侵略行為や植民地支配などが、多くの耐え難い苦しみと悲しみをもたらした」という暴言を繰り返してしまった。

日本の総理が国政の場で「大東亜戦争は侵略戦争で、日本は侵略国だ」と断定したのは、戦後、細川護煕が初めてである。支那や朝鮮をはじめ、近隣諸国や欧米各国から戦後、大東亜戦争は侵略戦争だと決め付けられても細川以前の歴代総理は、頑として認めなかった、少なくとも国益を損なうことがわかっていたのである。
一国の総理が侵略戦争をやったと認めるというのは決定的な意味を持っている。パリ不戦条約(ケロッグ・ブリアン協定)で「その国が侵略戦争と認めれば侵略戦争、自衛戦争と認めれば自衛戦争」と決められていたからである。
日本の総理が過去の戦争は侵略戦争で日本は侵略国と断じたのだ。諸外国は戦争責任を追及し、賠償金を要求できる。はたして、細川のこの暴言の翌月、来日したメージャー・イギリス首相は「捕虜となったイギリス人に日本政府は補償すべきだ」と言い出した。これに対して細川は、「何らかの形で償います」などととんでもない返答をしてしまった。この後は、支那、朝鮮はもちろん、オランダ、アメリカからも「謝罪しろ」「賠償しろ」「補償しろ」という声が噴出した。

細川は11月に韓国を訪問した際、「わが国の植民地支配によって、朝鮮半島の方々が、母国語教育の機会を奪われたり、生命を日本式に改名させられたり、従軍慰安婦、徴用などで、耐え難い苦しみと悲しみを体験されたことに加害者として心より反省し陳謝したい」などとありもしない事を羅列してわびてしまった。(参照:創氏改名、「従軍」慰安婦)

祖国を贖罪賠償国家に転落させた細川護煕の罪は、歴代首相の中でも最も重い。


村山談話(戦後50年の首相談話)(1995年)

平成7年(1995)8月15日、首相の村山富一は総理官邸で記者会見し、「日本の植民地支配と侵略によって、多くの人々、とくにアジアの諸国の人々に多大な損害と苦痛を与えた」と発表、大東亜戦争を侵略戦争と断定し、「痛切な反省の意を表し、心からお詫びの気持ちを表明いたします」などとほざいて頭をたれた。村山は明らかに史実を歪曲してしまった。

村山のほざいた話は以下のとおり(重大部分かつこの談話の趣旨は赤字で表示)。

先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様1人1人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを2度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

この談話は、戦争の原因、当時の国際情勢などを検証せずに、社会党の歴史認識そのもので、我が国の過去を否定し、民族の誇りを放棄したものである。
戦争とは、国策の衝突の結果起こるもので、正義が勝って不正義が負けるものではなく、力の強い者が勝って弱い者が負けるのである。我が国が大東亜戦争に負けたのは、わが国が不正義だったからではなく、一所懸命たたかったが力が及ばなかっただけのことで、負けたが故に、戦勝国から東京裁判という茶番劇で「悪者」とされただけの話である。それにもかかわらず、村山はこんなことをほざいてしまったのだ。

これは戦争謝罪の国会決議という羽田孜の「謝罪表明」が、505万3647人という大量の反対署名に実現を妨げられたことの埋め合わせとして、村山とその周辺によりだまし討ち的に行なわれたものである。

「戦後五十年国会決議」が参議院でも採決が見送られ実質上無効となった。これではせっかくの決議の権威もない。評価もされない。そこで村山富一らは総理大臣としての談話を出す道を選んだ。
1995年8月15日、村山は学者や内閣外政審議室長の谷野作太郎ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、官房副長官の古川貞二がこの悪名高き「村山談話」を読み上げた。
談話を出すにあたって村山は記者会見に臨んだ。村山は「談話で日本が過去に国策を誤ったとして謝罪したが、具体的にどの政策をどのように誤ったと認識しているのか」と問われた。すると驚くことに村山は絶句するだけで答えられなかった。村山は何も知らずにこんな談話を出したわけだ。

  羽田孜の「謝罪表明」

歴代自民党内閣は、支那や朝鮮の反発を恐れてか、消え去った社会党の歴史観に基づく悪質な「村山談話」を自動的に踏襲している。

小泉純一郎
2005年8月15日の終戦の日には、内閣総理大臣の小泉純一郎が、村山談話を踏襲した『小泉談話』を再度発表して、再びアジア諸国に謝罪。

安倍晋三
2006年10月5日、衆議院予算委員会で内閣総理大臣の安倍晋三も村山談話について、「アジアの国々に対して大変な被害を与え、傷を与えたことは厳然たる事実」であることは「国として示した通りであると、私は考えている」と再確認、これを1993年の『河野談話』と共に、「私の内閣で変更するものではない」と明言。

福田康夫
自由民主党総裁選挙における総裁候補だった2007年9月19日、日本外国特派員協会での記者会見にて「首相が言ったことだから正しいものと考える必要がある」と述べ、同じく候補者の麻生太郎も「歴代内閣は皆、同じことを申し上げてきている」と発言している[5]。

麻生太郎
2008年10月2日、内閣総理大臣の麻生太郎が代表質問で、村山談話の継承を表明。また、同年11月、航空幕僚長の田母神俊雄氏が当該談話を否定する論文を発表し、航空幕僚監部付に更迭。

韓国はサンフランシスコ講和条約に関係なく、何の発言権もない。支那は、同じ支那でも文句を言っているのは日本と戦った台湾政権ではなく、支那共産党である。この二国に尻尾を振り振り媚態を取り続けているのが社会党である。
そして尻尾を振り続けるための「村山談話」が、いまだに自民党内閣を束縛している「見解」というのだから、驚くべきことである。
社会党政権時代の、しかも国会決議がうまく通らなかったためにドサクサに紛れて出した首相談話を自民党は今日まで訂正することなく、それに束縛されてきたとは信じがたいことである。

「村山談話」を出した時、外務省はすべての大使館に対して、「これは閣議決定であるから重視するように。そのつもりで各国に説明するように」という主旨の指示を出している。「村山談話」は「外務省談話」と言ってもいいだろう。

アインシュタインの発言

「近代、日本の発達ほど、世界を驚かしたものはない。この驚異的発展には他の国と異なる何ものかがなくてはならぬ。果たせるかな、この国、3千年の歴史がそれであった。この永い歴史を通じて、一系の天皇を戴いたという比類なき国体を有することが、日本をして今日あらしめたのである。私はいつも世界上のどこか一カ所位、このような尊い国がなくてはならぬと考えていた。何故なら世界の未来は進むだけ進み、その間幾度びも争いは繰り返され、最後に戦に疲れる時が来る。その時人類は必ず誠の平和を求めて世界的盟主をあげねばならぬ時がくる。この世界盟主なるものは、武力や金の力ではなく、凡ゆる国の歴史を抜き越えた最も古く又尊い家柄でなくてはならぬ。世界の文化はアジアに始まってアジアに帰る。それはアジアの高峰日本に立ち戻らねばならぬ。吾々は神に感謝する。天が吾々に日本という尊い国を作って置いてくれた事を」

これは1922年にアインシュタインが日本を訪れた時に、日本に託した言葉
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