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石田昭義氏(地の塩書房主)トルストイの散歩道 略年譜より抜粋 https://www.a-inquiry.com/ijin4235/ 注:訳者の経歴 1882年『懺悔』を発表。発禁処分にあう。 |
「この年まで成熟して 心身共に発達し、
人生の展望が開ける 生の頂点に達して、
さてそこで、見渡してみれば、
人生には 何もないし、
過去にも なかったし、
未来にもないであろうことが はっきりと分かって
バカみたいに ぼんやりと その頂点に立っている」
といった心の状態であった。
だからといって、
「お前は 生の意義は 悟りっこない。
考えるな。 ただ 生きよ。」と言っても、
そんな訳には行かない。
私は 以前から、あまりに長い間、そんな風に暮らして来すぎたのだから。
トルストイは、自然科学から哲学まで、
人間が獲得したあらゆる学問の中から、
その疑問に対する説明を探した。
--- それでも なんにも 見つからなかった。
その間、自殺の想念が ごく自然に生じてきた。
やがて、トルストイは その解答が
自ら不合理と考えていた「神への信仰」の中にあることを
それも、無学で貧しい 素朴な 額に汗して働く農民や
労働者の信仰の中にこそ あることを悟る。
私は、神を感じ、神を求めるとき、そんな時だけ よみがえり、
まぎれもなく生きていることに気付く
かくて私の内部 および周辺において
すべてが いまだかつてなかったほど 明るく輝き、
そしてその光は もう 決して私を離れなかった。
---しかし この大転換は、
ある日 突然に私の内部に生じたのではない。
何十回何百回と、喜びと生気、それに続く絶望と
生存不可能の意識を繰り返して、
いつのまにか 徐々に 生の力が私に帰ってきたのである。
こうして生きる光を得たトルストイは、
さらに信仰の問題を掘り下げながら、
自身はルパシカ(厚地の白麻製民族服)を着、
野に出て田畑を耕し、肉食を断ち、
野菜と黒パンを糧(かて)としながら、
今まで書いてきた『戦争と平和』や
『アンナ・カレーニナ』などの大作を否定し、
民衆とともに生き、人生のために有益な
しかも一般の民衆に理解されるものを
民衆自身の言葉で、民衆自身の表現で、
単純に、簡素に、わかり易く書こう
と決意するのである。
そのような中から 次々と 民話が誕生した。
空っぽな人生を送ってきた
なんとなく太宰治の人間失格に似ているなあ
第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです.......
空っぽな人生を生きてきた
http://diamond.jp/articles/-/32827
『考える生き方』は、ネット界で尊敬を集めるブロガー・finalvent氏の第1作。自身の人生を「からっぽだった」「失敗だった」と吐露する稀有なスタンスが多くの人の共感を呼び、人生の「むなしさ」と苦難を受け止めるヒントになる内容として話題となっている。この連載ではその「はじめに」と、「おわりに」の代わりとして小冊子「Kei」書かれたエッセイを紹介する。
昨年の夏、55歳になった。
私が子どものころ、1970年代の大企業の定年は55歳だった。子どものころの私は、自分が55歳まで生きていたら定年になってもう仕事をすることはないだろうと思っていた。そのあとの人生は余生だろうとも。
現在の企業の定年は65歳くらいだから、55歳で余生とか人生とか考えるのは早すぎる。それでも自分の人生の大半は終わった感じはする。55歳まで生きられなかった人もいろいろ見てきたから、ここで人生が終わってもしかたない。
自分の人生はなんだったんだろうかと思うようになった。
なんだったか?
からっぽだった。
特に人生の意味といったものはなかった気がする。55歳以降でも一念発起して事業を成し遂げる人もいるから、年を取ったからといって結論を急ぐこともないが、私の場合はこれから人生の一発逆転みたいなことはないだろう。
こうなることはずいぶん前からわかっていた。
自分の人生はからっぽになるだろうというのは、20代のころうすうす気がついていた。30代になって、たぶんそうなるんだろうという確信のようなものが芽生えた。40代になって、ああ、からっぽだという実感があった。これは、あれだな、と若いころ覚えた論語の章句が浮かんだ。
論語に「後生畏るべし」という言葉がある(子罕第九の二十三)。
「後生」というのは「先生」の反対で、自分より年が若い人のことだ。自分より若い人の未来に自分より優れたものがあるというのだ。若者の未来を思って若者をせよと。これに「いずくんぞ来者の今にしかざるを知らんや」と続く。どうして若者が現在の大人に劣るといえようか、と。
若者には可能性がある。自分にも、たぶん、あった。そしてそれがなくなった。いつなくなったかというと、「後生」が見えたときである。自分より若年の人のなかに自分より優れた可能性を見たときだ。この若者たちは優秀だなと思うときだ。
具体的にいつごろの年代かというと、40歳から50歳である。続けて論語で孔子先生がこう言っている。
「四十五十にして聞こゆること無くんば、これまた畏るるに足らざるのみ」。
40歳、50歳になって世にその名が知られるようでもなければ、そんな人は尊敬に値しない、と。
それが私だと、40歳のときに思った。
孔子先生、いいこと言う。「畏るるに足らざるのみ」というのはまさに私のことだ。尊敬に値しない。自分はからっぽな人間で、からっぽな人生だったと納得した。
でも、同時にそれはそれでいいんじゃないかとも思えた。
若い日に希望もあった。希望がかなうように見えることもあった。30代ごろ仕事がめきめきできるような自覚がある反面、自分は実はダメな人間なんじゃないかと不安になり、そこから年を経るにつれ、焦りと失意がつのり、40歳を過ぎて、世間的な地位も名声もない自分を確認した。でも、それはそれでいいんじゃないか。そんな気持ちから匿名でブログを書き始めたのが45歳。
ブログを書いて何か達成できるとは思わなかった。ブログで一発当ててやるみたいな思いもなかった。が、ちょっと楽しい感じはしたし、楽しい感じがしているときは、自分に合った方向に進んでいるんじゃないかという感覚はあった。
気がつくとブログを10年近く書いていた。それで何か得られたかというと、ないと思う。大した意味はなかったが、総じて楽しかった。からっぽな人生なりに生きてきたんだなという感慨はあった。その部分、つまり、ブログの裏側の思いはなんとなくブログには書いてこなかった。
自分がもし本を書くことがあれば、逆にそのあたりを書こうかと思った。
普通、本を書く人というのは著名な人や、それなりに偉業を遂げた人だ。その成功例から何かを学ぼうということだ。私の場合は、そういうのは何もない。
たいていの人もそうだろう。若いころ思っていたような希望に挫折して、それなりに運命と折り合って生きていく。
世間的に社会的に、自分の人生の意味はないとしても、自分の内面から見れば、それなりにある種の手応えのようなものがあれば、それを支えに生きていける。
そうした、ちょっとうまく言えない人生の支えのようなものを見つけるのに、からっぽに見えた私の人生でも、何かヒントのようなものがあるんじゃないかとも思う。
偉そうな言い方になって申し訳ない。ブログを10年書いて、そういう部分に近いところを書いたとき、読んでくれるブログの読者は少なくないようにも思えた。
思い返すと、自分も若いころ、また、じわじわと挫折していく30代から40代、一生懸命読んだ著作家から、そういう部分に聞き耳をたてていた。それを心の糧にしていたように思う。例えば、山本七平という人から学んだ。
彼は、毀誉褒貶はあるが『日本人とユダヤ人』という本を出版して着目された。そのころグアムから戦後27年目の帰還兵があり、彼もまた南方の戦地で戦ったことから、戦争体験記も書いた。そうしたことがきっかけで50代から有名な著作家になった。
山本七平自身は、有名になりたいとはまったく思わなかったとエッセイで書いていた。人は日々の仕事をこなして毎日毎日同じように生きていたらそれでいいと思っていたというのだった。その思いは若い日の私の心に深く沈んだ。
普通の人が世の中に隠れて普通に生きていく。普通でなくてもいい。世の中に評価されなくてもいい。とるに足らないことであっても自分の人生の意味合いを了解しながら生きていくことはできる。誰でもそういうふうに生きていくことはできる。
本当?
本当だろうと私は思う。少なくとも私はそうやって生きてきた。そうやって生きるためには、人生のいろいろな局面で自分で考えていくだけでいい。考えて了解する人生は誰もが実現できる。
考えた結果失敗するかもしれないが、誰かの成功法則を自分で実験するよりも、自分で考えて自分だけの人生を発見していくほうが、結局、納得できる人生になる。
失敗と思っていたことが自分の内面では成功だったかもしれないし、成功だと願っていたものは自分を縛る妄念だったかもしれない。その違いは自分で考えるしかない。
他者の評価なんかどうでもいいとまで超然とすることはないが、自分の人生はこういうものだったんだなという、人生の意味の組み替えは自分なりに考えていけばなんとかなる。
人生、成功はしないかもしれないけど、考えて生きていけばなんとかなるんじゃないか。
なんとかなって、日々、それなりに生きている実感みたいなものを考えて見つけていけたら、それでいいんじゃないか。そうした思いを書いてみたい。
空っぽな人生を書いてみた
http://diamond.jp/articles/-/32991
『考える生き方』という本を書いた。
誰の言葉か忘れたが、「人は誰でも自分の人生について一冊の本を書くことができる」という。55歳になったとき、自分は自分の人生について一冊の本が書けるだろうかと思った。そのときは書こうという意欲はなかった。
ブログを10年近く書いてきて、いちおう有名ブロガーにもなったが、好き勝手な雑文を書いていたにすぎない。まとまって自分のことを書いたことはなかった。
書いても意味がないように思えた。自分には社会的な名声もない。これといって業績もない。人生の失敗者の部類である。空っぽな人生と言ってもいい。
でももしかすると、と思った。空っぽで失敗の人生が、案外そのまま一冊の本になるかもしれない。無名の人の、どってことのない人生の自分語りというのも、案外ありかもしれない。そういう本があれば自分も読んだ気がする。
そう考えると何か書けそうな気がして、そのうち書いてみたい気持ちに変わった。ブログで書かなかった自分の生活に近い分をまとめてみようか。
特になんにもない人生、失敗した人生、挫折ばかりの人生。
それって、けっこうよくある人生である。
そのわりに、失敗した人の人生を書いた人はあまりないだろう。失敗した人生を生きるのもそれなりに大変だったのに。
それで書いてみた。
書きながら、自分のこれまでの生き方はどこかしら、これからの普通の日本人の先行的な例になるかもしれないとも思った。
私のように若いころ挫折して、その後、場当たり的に生きる日本人や、55歳になって空しい思いに駆られる人間も、これから増えるのではないか。
仕事が定まらない。30代半ばをすぎても結婚できない。家もなく引っ越しに次ぐ引っ越し。40歳過ぎて突然の病気。
自分の人生は、たいした人生ではなかったけど、それなりに苦難や不運もあった。それでどうしたか。
「考える」ことでなんとか切り抜けた。人生が行き詰まったら、そのときおりに、自分なりに考えてきた。
人生の問題の大半に解答はない。考えることくらいしかできないものだ。
つらくて憂鬱になったり、心身ともに疲れ切ったり、絶望してしまうこともある。それにどう向き合うか。どう考えるか。
宗教とかポジティブ思考とか、そういうお仕着せの対処ではなく、素手で人生に向き合って考えてみたらいいのではないか。
私はできるだけそうしてきた。たいした結果はないが、そのときおりごとに考えて生きてみた。
何をしたという人生でもないと思っていたが、書いてみるとそれなりに、いろいろあったことに気がつく。
30歳半ばで大恋愛をやってのけた。私の世代、男は20代後半には結婚し、30代には子どももあるものだった。いつか嫁さんが来るのではないかとぽかんとしていたら、35歳を過ぎた。一生独身だろうと諦めたら、10歳年下の女性と大恋愛してしまった。やるなあ、自分。
それから四人の子どもの親になった。結婚したら子どもがあってもいいだろうと思ってはいたが、四人である。妻の故郷・沖縄で8年暮らしていた。子作り以外にすることはなかったのか。
東京に戻り、ブログを始めてちょっとだけ有名になった。
ぱっとしない普通の人生だと思ったが、それなりに生きてきたんだから、いろいろあるものだ。
というか、いろいろな人生があっていいのではないか。
自分で考えて決めた生き方なら、普通であっても、変であっても、別によいのではないか。
そういうことを自分を例にして伝えたかった。
「人生だった」なんて、これから死ぬみたいな表現をしたが、55歳まで生きてみたら、そろそろ人生の終わり方も考えるきっかけになった。
この年齢まで生きられなかった人も多い。自分の人生を振り返ったら、自分の死の形のようなものも、自分なりに納得するようになった。
つらいとき死にたいと思ったり、その逆に病気で苦しんで死を恐れたり、死ということにもいろいろ思うようになった。
考えて生きるというのは、自分だけの死というものを形作っていくことになる。
60代以降に向けて、これからは死もまた人生の一部として受け入れていくしかない。うまくできるだろうか。
この本には後書きは書かなかった。なくてもいいだろうと思っていた。ただ、家族に感謝を伝えたい気持ちは残った。
そういえば、校正の途中、子どもがやってきて覗き込んで少し読んで、不思議そうな顔をしていた。変な父親だよな。ごめんな。校正は妻にも頼んだ。若いころの失恋話とかも読むわけである。「ここはやめて」ということもなかった。ほっとした。家族がいた。それは自分で考えて決めた人生として受け取ったというより幸運に近いものだった。
<了>
◆ダイヤモンド社書籍編集局からのお知らせ◆
考える生き方 空しさを希望に変えるために
ネット界で尊敬を集めるブロガー・finalvent氏の第1作。自身の人生を「からっぽだった」「失敗だった」と吐露する稀有なスタンスが多くの人の共感を呼び、誰もが体験する人生の苦難と空虚感を受け止めるヒントとして話題となっている。読後に得られる考えることへの信頼と「明るい諦観」は一生を支える心強い武器になるはずだ。
心の逆説
ものは 与えれば与えるほど 自分の分が減る
相手が得をして 自分が損をするように感じる
自分が得をするようにすると、相手が損をする
どうにもならないと感じる
しかし、情報、観念、思いなどは違う
自分が相手に思いを伝えても
その思いが自分の中からなくなってしまうわけではない
つまり、これらは分かち合うと増えるのだ
心のこの逆説は
唯物論からは説明できない
それはあたかも 一本のろうそくの炎が
次々と他のろうそくに燃え移り
やがて 壮大な明かりの海になるように
そのようにして いつの日か
魂の闇夜が明けるのだろう
以上無限水より(このURLはもうありません)
現代の若者は絶望しているのか?
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2014/10/post-287f.html
現代の若者は絶望しているのだろうか。どうなんだろう。というのは、昨日のエントリーへのツイッターのコメントでこういうのを見かけた。晒しとか、反論というかいう意味ではない。基本的には「ふーん、どうなんだろうか」と思っただけ。なのでコメント部分だけ引用。
ないのはお金だけじゃないよ。将来に対して絶望感以外なんにもない国で、落ちていくしかないんやから、恋愛みたいな長期的なことより、刹那的なものに流れるにきまってるやん。
現代の若者が恋愛できないのは、お金がないこと論に加えて、この「国」の将来に対して絶望感以外ない、という意見があるらしい。
若い人が絶望を抱くことについては、20歳までに自殺すると思っていた私としては、特に違和感はない。違和感があるとすれば、私がそうであったように、小学生だった1960年代から、青少年期だった1970年代、若い人の絶望というのは凡庸なことだった。
特に60年代から70年代にはこの世の終わりという感じだった。核戦争で地球は滅亡すると思われていた。人口増加で食糧危機が発生し巨大な飢餓が起きるとも思われていた。レイチェル・カーソンの『沈黙の春』が『生と死の妙薬』として日本で出版されたのは1964年だった。今だと冗談みたいだが、氷河期がやってきて地球は凍るとも言われた。日本が沈没したらみたいなネタでウケていた小説『日本沈没』が出たのは1973年である。
ノストラダムス予言はまだ一部でしかネタになっていなかったが、「もうすぐこの世はおしまいだ」と野坂昭如が「マリリン・モンロー・ノーリターン」で歌っていたのは1970年だった。あのころもの社会も若い人にとって特段に希望なんてなかった。ヤケクソと自暴自棄のナンセンスな世相だった。他面にはモーレツ社員がいた。「社畜」という言葉はなかったが、実態は同じだった。
ただ、なんというのかな、あの時代、若い人の絶望は、「国」とか、なんかそういう外的な要因よりも、内的なものが強かった。
内面からこみ上げるように、自殺するかなあ、という絶望感だった。自分の実存はもう存在しえないのだという切迫感もあった。当時よく読まれていたカミュの『シーシポスの神話』(参照)とかにその感じがよく表現されている。
Il n'y a qu'un problème philosophique vraiment sérieux : c'est le suicide. Juger que la vie vaut ou ne vaut pas la peine d'être vécue, c'est répondre à la question fondamentale de la philosophie.
本当に深刻な哲学の問題は一つしかない。それは自殺である。生きることが、その困難に値するものかを判定することだ。これが哲学の根本問題に答えることなのである。
青臭い。それもそのはず。カミュが24歳のときの作品である。若者の感覚がよく表れている。
とはいえ、この本のオリジナルの出版は1942年。意外と古いというか第二次世界大戦中。日本だと1969年だった。
この時代の若い人の絶望感については、いつかcakesに『二十歳の原点』(参照)の書評として書きたいと思っているので、その話自体はいずれ。
それで思ったのは、絶望から自殺が連想されるように、では、当時の若者の自殺はどうだったかなと思い出していた。ネットなどではバブル期以降の日本の停滞から若者の絶望そして自殺の増加という議論をよく見かけるけど、私が青春時代だった1970年代、さらにその前の1960年代はもっとすさんでいたように記憶しているからだ。
どっかにそのスパンの資料でも転がっているのではないかと、気まぐれに見ていたら、興味深いデータがあった。平成23年版・自殺対策白書「年齢階級別の自殺の状況」(参照)である。もっと新しい白書もあるがこれが見やすかった.....以下省略
管理人注:龍之介かく語りぬ
万人に共通した唯一の感情は死に対する恐怖である。道徳的に自殺の不評判であるのは必ずしも偶然ではないかもしれない。
自殺に対するモンテエエヌの弁護は幾多の真理を含んでいる。自殺しないものはしないのではない。自殺することができないのである。
死にたければいつでも死ねるからね。ではためしにやってみたまえ。
芥川龍之介『侏儒の言葉』より
或る阿呆の一生をクリック
https://www.aozora.gr.jp/index_pages/person879.html
関連記事:貧困の中で亡くなった天才ブロガー「新じねん」おーるさんの追悼記事
http://oriharu.net/gabana_n/
ある読者からおーるさんへのメールより........
誰も犯すことのできない清らかな気持ちで魂の命ずるまま素直に書いてください。
巨悪は真実の前には存在できないのです。 しかし真実は真実でなければなりません。偽造や捏造であってはならないのです。
おーるさん曰く.......
『言葉が無意味になるときがある。言葉が一人歩きをしてしまうときがある。語るべき言葉を持ちながら、語れば語るほど誤解を招くときがある。そんなときには語らないことだ、と・・・語るべきことはそれぞれの人々の心が語ってくれるだろう。信じていた人に裏切られたという想いも、なぜ信じてくれないのだという想いと同義語だ。まして私を信じて欲しい、などとはさらさら云えやしない。それでも人は真心を隠し覆せはしない。そのことの普遍性を私は信じたい。』
http://blog.goo.ne.jp/gayuuan239/e/d2122b62e9013a67d8f6ba203222977b
『「新じねん」の魅力は、情報量や、記事はもちろん、それ以上に事件の中身を読み解いた複雑な関係を分かりやすく図解した見た目も美しいチャートや3Dグラフィックスを駆使した写真・動画にあった。直近のライブドア関係のものなんかも素晴らしい出来栄えであった。その後に、「私的めもらんだむ」の見出しの下に時間を追っての、ご自身の厳しい生活のありようがつつみ隠さず書かれていた。愛猫たちへの思いが溢れていた。
私は、その貧乏生活ぶりを読者へのいささかの誇張と思って読んでいた。何故かというとこれだけ凝ったブログのページを日々アップするためには、とても半端な手間隙では済まないと、思ったからだ。時間とお金が無くては、とてもできることではないと想像したのだ。今、上記の友人の方からの手紙を拝見して大変申し訳ないことをしてしまったと恥じ入る。
まさに、おーる氏は、命懸けでブログと取り組んでこられたのである。そこには、無責任な政治への怒り、真面目に働く人々の膏血を騙し取る巨悪への憤怒、その一方で癌を病む妹さんを案じ、野良猫を愛し、音楽を愛する詩人でもあったのだ。』
おーるさんはこういう相関図を描いていた
http://www.asyura2.com/0601/livedoor1/msg/659.html
ライブドア資金還流相関図
http://oriharu.net/gabana_n/Zaakan/hibi-new.htm
タミフルなどの画像は
http://oriharu.net/gabana_n/Zaakan/hibi-new.htm
政治の闇とおーるさんの死
http://www.asyura2.com/0601/livedoor1/msg/691.html
『【2006年3月21日 おーるさん最後の日記】
○1時
急に眼がおかしくなってる。ヤバイな・・・今はだいぶ落ち着いたけど、やはり血圧のせいだと思う。ここ数日、首筋に違和感がある。こういう時は大抵170はいってる。一つ年上の従兄も高血圧で、数年前に仕事中に倒れて死んだ。昨日の日誌のS2という人物だ。私も多分高血圧が原因で死ぬだろう。私が死んで必ず泣くだろう妹と、ひょっとしてもう一人・・・いるかも知れない。
泣いてほしくはない、と云えば嘘になる。私の理想としては皆で生前の私を偲んで酒でも飲んでくれたらそれで本望だ。ネットで葬式なんか出来ないかな?そのための動画でも作っておくか。以前に葬式で笑ってしまった幼児時代のことを書いたことがある。厳粛な場での畏まった雰囲気が可笑しくなるという癖は大人になっても変わらないようだ。というか、今では逃げ出したくなる。冠婚葬祭はもっと質素に、自然体で出来ないものかといつも思う。日頃の不摂生が寿命を縮めるのだと戒めて、明日から、いや今から眠ることにしたい。
○9時
今日は7時頃に起床。だんだん風が強くなってきた。喉カラカラ、スーパーでいつもの「黒酢で元気チルド」207円を買う予定。紙パックの黒酢で一番安い。それとブルガリアヨーグルト、これが昼食だ。それより猫の食事が先だな。猫の世話が煩わしいと思う時はたいてい自分が不調だったりする。人との関係も同じだろう。で、今も後頭部首筋付近に違和感あり、血圧が上がってる証拠。熟睡できなかったようだ。ヤフーのブログを設定した。でも、どう使うか迷ってる。とりあえず楽天のブログ名「新じねん追記」と同じにしておいた。
http://csx.jp/~gabana/Zaakan/hibi-new.htm
おーるさんは、予定どおり自転車でスーパーに買い物に行き帰らぬ人となった。
安らかにお眠り下さい 合掌』
おーるさんの本音
2005年10月14日
日々貧乏かつ閉塞性が加速する
(1)
やっと元請けの社長がベースを引き取りに来た。そのまま帰ろうとするので呼び止めた。「次の仕事はいつ入るのか」そして「石油価格の暴騰で、材料費が軒並み値上がりしている。しいては現在の単価も上げざるを得ない。」と正直なところを打ち明ける。「どれだけ単価を引き上げてほしいのか」と訊いてきたので「材料費はおよそ20~30%値上がりしている。細かい部品は別としても、本体だけは材料費の値上げ幅に応じた単価にしてもらいたい」と要望、後で具体的な数字を提示するむねを伝えた。
たったこれだけ云うのに、ずっと以前から悩んできた。監督にはそれとなく打診していたのだが、社長の多少面食らった様子から監督からはあまり伝達されていないことが分かる。苦しいのはお互い様、単価変更の交渉は互いの妥協案を前提に進めなければならぬと・・・そのことで悩んでいたのだ。
地元大手の仕事を一手にやってきた父の存在を改めて振り返る。あれだけの仕事をしながら、父の死後は借金だけが残った。そのために会社を継いだ母は嘆き、嘆き続けて・・・そして癌で死んだ。さぞ悔しかっただろうと、思う。息子の私に甲斐性がないばかりに苦労させてしまったと・・・それにも増して母を嘆かせたのは、父が死ぬと手の平を返すように去って行った同業知人の保身だった。某社長にカネを貸してくれと泣き付かれ、母は銀行から借金して工面したものだった。その社長の会社はいま繁盛していて、去年あたり訪ねて行ったことがある。本当は資金を借りたかったのだが「どんな仕事でもやりますから・・・」云々の頼みごとになった。しかし、笑って断られた。「何とかカネを貸してほしい。それがないと会社が人手に渡ってしまう」必死にすがったあの時の社長と、いま笑っている顔がダブって見えた。私はそんな自分の動揺を抑えようと笑って、そして「この不景気にはまいりますね」と世間話に替えて・・・笑って、そして去った。俺はバカだ、土下座してまで必死に仕事を頼み込まなければならないのに、必死に自分の動揺を取り繕うとするなんて・・・必死の意味がまるで違うのだ。
貧乏生活がこう長いと、だんだん絶望感に閉塞性が加速していく。友人に「猫としゃべってろ」と冗談を云われてヘラヘラ笑っている自分・・・自虐的な笑いしか浮かばない今、ときに晴ればれと爽快に笑ってみたいものだ。今日は取り留めの無い話になった。明日には元気を・・・出そう。』
空っぽな人生を生きてきた
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/b1f87e95cb279640c7efbf4a85b5ec89
本当のことが知りたいだけだ
http://silverisrealmoney.blog.fc2.com/blog-entry-308.html
本当の事を知る為に、自分はなんら危険も犯さず、金も出さず、いいところだけを持っていきたいという腐れ根性のやつがいるとしたら、当方がもっとも軽蔑するやつらだ。そういうのは単に、泥棒にすぎん。
そんな薄汚い根性は捨てろ! ばかやろう、お前だけが救われてどうするんだ、クソがっ。真実をすべての日本人が知るようになってはじめて、かすかな、ほんの少しの明かりが見えるかもしれない、という状況で、身をもって真実を語っている人のブログを盗みみて、自分だけが得をしようとする、その腐れ根性は、なんだ? 最低だよ、そういうのは。なんとかしろと言いたいよ。
自分が真実だ、と思った事は、社会で生活してるなら、周囲の人間に伝えたらどうだ? ツイッターで、あるいは自分のブログを通して紹介したらどうだ? できるだろ、そのくらい。本当に腐れてしまったのか日本人と思うよ、俺は