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堀川辰吉郎の正体 その2



落合莞爾(おちあい かんじ)

1941年、和歌山市生まれ。東京大学法学部卒業後、住友軽金属を経て経済企画庁調査局へ出向、住宅経済と社会資本の分析に従事し、1968年~69年の『経済白書』の作成に携わる。その後、中途入社第1号として野村證券に入社、商法および証券取引法に精通し、日本初のM&Aを実現する。1978年に落合莞爾事務所を設立後は経営・投資コンサルタント、証券・金融評論家として活躍。日本および世界の金融経済の裏のウラを熟知する人物として斯界では著名な存在である。

http://2006530.blog69.fc2.com/blog-entry-758.html


京都御所で発見されたロスチャイルド家と酷似した紋章が見つかった。恐らく左はヨシュアのシンボルの一角獣で右がユダのシンボルの獅子だろう。それは清涼殿で見られる。エフライムとユダが一本の木になるように管理人はエルサレムのために祈っています。



ハンギョレ新聞~明治天皇の孫という寸劇

http://hiro-san.seesaa.net/article/250626011.html

大霊脈という本が届いた

http://hiro-san.seesaa.net/article/250625957.html

孝明天皇毒殺説

http://tatsmaki.at.webry.info/200511/article_4.html

以下はフルスロットル 煩悩くんより

http://aioi.blog6.fc2.com/blog-date-201203.html

「質問」
評論家・落合莞爾の「疑史 堀川辰吉郎と閑院宮皇統」によれば、孝明帝は下記の「堀川戦略」を立てられたそうですが、これは本当ですか?

・六条堀川の日蓮宗本圀寺の境内に秘かに堀川御所を設ける。
・孝明帝は時期を見計らって崩御を装い、そこに隠れる。
・皇太子・睦仁親王は遁世して堀川御所に隠れ、新天皇には南朝系人物が入れ替る。
・孝明帝の女官らの多くは新天皇に仕えず、堀川御所に入る。
・公家と少数の女官らが皇居で新天皇に仕える。
・この事態に対応するため、新天皇の宮廷を改革して女官を遠ざけ、閑院宮皇統の徳大寺実則が側近として近侍し、事情を知るごく少数の武官が侍従として警護する。

(回答)
ありえそうな話です。というのも鹿島説では岩倉具視が手引きして長州下忍の伊藤博文が厠で惨殺したとありますが、岩倉も一応公家であり、中の下の公家(羽林)ではあるが、摂関家をトップとした公家ヒエラルキーの中で果たしてそこまで大胆なことをするか? 鹿島説の怪しい部分です。鹿島説はメーソンに属する西園寺が盛んに流した話ではないだろうか。実際、伊藤博文を暗殺した安重根はそれ(天皇惨殺)を暗殺の理由として口にしていますが、本当に暗殺したのは欧米勢力です。安重根はJFKのオズワルドと同じ役割を与えられていたと思われる。つまり、陽動及び隠蔽です。それ以外にも堀川御所説が妥当と考えられる話として、世間ではキワモノ扱いされている堀川辰吉郎の子・中丸女史は明らかに残置国家・北朝鮮や公安とも親密であり、間違いなく背後にヤタガラスが憑いていると思われます。若き頃、世界要人とのインタビューが可能だったのも裏天皇を奉じる皇統奉公衆が裏で手配したのだろう(笑)。

明治天皇と田布施システムの妄想という記事がありました

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3193

堀川辰吉郎の正体 その1からお読みください

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/955.html

読まれましたら.....堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その1からお読みください。紹介しました「大霊脈」に書かれていた明治天皇(大室寅之佑)のご落胤ではなかったことがよくわかります。


明治天皇遷都の様子ですが行った先は千代田城~旧江戸城大奥(現皇居)~女官(侍妾)たちは京都に残ったそうですから典侍や権典侍たちは一体どこから調達したのか疑問の残るところです。女官とは侍妾のことですが恐らく管理人のパラノイアによると天皇のお気にの千種任子(ことこ・花松典侍)だけ京都に残し堀川を産ませたのではないかと思っています。基本的に4人の典侍以外はセックスをしてはならないというのは建前であり実際は男女の関係はそうなってはいないのです。明治天皇の孫と自称する中丸薫氏は「私の母は千種任子で父は堀川辰吉郎」と公言しているようですが生前堀川が全ての資料を託した「いのちの会」によると中丸薫と堀川辰吉郎は一切関係がないとのことです。しかしそれは国内での話。

Wikiによれば「日本赤十字の看護師として大陸に渡り、満洲事変から日中戦争時期に抗日兵士の帰順工作を行ったという中島成子の娘として中国で生まれる。父親は明治天皇の隠し子を自称する堀川辰吉郎と主張している。ただし中島成子の夫は中国人の韓景堂であり、中島も韓又傑、韓太太(「太太」とは中国語で“奥様”)と呼ばれていた。薫の父親が堀川辰吉郎とする説の信憑性には大いに疑問が残る」と~堀川氏のもうひとりの娘は中国の財閥として知られる張群氏の長男に嫁いでいるので信ぴょう性は全くない。ただしこれは血流からの話で生前堀川は海外で数百人の庶子を造った話もあり中島成子も侍妾であったとすれば話はわかりやすいがこれはパンツの中の話で追求はできない話だ。本人がそう言っているので多分そうではないでしょうか。一つ言えることは中丸薫氏が堀川辰吉郎と千種任子との間の子ではないことは決定的だろう。第一堀川辰吉郎の超美男子からあのドブスが生まれるはずはないし最一鼻が全く違う。

大文字で転載

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/3187

『中丸薫は成子の4番目の子だった~後日辰吉郎が明治四十三年から紫禁城に住んだと聞いて、肯綮に当たる感がした。韓叉傑(成子)盧溝橋事件の直前に紫禁城で出産したというのもまた奇異ではあるが......』とある。中丸薫の母は中島成子であり父は堀川辰吉郎と断定はできないが否定もできない。これが明治天皇の孫と自称するやや複雑な物語である。ただ一つの間違いは堀川辰吉郎が明治天皇(大室寅之佑)の皇子ではなかったという事実である。

注:紫禁城とは

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%AB%E7%A6%81%E5%9F%8E

それに関する記事

http://blog.goo.ne.jp/palinokuni/e/e4407a0ac88d1466c04e8f2983b9ac5f

陸軍の裏側を見た吉薗周蔵の手記 その1

http://www.asyura2.com/11/cult8/msg/353.html


左の目次にカーソルを乗せクリックすると記事を見ることができます。

堀川辰吉郎と閑院宮皇統 その1

http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/952.html

裏天皇の正体 その3

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002608.html

やはり落合莞爾氏の記事がベースになっているようです

疑史(第七十回)  清朝宝物の運命(3)

 世界近現代史における満洲(現在は中華人民共和国の東北地区)の意義について本稿が述べた先月号に、奇しくも山浦嘉久(『月刊日本』論説委員)も之に触れている。三月二十六日の韓国海軍哨戒艇「天安」の沈没事件に関して国際軍民合同調査団が発表した「百三十トン級の小型潜水艇から発射された大型魚雷による」との見解に対し、「北朝鮮がその種潜水艇を保有しているとしても、かかる大型魚雷を発射するのは不可能で、人間魚雷か某国の最新技術を使うしかない」との某軍事筋の指摘を挙げつつ、真相不明のこの事件により、アメリカの国際戦略が一歩進んだと説いた(『満州のイスラエル-誰が「天安」を沈めたか-』)。

 確かに、国際軍民合同調査団が事件の元凶と看倣した北朝鮮では、事件直後の五月に金正日総書記が倉皇として訪中し最新鋭戦闘機の供与など軍事援助を要請したが、拒否された。また、北朝鮮が韓国に向けて頻りに事件の合同調査を呼び掛けているのも、不意討ちをした側としては極めて不目然な対応というしかない。因みに、第三国のロシアも真相不明との立場で、韓国との合同調査を望んでいることも、事件の複雑さを暗示している。

 ところが、真相不明の本事件により自国の安全保障の切実さを眼前に見せ付けられた日本では日米軍事同盟上の懸案たる普天間問題が一瞬で吹き飛び、従来標榜してきた下級メーソン的夢想が破綻した鳩山首相は辞任を余儀なくされた。逆に韓国では、北朝鮮の関与を疑問視する声が高まって対北強硬路線の李明博政権が統一地方選で敗北し、米朝野合に対する現政権の障碍性が大幅に減じることとなった。米朝野合の目的は、謂うまでもなく中華帝国の封じ込めにあるが、その先に「新満洲国」の建設という遠大な計画があり、中東問題の根本的解決としてイスラエル共和国の満洲移設を果たすための橋頭堡が北朝鮮だと、山浦は説くのである。

 日本陸軍の「河豚(ふぐ)計画」は、欧州のユダヤ難民を満洲に迎え、以てソヴィエト・ロシアに備えることを目的としたが、結局実行に至らず、欧州のユダヤ難民は、バルフォア宣言によりパレスチナの地を与えられて現在のイスラエル共和国を建てた。そこが原住アラブ族の居住地だったために生じたパレスチナ問題は、時間の経過とともに悪化するばかりである。翻って「河豚計画」を診れば、当時の北満黒龍江省の地は元来満洲族の土地で原住人口が少なく、漢族の移住者も未だ希薄であった。

 満洲政権が当地に漢族を移住させたのは、やはり帝政ロシアに備える住民の壁を意図したものだから、当地に新イスラエルを建てる計画は、パレスチナヘの強制的移住に比べて格段の合理性があった。要するに「河豚計画」とは、満族政権に替わった日本が、漢族に加えてユダヤ族をも誘致しようとした案である。今日の論者は「河豚計画」を日本陸軍の立場からのみ論ずるが、根底にグレイト・ゲーム即ち地政学的発想があるのは当然のことで、しかも一神教内の対立を絡めた発想者は、どうみても海洋勢力の本宗たる在英ワンワールド以外には有り得ない。

 在英ワンワールドの傘下で世界政略の一翼を担った明治日本は、東アジアにおける対露防衛を担当し、日清・日露両戦役で見事その重責を果たした迄は良かったが、その後は海洋勢力内での軋轢が生じ、米英両国と対立することとなった。折から重工業化に向けて進み出した日本資本主義は、地下資源が豊富な満洲を自家薬籠化することを熱望する一方、農業社会からの脱皮の過程で発生する過剰人口を送りこむ植民地の必要を感じていた。由来、交易と投資を以て植民地を商業主義的に間接統治する海洋勢力の本筋に対し、大量の殖民により原住民を同化・消滅せしめ、その土地を奪って直接支配するのが大陸勢力の伝統的戦略で、その本宗がロシアと黄河流域の農牧勢力である。日本が満鉄によって南満洲を間接統治したのは、海洋勢力の本家イギリスのインド支配に範を採ったもので、児玉源太郎の命により其の青写真を描いたのが上田恭輔であった。

 台湾政策においても、総督制による植民地制を採りながら現地民の甘薯栽培を保護したのは、そもそも台湾政策の根本を建てた高島鞆之助と樺山資紀が、在英ワンワールドの伝令使・杉山茂丸を通じて海洋勢力的統治策の根本を理解していたからであるが、その知識と知恵が朝鮮半島経営には生かされなかった。原因は幾つかあるが、一つは朝鮮総督府を独占した長州陸軍閥の総帥たる山県有朋が、親露的かつ親大陸勢力的性格が濃かったことであろう。之が陸軍の悪しき伝統となり、満洲事変後の満洲政策を左右して、石原莞爾が折角建てた海洋勢力的構想を変改・破壊してしまったのである。

 時制を辛亥革命に戻す。時の陸軍参謀総長・奥保鞏大将(小倉)が、長州人事により翌年一月に長州の長谷川好道大将に交替した。参謀次長・福島安正中将は信州人だが長州閥に近く、部下で欧米情報と支那情報を管轄する第二部長が肥前出身の宇都宮太郎少将であった。近来発表の『宇都宮太郎曰記』が明らかにしたのは、明治三十年大尉参謀の宇都宮が、来るべき曰露戦に備うべく高島鞆之助中将を参謀総長に就ける目的で、橋口勇馬大尉と「起高作戦」企て、陸士四年先輩(旧制三期)の上原勇作大佐に協力を仰いだ事である。下って明治四十四年八月、参本第二部長・宇都宮少将は、長州人ながら陸軍改革に熱心な陸士一年後輩の田中義一少将と組んで上原陸相の実現を図り、ほぼ成功を信じていたものの、寺内陸相が側近の石本新六を陸相に就けてしまう。ところが石本が急死、いよいよ上原に陸相の座が回ってきた四十五年四月、宇都宮は、同志で親友の上原が陸相に就き陸軍が長州支配を脱したと歓喜の声を挙げている。

 『宇都宮太郎曰記』の解題で桜井良樹(*『日記-2』の解題者)は、「宇都宮は、上原の政治的参謀の位置にあった」とするが、それ以上立ち入らないのは学校史学の限界であろう。宇都宮が上原の股肱として尽したことは、上原系事業のミノファーゲン製薬が、後に子息・宇都宮徳馬に与えられたことでも分るが、その宇都宮にして、高島鞆之助と上原勇作との間の極秘関係をどの程度まで知っていたのか、分らない。ともかく『宇都宮太郎曰記』の明治四十五年一月分は、前月号で述べた第一次満蒙独立運動を、当時の陸軍参謀本部が工作していたことを如実に示し、二月二曰には不曰蒙古へ派遣される旧友・守田利遠大佐が来宅し、宇都宮は任務の大体を告げたとある。参謀次長・福島安正の関東都督転任が四月二十五曰に決まり、二十二曰(*5月22日)にその赴任を新橋駅に見送った宇都宮に、福島は「西国寺首相から、蒙古の事は自分が一切処理するようにとの内訓を受けた」と伝えた。満洲の事は当然関東都督の管轄だが、蒙古のことは参謀本部が直接経営する方が良いと考えていた宇都宮も、政府の方針には従うと決めた。

六月八曰、宇都宮は上原陸相を訪れ、「満蒙における承認条件の最低限(支那分割私案の追加条項)及び満蒙探検隊につき」具申し、同時に満蒙探検に派遣する曰野強中佐に任務の概要を与えた。これより前の五月二十一曰、参謀本部は歩兵中佐・曰野強を、蒙古人の宗社党領袖・升允の許に密派することを確定し、その後宇都宮は曰野に何回も会い、重要な訓示を秘密裏に与えたことが分る。

 九月二十一曰(*二十日)、倉知外務次官を訪れた宇都宮は、満蒙事業につき交渉し、対支那処置に及んだ後、関東都督府事務所を訪れ満蒙処分案につき意見を述べた。内容は、既に上原陸相に提出したもので、満蒙における我が地歩を進めることと、鄭家屯(タイシャポー)事件の賠償と死傷損害に対する相当の処置の必要を述べた。同二十八曰、関東都督福島安正中将から第一次満蒙独立運動中止の命令が突然下り、奉天特務機関長・高山大佐は同曰付で守田大佐に更迭された。中止の理由を福島は、外交上の必要から蒙古工作中止の閣議決定がなされたと説明したが、宇都宮曰記には何の記載もない。革命直後は粛親王を担いで満蒙独立を画策した参謀本部も、中華民国の分割を嫌う英国の意志が外務省から伝わってくると、粛親王の計画は時に利あらずとの見方が生じ、折しも張作霖が奉天の軍権を握ったのを奇貨とし、之を支援して裏面から操縦しようとの発想が芽生えて奉天派を成した。


昭和40年10月28日 中国大使館において署名(孫科氏と....魏道明大使)


孫文から受け継がれた神盤


神盤に祈りを込める高松宮殿下


(前列右より)堀川氏,ルーズベルト大統領夫人,カーペンター芳子さん
(後列右より)湯川スミ女史,ミス仙台,ミス日本(山本富士子さん),ミス東京,湯川秀樹博士~堀川辰吉郎の息女芳子さんが嫁いだアメリカのカーペンター家は大資産家だったそうです。もうひとりの息女弘栄さんは永野ファミリーの長男と結婚。もうひとりの娘は中国の財閥として知られる張群氏の長男に嫁いでいる。


若かりし頃の堀川辰吉郎(前列左)後ろにいるのは育ての母堀川千代さんか?

画像は中矢伸一著「大霊脈」より拝借

 京都皇統の中心で皇室外交を実践していた堀川辰吉郎は、弱冠にして孫文の秘書となったが、一方では張作霖にも慇懃を通じ、子息・張学良と義兄弟の盟を交わした。孫文の漢族自立革命と、醇親王の張作霖利用による満洲保全策は、どちらも満漢分離を前提としたもので、本来少しも矛盾しない。そこで醇親王は、極秘扱いの「乾隆秘宝」の存在を辰吉郎に明かし、両人は之を張作霖の軍費に充てることを決断した。時期は恐らく大正三~四年ころである。

 折から民国では北洋軍閥の総帥・袁世凱が権力を掌握し、帝政を復元して自ら皇帝に即こうとしたので宗社党と関東軍内の旅順派を剌激した。袁世凱は五年六月六日に急死するが、裏では孫文革命党を支援する辰吉郎の手が動いたと言われている。

 大正五年年末から六年初にかけて、張作霖が奉天北陵の秘納庫を襲い「乾隆秘宝」を強奪したことが演出されたが、強奪でない証拠は、接収が七回に分けて行われ、満鉄調査役兼総裁特別秘書・上田恭輔がその都度立ち会っていることである。上田は接収の都度、満鉄製図技師の三井良太郎に四百五十点もの古陶磁の克明な絵を描かせたが、強奪ならばそんな悠長なことをする筈がない。絵を描く時間が必要で、接収に七日も掛けたのである。

大正三年以来大連に住んでいた大谷光瑞師が、手下の上田恭輔に立会を命じたわけで、目的は「乾隆秘宝」の中でも価値の高い古陶磁のカタログ作成と、「乾隆秘宝」の預け先となった張作霖の監視であろう。大谷光瑞師は西本願寺の実質法主ながら、京都皇統の辰吉郎を補佐する立場として、この工作を企画したのである。張作霖が強奪した形の「乾隆秘宝」の中の「奉天古陶磁」を、上田恭輔が寄生先の満鉄を利用して倣造を始めたのは接収直後の大正六年で、九年春になり関東軍参謀長・浜面又助が倣造陶磁を関東軍の戦略として利用することを立案した。六年に粛親王と宗社党を担いで第二次満蒙独立事件を企てた関東軍旅順派は、粛親王に対して戦費補償の責任を負い、その履行に腐心した浜面が、たまたま満鉄の倣造工作を知り、それなら宗社党にも幾分か権利があると考えて、倣造工作の分け前に与ることを陸軍中央に具申した。

 参謀総長・上原勇作も表向きは賛成したらしく、九年春に陸軍中央で正式に認可されたが、奉天派の上原参謀総長は、奉天特務機関を新設して腹心の貴志彌次郎少将を機関長に補し、張作霖との懇親と「奉天古陶磁」の換金による張作霖の軍資金作りを命じた。その際、個人付特務の吉薗周蔵に、浜面案の妨害を秘かに命じたのは、浜面の真の狙いが倣造品よりも「奉天古陶磁」そのものにあると察したからと考えられ、元々は光瑞師の示唆ないし要請と思われる。

清朝宝物の運命 (4)

 ごく最近のことに、「乾隆帝が奉天に隠した宝物は堀川辰吉郎が秘かに買い取った」と聞いた。情報源は「その筋」というしかないが、その売主を二代目醇親王、時期を大正三~四年頃とするのは、私(落合)の推測である。清朝末期の光緒帝は明治四十一年十一月十四日に不審な崩御を遂げるが、最高実力者西太后(一八三五~一九〇八)も翌日に他界し、次の皇帝に四歳の溥儀が即位して宣統帝と称し、皇帝の実父で光緒帝の弟・西太后の甥に当たる醇親王が監国摂政王に就いた。清朝の軍権を掌握した醇親王は、戊戌変法の際に西太后に与して兄光緒帝を裏切った袁世凱を四十二年正月に罷免、四十四年五月には軍機処を廃止して責任内閣削を実施し内閣を組織した。辛亥革命が始まると、醇親王は隆裕太后(光緒帝の皇后)の命令により全権を袁世凱に譲らされ、十一月十六日付で袁世凱内閣が成立する。

 イギリスを初め列強は、孫文革命政府のナショナリズムがもたらす排外主義を畏れて、北洋軍閥の総帥袁世凱の保守性に期待した。列強の輿望を感じ取った袁世凱は、自分と反目する醇親王が実権を握る清朝を見切り、清朝政府と南京臨時政府の間に立って妥協を成立させた。条件は、宣統帝の退位と自らの南京臨時政府大統領就任で、宣統帝と醇親王には革命後も安全を保障し引き続き紫禁城の居住を認める優待条件を示した。この案を醇親王は受け入れ、軍事力に不安を抱えた南京臨時政府も従わざるを得ず、宣統帝は明治四十五年(大正・民国元年)二月を以て退位し、以後も満族皇帝として紫禁城に住むこととなり、醇親王はその後見役となった。同年一月に南京で臨時大統領に就任した孫文は前述の条件に従い、三月その地位を袁世凱に譲る。

 清室の中心は明治四十一年末以来醇親王であった。従って四十二年に、訪日途上の英国元帥キッチナーに北京で宣統帝の名で桃花紅合子を賜ったのも、奉天宮殿で江豆紅太白尊を贈呈したのも、すべて醇親王の計らいである。義和団事変の後、ドイツ公使殺害の謝罪使としてドイツに渡った醇親王は、世界の大勢すなわちワンワールドの存在と意志を知って帰国し、開明思想に基づいて清朝の政体を立憲君主制に移行させたが、時既に遅かった。これより前、保守思想の権化西太后も漸く清朝倒壊の時機を覚り、腹心袁世凱を通じて日本皇室に今後の満洲経略を諮ったが、明治皇室も政体桂太郎内閣も敢えて対応を避け、京都皇統の堀川辰吉郎にすべてを委せた。清朝の中心醇親王は明治十六年生まれで辰吉郎より三歳年下に当たる。同世代の両人はワンワールドに対する認識を共有することからも見識相通じて、爾後の満洲経略を練った。四十二年に中島比多吉が紫禁城に入って溥儀の傳役となり、翌年には辰吉郎が紫禁城の小院に寓居を構えるが、すべて醇親王の計らいであることは言うまでもない。

 粛親王と蒙古族升允が率いた保皇宗社党は、清国領のうち中華本部(プロパー・チャイナ)を中華民国に残し、満蒙地域を分離させる方策を定めたが、彼等の満蒙独立運動を支援したのが陸軍参謀本部と関東都督府陸軍部(関東軍)であった。海洋勢力の本宗イギリスが清国旧領の分割を望まなかったためか、革命政府は孫文の民族主義には背馳する大漢族主義を国体に選んだので、新生中華民国は清国と変らぬ複合民族国家に停った。しかも国家支配層が満族旗人から漢族軍閥に交替したために軍事的にも国家的統一を欠く羽目になり、各省の治安は自立割拠した地方軍閥に依存せざるを得ず、北京政府を守れるのは清朝以来の北洋軍閥しかなかった。要するに中華民国の政体は、帝政でも共和政でもなく、割拠した軍閥による一種の封建政体であった。これらはやがて北京(華北)・広東(華南)・泰天(満洲)の三大地域覇権に収斂して二十世紀の三国時代を現出し、国共内戦を経て国家統一を実現するが、その原動力は何であったのか。一般には、中華民族主義が本来統一国家を悲願としていたと説かれるが、さんざん苦労して実現したものは、近代ナショナリズムの原則とは全く異なる複合民族国体である。識者が、中華思想究極の理想たる大一統(中華文明に因るワンワールドの実現)へのベクトルを指摘し、その序曲としての国内統一と説くのには、やや肯綮に当たる部分もある。私(落合)自身は、この問題はワンワールドの世界経略を抜きにしては考察不可能と思うが、目下それ以上の想像を慎んでいる。

 民国初年、醇親王から乾隆帝の泰天秘宝の存在を明かされた辰吉郎は、西本願寺法主・大谷光瑞師管理下の国体資金を用いて早速買い取った。目的は国事に用いるためで、代金はおそらく、革命後不如意になった醇親王と宣統帝の諸用に供されたのであろう。わが皇室にとって清室所蔵の古陶磁が単なる隣国の珍玩でなかったことは、辛亥革命の直後、泰天宮殿内磁器庫の清朝陶磁が放出されるとの風説を聞いた外務大・臣内田康哉が、「その筋において購入の意志あり。価格などを探れ」との訓電を奉天総領事・落合謙太郎に発した事で分るが、乾隆秘宝はそれよりも更に重大な意味を有していたのは論を挨たない。

関連記事:乾隆帝の秘宝と『奉天古陶磁図経』の研究 落合莞爾著 を読む

http://simple-art-book.blog.so-net.ne.jp/2014-01-18

 辰吉郎と光瑞師は、買い取った乾隆秘宝中の「奉天古陶磁」をネタに、二つの作戦を建てた。一つは換金して奉天の新興軍閥張作霖の軍資金とすることである。大正三年に奉天の軍権を掌握した張作霖は、丹波皇統奉公衆の出口清吉が明治三十年代から親日傾向に誘導してきた緑林の頭目で、之を養成して奉天に親日的覇権を維持するのが日満合作の基本的戦略であるが、兵器近代化の資金が日本からの援助であることを隠蔽するために、張作霖が自力で乾隆秘宝を強奪した形を装うこととした。そこで張作霖に、大正五年末から六年二月に掛けて七回に亘って宝物強奪(真相は移管)をゆっくり実行させることとし、その都度光瑞師は配下の上田恭輔を立ち会わせた。満鉄調査役兼総裁特別秘書の上田は、満鉄製図工の三井良太郎に命じて、「奉天古陶磁」を一点ずつ測量した上で克明に写生させた。中身は乾隆帝の思いが籠もる清初三代の御窯倣古品が多かったが、それらと唐三彩を除いた伝世の古陶磁四百五十点の図譜を三井は作成した。「奉天古陶磁」を紀州徳川家に嵌めこむ商談を基本任務とする上田が、取り敢えず商品カタログとして作った三井図譜は、実質的寄託先の張作霖を監視するための管理資料としても必要だったのであろう。もう一つは「奉天古陶磁」の報道である。その真の目的を、ワンワールドの文化戦略と推定する理由は、事後的に報道工作に多くの白樺派と共産主義の文化人が関わっているからで、彼らがワンワールドの末端であることは言うまでもない。

 洪憲皇帝に就こうとした袁世凱は五年六月に急死する。これを中矢(伸一)は辰吉郎の工作と謂うが、頗る肯繁に当たる。南方革命派の孫文とも奉天覇権の張作霖とも昵懇だった辰吉郎が、愛新覚羅氏に代って帝政を維持せんとした袁世凱を排除するのは当然である。張作霖による仮装強奪は、袁の死を待って実行されたが、倣造計画は既に袁の生前に始まっていた。そう見る理由は、上田が五年春に支那陶磁研究の必要を説く論文を『明治紀要』に発表しているからで、上田は仮装強奪の直後、満鉄試験場内に窯を作り、京都から名工・小森忍を招いて倣造を始めた。

 大正九年春、関東車参謀長・浜面又助少将が上田恭輔と組み、関東軍として満鉄窯の倣造工作に参加する計画を具申した処、陸軍中央から許可が下りた。浜面の目的は、粛親王に対する戦費補填の資金捻出にあると観るのは、満蒙独立運動の戦費を一人で工面した粛親王に対して関東軍が補償責任を負っていたからである。ところが、陸軍中央の一人上原勇作参謀総長は、九年五月に紀州藩士・貴志彌次郎少将を奉天特務機関長に任じ、張作霖との懇親と上田がもたついている紀州家商談の促進を命じた。同時に個人付特務の吉薗周蔵を奉天に派遣し、貴志の支援と浜面・上田の倣造工作妨害を命じた。これはおそらく、上原のワンワールドでの同志である光瑞師から内密の依頼を受けたものであろう。関東軍を倣造工作に巻き込んだ上田は気付かなかったが、光瑞師は浜面の真意を「倣造品でなく本物の売却金にまで粛親王を与らしめること」と看破った。関東車の介入が計画全体に齟齬を来たす怖れを感じた光瑞師と上原参謀総長は、表向き諒承しながら裏面で妨害に出たのものと思われる。

 満鉄倣造品の出来栄えについて吉薗周蔵は、大正九年の『周蔵手記』では、「小森の手腕により本物そっくりに出来た」と感心しているが、後年には「上田・小森の作品はどうやら本物になれないらしい」との記述に変わる。これが真相で、倣造工作は結局成功しなかった。九年夏奉天に来た吉薗周蔵が大金を持っていると知った上田は、倣造窯を私営化する資金を作るため、三井図譜を五千円で周蔵に売却する。いずれ再製作すれば良いとの考えであったが、あに図らんやとうとうその機会に恵まれなかった。上田が後年しばしば周蔵を訪れて三井図譜の借覧を求め、買い戻し話まで切り出すのは、小森の倣造品を本物に近づけるためには三井図譜を必要としたからである。

 貴志彌次郎の苦心が実り、紀州家に秘宝が渡ったのは、貴志が中将に進級して下関要塞司令官に転じた大正十三年であった。奉天兵工廠増強のための資金需要が膨らんだ張作霖には結局七百五十万円が渡されたが、紀州家は二百五十万円しか負担できず、残りは光瑞師所管の国体資金で賄われた。当初醇親王に渡した代金と合わせると、国体資金の出椙総額は五百万円を遥かに超え、それを回収するため、光瑞師は「奉天古陶磁」の多くを秘かに売却した。現在世界各地の美術館が、世界の秘宝とか中華文明の精髄として展示する逸品の大多数は、この時に光端師が売却した品である。残った名品を、光瑞師は戦後の日中国交回復に役立てようとしたが、病没のため果たせなかった。

 粛親王らの満蒙独立運動に対し、醇親王が同調しなかった理由について、学校史学で教える処は、満族の漢族化か進み漢族社会を出る気概に欠けたとする。要するに民族的自覚の喪失と解して、満族を「亡国之民」視するのであるが、私見は、実情はその逆ではないかと疑う。つまり清朝二百七十年の間に、満族の一部が将来の漢族自立を見通して漢族社会に秘かに浸透し隠れた支配階級を形成したので、今さら漢族社会を脱却して新国家を建てるのを徒労の暴挙と考えたからではないか。「満漢通婚が許された明治三十五年以後の僅か十年ではあり得ない・・」との批判に対しては、そのずっと以前から満族の漢族進入が進んでいたとする仮説である。

 南北戦争後に出来た黒人国リベリアに帰ったアフリカ系米人も、先次大戦後に悲願が叶ったイスラエル共和国に遷ったユダヤ族も全体の少部分で、多数は現住社会に根差して新社会を望まない。被圧迫民にしてこれだから、清国の支配階級満族が漢族自立後について全然無策であったとは思えない。

一応リンクとして......あくまで参考です

裏天皇の正体 その1

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002604.html

裏天皇の正体 その2

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/09/002607.html

裏天皇の正体 その3

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002608.html

裏天皇の正体 その4

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002615.html

裏天皇の正体 その5

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/10/002616.html

上のリンクで裏天皇の正体 その6 その7 その8 その9が抜けていました

裏天皇の正体 その6

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2645.html

伏見宮海外ネットワークはここを参照(その6)

裏天皇の正体 その7

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/12/2669.html

裏天皇の正体 その8

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2646.html

裏天皇の正体 その9

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/01/2647.html

なぜか10~13がなくて

裏天皇の正体 その14

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2713.html

裏天皇の正体 その15

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/03/2715.html

裏天皇の正体 その16

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html



目次

第1部 奇兵隊天皇と防長卒族(明治大帝は周防の地から;大室天皇はなぜ田布施にいたのか;卒族たちの憧れは奇兵隊天皇;壬申戸籍とは何か)
第2部 薩摩藩と白山伯(幕末の怪火・倒幕論の火元;新政体の起案者;大政奉還は慶喜が進めた)
第3部 維新の裏方となった有栖川宮(龍馬の黒幕・尾崎三良の正体;有栖川宮と小栗忠順と二人の尾崎)

【商品内容】
京都皇統代の加勢舎人からの仄聞──
●護良親王の血を引く大室家を「玉」として周防国熊毛郡に匿った。
●熊毛郡麻郷の佐藤甚兵衛に命じて大室家を保護させていた。
●大室家を守るため、興正寺の別院を田布施に設けていた。
●吉田松陰の実家の萩の杉家は、大室寅之祐を世に出す役目を担っていた。
●半島渡来民との混血・長州卒族の武士身分の悲願を明治維新に込めていた。
──大室天皇説論争についに終止符が打たれる!

【目次】
第1部 奇兵隊と防長卒族
第一章  明治大帝は周防の地から
大室天皇説の衝撃
しだいに明らかになる「堀川政略」
清華三条家と土佐藩主山内家
安政大獄は井伊と水戸の大芝居
大室寅之祐の氏姓鑑識
大室家は護良の末裔で女系は名和氏
伊東巳代治は寅之祐の従弟
巳代治の母は大室スへの妹
フルベッキ写真と大室寅之祐
フルベッキ写真が撮った真実

第二章  大室家はなぜ田布施にいたのか
鞠府に匿われた大室家
日本分裂の危険を孕む大内軍閥
興良親王の周防入り
麻郷大室家を巡る民間伝承
福尾教授の大室天皇説
三浦芳聖の北陸朝廷説
大室家を保護した佐藤甚兵衛とは
南朝真宗興正派と麻郷西円寺
西円寺スㇸの素姓

第三章  卒族たちの憧れ奇兵隊天皇
防長卒族・陪臣の士族組み入れ
防長の地は多々良氏の本拠
大内氏の滅亡
史書が眼を逸らす半島民の渡来
大内氏の傭兵となった村上海賊
防長卒族・陪臣の淵源
士族・卒族・臣隷(陪臣)
明治三年の族籍分類
奇兵隊は奉公人に戦功を与える目的
卒族振興を策した吉田松陰
戊辰戦争は片八百長

第四章  壬申戸籍
下級武士史観がそもそもの誤り
明治二年十二月二日の族籍令
族籍調査と編籍の実施
明治五年に新「士族」が誕生
両公爵の族籍
身分捏造を護った皇国史観
雑種とは何か?
雑兵とは何か?
奇兵隊創設と「戊辰の役」の目的
維新後に違いが現われた薩長の個性

第2部 大政奉還の実相
第五章 幕末の怪火・倒幕論の火元
幕末→維新の決定的転換点
明治維新を実際に采配したのは
江戸幕府最後の問題
薩摩藩の外交を主導した者
怪人モンブラン伯爵と妖僧カション神父
池田使節団の本当の目的
白山伯、薩摩使節と幕府使節に同時接近
白山伯の持ちかけた琉球国の万国博出展
カション神父と万国博幕府使節
白山伯、琉球国の万国博事務総長に就く
フランスお政の高級娼館
白山伯の本当の年譜とウラ噺

第六章 新政体の起案者
「船中八策」は公武和一論
倒幕必至論の中岡慎太郎と首鼠両端の龍馬
倒幕密勅の裏側
大政奉還の刻迫る
尾崎三良に借りた「新政府綱領八策」
尾崎三良の政体案
龍馬手を拍って喜ぶ
尾崎構想が岩倉の正体を暴露
岩倉具視の本当の役割
小栗はなぜ抗戦を叫んだか

第七章  慶喜と大政奉還
大政奉還を渇望していた慶喜
渋沢栄一の衷情が滲む『慶喜公伝』
公議政体の具体像に悩んだ慶喜
下士卒族が時代の覇者に
啐啄同時で成功した明治維新
「堀川政略」の幕末工程を進めたのは誰か?
慶喜の排除を主張した維新三傑
生きていた三条実萬
中山忠光の朝鮮渡海
ウラ天皇が明治維新を仕切った
永世親王伏見殿がウラ天皇
建武政権に始まる政治的八百長
伏見殿の直臣水戸徳川家の素姓
水戸家と池田家を結んだ熊沢蕃山
水戸斉昭と三条実萬が「堀川政略」を進めた

第八章 龍馬の黒幕は尾崎三良
龍馬と尾崎三良の不思議な接点
政商は文筆が苦手
政商と法制官僚
龍馬の暗殺は誰が?
尾崎三良が帯びた密命
尾崎原案の背後の人影

第九章 二人の尾崎と有栖川と小栗忠順
二人の尾崎
尾崎三良は仁和寺宮の密子
三良の母桃華子は拝領妻
憲政の神様尾崎咢堂
大隈・小栗連合の証人矢野文雄
尾崎咢堂の資金源は渋沢栄一
小栗が大隈と矢野を結ぶ民主派トライアングル
民主派トライアングルのどえらい財源
尾崎テオドラは有栖川の血筋
有栖川宮の真相
有栖川を尾崎両家に入れた

なぜ新皇統が周防国熊毛郡田布施郷から出る必要があったのか、なぜ興良親王の子孫が田布施に置かれて大室流皇統とされたのかを説明し、「明治天皇すり替え説」を結論づける。

http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-513.html

大室寅之祐と田布施
『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』(落合莞爾 成甲書房)だが、第Ⅰ部「奇兵隊天皇と防長卒族」を漸く読み終えた。第Ⅰ部の内容は、大室寅之祐(明治天皇)の遠祖が大塔宮(護良親王)であること、さらには田布施の謎、すなわち卒族の存在を浮き彫りにしたもので、息を呑んだ読者も多かったことだろう。

管理人注:大塔宮政略

http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/index/detail/comm_id/3176

ついでに........

裏天皇の正体 その16

http://blog.nihon-syakai.net/blog/2014/05/2716.html

現在通読中の第Ⅱ部は明治維新の原動力となった、薩長藩閥のもう一方の雄藩・薩摩を取り上げている。本業に追われているので、第Ⅱ部を読了するのは今週末になりそうだが、この後の展開が今から楽しみである。

ところで、通読中の第Ⅱ部に落合さんの著した『南北朝こそ日本の機密』(成甲書房)に対して、以下のような批判があったという。

「南北朝なんて、そんな下らないモノをテーマにせず、小栗上野介のような面白いモノを書け」『奇兵隊天皇と長州卒族の明治維新』p.133
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