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修正後
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オリーブの木よりKidron Valleyの南西から建国前のエルサレムを見る。四つの丘「MountsMoriah,Zion,Ankra,Benethahaを見下ろす。オリーブの木は東,及び北東の位置にある。北側はパレスチナで南側はHinnomの丘の傾斜が見える。
写真はイスラエル建国前に書かれた聖書物語より。
主に依り頼む人は,シオンの山。揺らぐことなく,とこしえに座る。山々はエルサレムを囲み,主は御自分の民を囲んでいてくださる。今も,そしてとこしえに。主に従う人に割り当てられた地に,主に逆らう者の笏(しゃく)が置かれることのないように。主に従う人が悪に手を伸ばすことのないように。主よ,良い人,心のまっすぐな人を幸せにしてください。よこしまな自分の道にそれて行く者を主よ,悪を行なう者と共に追い払ってください。(詩篇:125)
ヤコブとその兄エサウはいつも互いに敵意を抱いていたわけではない。EDOMITEの知恵を旧約で知ることができる。
主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ,もし,ある国がわたしに対して不信を重ね,罪を犯すなら,わたしは手をその上に伸ばし,パンをつるして蓄える棒を折り,その地に飢饉を送って,そこから人も家畜も絶ち滅ぼす。たとえ,その中に,かの三人の人物,ノア,ダニエル,ヨブがいたとしても,彼らはその正しさによって自分自身の命を救いうるだけだ,と主なる神は言われている。(エゼキエル署14:12~14にもヨブが書かれている)
ヨブ記は散文詩的な表現ながら聖職者ではその深遠な意味がなかなか分かりづらい。しかし歴史学者,哲学者,心理学者は別の角度から理解する。ヨブ記全体から判断すると最終的にはマタイによる福音書第5章43~48節に行き当たる。その関係を詳しく述べている聖職者はいない。
敵を愛しなさい。「あなたがたも聞いているとおり,『隣人を愛し,敵を憎め』と命じられている。しかし,わたしは言っておく。敵を愛し,自分を迫害する者(管理人注:神も含むという意味ですがこれがヨブ記の最重要なテーマです)のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ,正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである......」(マタイ第5章敵を愛しなさいから)
苦難が過ぎ去った後,神はヨブの終わりを初めより多く恵まれた。(ヨブ記42:12)
CG・YUNG 原題はANTWORT AUF HIOB(ドイツ語)
ヨブ記では人が神に異をとなえ,反抗している。ユングの翻訳者林道義氏はユングの「ヨブへの答え」のなかで『神との確執の中でヨブが見たものは,神の野蛮で恐ろしい悪の側面であった。ヨブは神でさえ気づいていない神の暗黒面を意識化したのである。ここでユングは独創的な見解を打ち出す。神は人間ヨブが彼を(注:神)追い越したことをひそかに認め,人間の水準にまで追いつかなければならないことを知った。そこで神は人間に生まれ変わらなければならない。ここにイエスの誕生につながる問題がある,と。(管理人注:これは神にとって画期的かつ致命的な洞察と考えられる。その神の悪意をもった個人に対する悪戯=攻撃をこれから考えてゆきましょう)ひょっとして全ての問題が解決されるかもしれませんよ。
彼はここに来て住んだ。その町はナザレと呼ばれる。マリアとヨセフの故郷でありイエスが幼少時代を過ごした町。反対方向に戻るとラケルの墓がある。
「ヘロデが死ぬと,主の天使がエジプトにいるヨセフに夢で現れて,言った。起きて,子どもとその母親を連れて,イスラエルの地に行きなさい。この子の命をねらっている者どもは,死んでしまった。そこでヨセフは起きて,幼子とその母親を連れて,イスラエルの地に帰ってきた。しかし,アルケラオが父ヘロデの跡を継いでユダヤを支配していると聞き,そこに行くことを恐れた。ところが,夢でお告げがあったのでガリラヤ地方に引きこもり,ナザレという町に行って住んだ。<彼はナザレの人と呼ばれる>という預言者たちを通して言われていたことが実現するためでもあった」(マタイ第2章19~23節)
会堂で教えておられると,人々は驚いて言った。「この人は,このような知恵と奇跡を行なう力をどこから得たのだろう。この人は大工の息子ではないか。母親マリアといい,兄弟はヤコブ,ヨセフ,シモン,ユダではないか。姉妹達は皆,我々と一緒に住んでいるではないか。この人はこんなことをすべて,いったいどこから得たのだろう」このように人々は,イエスにつまずいた。イエスは「預言者が敬われないのは,その故郷,家族の間だけである」と言い,人々が不信仰であったので,そこではあまり奇跡をなさらなかった。(マタイ第13章53~58節)
わたしに足枷をはめ行く道を見張っておられる。(ヨブ記33:11)
生まれたときには人間もロバの子ようなものだ。(ヨブ記11:12)A Wild ASS'S COLT
ゲーテの「ファウストと悪魔メフィストテレス」の対話はヨブ記の冒頭部分を題材にしたものである。
われわれの突き止めようとしている要因は,単一なものではなくて複合的なもの,つまりなにかある実在者ではなく関係である。われわれはこの関係を,二つの非人間的な力の相互作用と考えてもよいし,二つの超人間的な人格の遭遇と考えてもよい。それが問題解決の方向へ導いてくれるだろう。
ヨブに襲い掛かるサタン (ウイリアム・ブレイク)
二つの超人間的人格の遭遇は,人間の想像力の構想したもっとも偉大な劇のうちのいくつかの筋になっている。ヤーウエ(エホバ)と蛇との遭遇が,創世記の中で述べられている人間堕落の物語の筋であり,シリア社会に属する人々の魂がしだいに啓発されてゆくにつれ変貌した。同じ対立者の第二の遭遇が贖罪の物語を述べる新約聖書の筋であり,主(神)とサタンの遭遇がヨブ記の筋であり,主とメフィストフェレスの遭遇がゲーテの『ファウスト』の筋であり,神々と悪魔たちの遭遇がスカンジナビアのVoluspa(韻文エッダの中に収められている女預言者の預言の意味)の筋であり,アルテミスとアフロディテの遭遇がギリシャ三大悲劇詩人の一人であるエウリピデスの『ヒッポリュトス』の筋である。
神々が美しい人間の娘にうつつを抜かし,被害者の名前をずらっと詩の中に並び立てることが出来るほど大勢の娘をものにした。そういうヘレニック社会では問題であったが,遭遇の当事者が両方とも超人間的存在になっている場合では、ヨブ記において,「神の子たちがきて,主の前に立ち,サタンもきてその中にいた」(ヨブ記1・6)は異例の出来事ではある。また,ゲーテの『ファウスト』の冒頭に置かれている”天上の序幕”における,主とメフィストフェレスの遭遇はヨブ記の冒頭からヒントを得たものではあるがそれも同様である。天上の遭遇が地上にもたらす結果は,途方もなく大きなものである。
ヨブとファウストの個人的な試練は,無限に多様な人類の試練を,直感的な創作の言葉で表現したものである。神学の言葉では,この同じ重大な結果が創世記と新約聖書の中に描かれている超人間的遭遇の後に起こるものとされている。ヤーウエと蛇の遭遇の後に起こるアダムとエバの追放は,人間の堕落にほかならず,新約聖書におけるキリストの受難は人間の救済にほかならない。どの場合も物語りは完全な陰の状態からはじまる。ファウストは知識において完全であり,ヨブは善行と幸運において完全であり,アダムとエバは罪のなさと安楽さにおいて完全である。しかし,陰から陽に移行させる場合,もう一人の役者が必要になる。苦悩や不安や恐怖や反感を注入する敵を登場させなければならない。
エデンの園の物語は神と地と人の分離,神と人(親子)との別れ,というかたちで幕を閉じる。(神の命に背いて知識の実を食べたアダムとイブをエデンの園から追放する場面)「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。<創世記 第3章24節>
これが創世記の蛇,『ファウスト』のメフィストフェレス,イルミナティのルシファーなどが処女神話の処女を愛する神の役割である。
神々と悪魔との一騎打ちの賭けはヨブ記と『ファウスト』の古典的なモチーフで構成されている。ファストとメフィストフェレスの賭けは本を読んでいただくとして,悪魔が神に挑戦するとき,神はその挑戦に応じることを拒むわけにはゆかない。もし拒絶すれば,神はみずからの本質を否定することになり神をやめなければならない。
ヨブ記でも『ファウスト』でも,新約聖書でも,賭けは悪魔の勝利に終わるはずがないこと,悪魔は神の事業に干渉するが神の目的を妨害することにすぎないのだろうか。遭遇でもなんでもない遭遇は,遭遇の必然的結果.....陰から陽への転換という広大な宇宙的結果を生じるはずがない。悪魔が言い出して神が受諾する賭けは,神の創造の一部に及ぶが全体には及ばないと考えるのが正しい解釈であろう。
昔のエルサレムの寺院前にあった両替商。寺院は祈りの場所ではなく盗人の巣窟であった。これがロートシルト(ロスチャイルド)の金貸しの原型。右にはアラビア語で交換レートが書いてある。これを見てイエスの怒りをかったとある。
2026年イスラエルのメギドの丘でサタンと神(ヤーウエでなくキリスト)の一騎打ちの演出のために高利貸しの陰陽師はいる。しかし賭けは悪魔(サタン)の勝利に終わるはずがないことははじめからわかっているのだ。旅行会社にハルマゲドン・ツアーでも組まれると困るのでその前に人類に滅亡してもらおうという魂胆なのでしょうね,きっと。
ついたコメントから