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修正後
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日本のケープタウンからこの「ヨブへの答え」は延々と続きます。
厳密に言えば,アダムは何か新しいことを覚えるのではなく,自分の裸体を悟り善と悪の区別を意識するのだ。同様に歳をとってゆく人間は知らないことを何か習うのではなく,新しい次元の中で,新しい照明のもと悲しい真理を発見するのだ。
(ウラジミール・ジャン・ケレビッチ「死」)より
ヨブ記でも『ファウスト』でも,新約聖書でも,賭けは悪魔の勝利に終わるはずがないこと,悪魔は神の事業に干渉するが神の目的を妨害することができず,かえってそれに奉仕するだけであること,神は常にたくみに難局を切り抜け,悪魔に悪魔みずから首をくくる縄を与えることが暗示されているか,あるいははっきり言明されている。
わたしがアダムのように自分の罪を隠し咎を胸の内に秘めていたことは,決してない。もしあるというなら群集の前に震え,一族の侮りにおののき目して門の内にこもっていただろう。どうかわたしの言うことを聞いてください。見よ,わたしはここに署名する。全能者よ,答えてください。わたしと争う者が書いた告訴状を。(ヨブ記第33章33~35節)
絵はフランス人画家Leon Bonnat(1833~1922)作
わたしの一生は機のひよりも速く望みもないままに過ぎ去る。(ヨブ記第7章6節)
この劇の主人公である人間の役割はどうかといえば,その役を演じる人間がイエスであろうと,あるいはヨブ,あるいはアダムとエバであろうと,いずれもみな苦しみ悩むのが基調にになっている。エデンの園におけるアダムとエバの姿は,善悪の知識の木の実を食べる誘惑に対する反応としての堕落は,いったん達成された完全な統合を捨てて,そこから新たな統合が生まれてくる。楽園から冷酷な世界に追放され,そこで女は苦しんで子を産み,男は額に汗して食べなければならないようになるのは,蛇の挑戦に応じたために当然経験しなければならなかった試練である。
時が来る前に枯れ枝はその緑を失う。未熟な実を荒らされる葡萄の木。花を落とすオリーブの木のようになる。(ヨブ記第15章32~33節)
神は地の面に雨を降らせ野に水を送ってくださる。(ヨブ記第5章10節)
「大昔に,裸で,家も持たず,火を知らなかった野蛮人の一隊が,熱帯の暖かな故郷を出て(管理人注;多分アフリカのエチオピア),春のはじめから夏のおわりにかけて,次第に北の方へ進出していった。9月に入り不快な夜の冷え込みを感じるようになるまで,彼らは常夏の国を後にしたことに気づかなかった。日一日と寒さは厳しくなっていった。原因がわからないままに,彼らは右往左往して逃げ回った。あるものは南に向かったが,もとの故郷に戻ったのはほんのわずかであった。この少数の人々はそこでまた昔の生活をはじめた。そしてその子孫は今日にいたるまで未開蛮族の状態にとどまっている。他の方向に彷徨っていた連中のうちただ一つの小集団を除いて,ほかは全部死に絶えた。この小集団の所属者は,肌を刺す寒気から逃げ出すことができないことを知って,人間の諸能力の中でも最も高級な,意識的発明の能力を利用した。あるものは地中に穴を掘って隠れ場所を見つけようとし,あるものは木の枝や木の葉を集めて小屋と暖かな寝床を作り,あるものは殺したけだものの皮で身を包んだ。短時日の間に,これらの野蛮人は文明への偉大な歩みのいくつかを実現したのである。
今まで裸だった者が着物を着るようになり,家を持たなかった者が隠れ場をもつようになり,先の備えをしなかった者が,肉を干し,木の実とともに貯蔵して冬に備えることを覚え,最後に暖を取る手段として火を作る術が発見された。かくして彼らは,最初はとても生きてゆけないと思われた場所に生き続けた。そして苛烈な環境への適応の過程を通して,長足の進歩をとげ,熱帯に住む人類の他の一部分を,はるか後に残すことになった」(Huntington ellsworth;Civilization and Climate 405-6ページより)
頼みの綱は断ち切られる。よりどころは蜘蛛の巣のようなもの。(ヨブ記第8章14節)
だが,倒れ伏した人間は 再び立ち上がることなく 天の続くかぎりはその眠りから覚めることがない。どうか,わたしを陰府(よみ)に隠してください。あなたの怒りがやむときまでわたしを覆い隠してください。しかし,時を定めてください わたしを思い起こす時を。人は死んでしまえば もう生きなくてもよいのです。苦役のようなわたしの人生ですから 交替の時がくるのをわたしは待ち望んでいます。呼んでください,わたしはお答えします。御手の業であるわたしを尋ね求めてください。(ヨブ記第14章12~15節)

ユングの第一人者林道義氏の訳者解説の「誤解の原因」の中にKarl Barth(写真)がその著『ヨブ』の中で,ユングは「彼自身の説明によれば,その著述にさいして彼のはなはだ奇妙な<<情動>>に<<何の顧慮も,はばかりもなく>>言葉をゆだねたという、つまり,その情動の中で彼は,そこに記されている事柄を冷静に読み,思索することができなかった」と批判しているが,この批判を秋山さと子は以前に出版された本書の翻訳の「解説」のなかでそのまま肯定して,そのためユングが『重大な矛盾』を犯していると断じている。バルトも秋山も,「言葉を情動にゆだねる」ことと「事柄を冷静に読み取る」ことは絶対に相容れない二律背反であるという,常識の線に沿って理解をすすめようとしている。
ユングはいきなり言う。『ヨブ記』はじつに,われわれの時代にとって特別に重要な意味をもっている神体験のあり方の,原型の役を演じているのである。この種の経験は内からも外からも人間に襲いかかるものであり,それを合理的に解釈し直したり,そうすることによって悪魔祓いの要領でショックを和らげようとしても無駄である。ありとあらゆる知的操作や感情的逃避によって激情から開放されようとするよりも,その激情を認めてそれに従うほうがましである。たとえ激情に身を委ねることによって暴行の悪しき性質をすべて模倣し,そのためそれらと同じ過ちを犯すことになっても,そうなることこそまさに,そうしたことが起こることの目的なのである。
すなわちそうしたことが人間の中に入り込むべきであり,人間はその作用に打ち負かされるべきなのである。それゆえ彼は敏感でなければならない。なぜならそうでなければその作用が彼に及ばないからである。ただし彼は何が自分を刺激したかを承知しているべきであり,あるいはむしろ知ろうとすべきである。なぜならそうすることによって彼は一方では暴力の盲目性を,他方では激情の盲目性を,認識へと転換させるからである。この理由からわたしは以下において遠慮会釈なく言葉を激情に委ね,不正に対しては不正なことをお返しするであろう。そうすることによって私は,なぜそして何のためにヨブが傷つけられたのかを,またこの出来事からヤーウエにとっても人間にとってもどんな結果が生まれたのかを学び取るであろう、と。(C・G・YUNG ANTWORT AUF HIOB ヨブへの答え<林道義訳>14ページより)
林道義氏は続ける。しかしユングは「激情の盲目性を認識へと転換させる」ためにこそ,いったん「激情に身を任せる」ことが必要だと言っているのであるから,どのようにして「激情に身を任せる」ことが「事柄を冷静に読み取る」ことにつながるのかということこそ明らかにされなければならない問題であろう。これはユング心理学の最も基礎的な方法に関わる問題なのである,と。
ついたコメントから
