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カナンの地(現パレスティナ)は約束の地ではありません

カナンの地は約束の地ではありません

約束の地

http://web.archive.org/web/20170904201555/http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2099

関連記事:聖書ものがたり~列王記

http://web.archive.org/web/20170501224907/http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/135.html

★イスラエルの歴史

紀元前334年~紀元前332年 - マケドニア王国のアレクサンドロス3世による東方征服でパレスチナの地が征服される。その後、マケドニアは分裂し、プトレマイオス朝、そしてセレウコス朝(シリア王国)の支配下に入る。

紀元前143年 - セレウコス朝の影響を脱しユダヤ人がこの地の支配を確立する(マカバイ戦争)。その後、ローマ帝国の属州となる。

66年 - ローマ帝国の属州であったユダヤの地でユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。独立を目指すが、70年にローマ帝国により鎮圧される。 神殿崩壊。

132年 - ユダヤ人バル・コクバに率いられたバル・コクバの乱(第2次ユダヤ戦争)が起き、一時イスラエルは政権を奪還したが、135年に再びローマ帝国に鎮圧される。その後、現代イスラエル国が誕生するまで長い離散生活が始まったとされる(ディアスポラ)。

聖 書に書かれていることを見てみると,イスラエル民族はその成立の頃から,すでに様々な人種的要素が交じり合っていた。当時の小アジア,シリア,パレスティ ナには多くの異なった人種が住んでいた。例えば,ブロンドで長頭長身のアモリ人,色が黒く黄色人種系のヒッタイト人,黒人のクシート人など多種多様であっ た。聖書の各所に見いだされるように,古代ヘブライ人はこれらの人々との通婚を行っていたのである。古代の預言者たちは「異国の神の娘たちとの結婚」には 大声で反対を唱えたが,元来,性関係にルーズなイスラエル人を思いとどまらせることは出来なかった。指導者達が先頭に立って悪いお手本を示したとさえいえ るのである。イスラエル人最初の家長であったアブラハムはエジプト人ハガルと同棲していたし,ヨセフはエジプト人祭司の娘だったアセナテと結婚した。モー ゼはミディアン人のチッポラと結婚,ユダヤ民族の英雄とされているサムソンはペリシテ人であった。ダビデ王の母親はモアブ人であったし,彼自身ゲシュル人 の王女をめとっている。ソロモン王(彼の母はヒッタイト人)ときては「多くの外国の女を愛した。すなわち,パロの娘,モアブの人々,アンモン人,エドム人,シドン人,ヘテ人,の女を愛した........」(列王記(上)11章1節から)と,醜聞録はえんえんと続く。』

313年 - 東ローマ帝国の支配下に入る。

★ユダヤ教

文献に現われる「ユダヤ教 ユダイスモス(ギリシャ語)」の初見は紀元前2世紀である。
(マカバイ記二2章21-22)高等批評では、無名のユダヤ人著作者がBC100頃に書いたとされる。

宗派

(1)ファリサイ派(パリサイ派)は古代イスラエルの第二神殿時代(紀元前536年 - 紀元70年)後期に存在したユダヤ教内グループ。本来、ユダヤ教は神殿祭儀の宗教であるが、ユダヤ戦争によるエルサレム神殿の崩壊後はユダヤ教の主流派となってゆき、ラビを中心においた、律法の解釈を学ぶというユダヤ教を形作っていくことになる。
現在ではファリサイ派という名称は使われず、「ラビ的ユダヤ教」、あるいは「ユダヤ教正統派」と呼ばれている。

(2)サドカイ派は第二神殿時代の後期(紀元前2世紀)に現れ、ユダヤ戦争に伴うエルサレム神殿の崩壊と共に姿を消したユダヤ教の一派。
現代の研究者たちはサドカイ派を神殿に拠って権力者たちと結託していた祭司のグループであったと考えている。

端的に言えば、サドカイ派は富裕層であり、ファリサイ派は一般市民であった。

(3)エッセネ派は、紀元前2世紀から紀元1世紀にかけて存在したユダヤ教の一グループの呼称。現代では複数の関連のある集団がまとめてエッセネ派という名で言及されていたと考えられている。呼称の語源は不詳。ファリサイ派から発生したと考えられるが、俗世間から離れて自分たちだけの集団を作ることにより自らの宗教的清浄さを徹底しようとした点で、民衆の中で活動したファリサイ派とも一線を画している。

新約聖書では(1)と(2)は登場するが、(3)のエッセネ派は一切登場しない。それを以ってイエスはエッセネ派ではないかという推論をする人がいる。大いにあり得ると思っている。

★預言の終焉

ヘレニズム時代になって(BC332年頃から)預言者が現われなくなる。
預言の終焉である。
それ以降は聖書テキストの読解を通して神の言葉を知ろうとするために聖書解釈が必要となりユダヤ古典学が発展する。

その「預言の終焉」まではヨシュアからエレミア、エゼキエル等々18名の預言者が適時に現われて「神の言葉」を伝えていた。
急に途絶えたのである。

「古代ユダヤの預言の終焉のミステリー」と学者は言う。
学者だからはっきり言えないのだろう。
それまでは預言者に託けて語ったとされてテキストが作られていたと考えられるかも。

対立する宗派も生まれ、一定の規模にまで成長・成熟した宗教では誰しもが認める預言者を産むことは難しくなるのは道理である。

★ミシュナーとタルムード

ミシュナー・・・ユダヤ教指導者・ラビのトーラーに関する註解や議論。

タルムード・・・モーセが伝えたもう一つの律法とされる「口伝律法」を収めた文書群である。
ラビの教えを中心とした現代のユダヤ教の主要教派の多くが聖典として認めており、ユダヤ教徒の生活・信仰の基となっている。ただし、聖典として認められるのはあくまでヘブライ語で記述されたもののみであり、他の言語に翻訳されたものについては意味を正確に伝えていない可能性があるとして聖典とはみなされない。

1世紀以降にミシュナーやタルムードに登場するラビが賢者(ハハム)と称し、聖書解釈を行いユダヤ古典学の基礎を築くこととなる。

マックス・ウエーバー「古代ユダヤ教」

http://d.hatena.ne.jp/oshimayukinori/20130328/1364434117

マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・中)2/3Add Star

 エジプト大文化圏の辺縁にいたというユダヤ教の「幸運」

 p409-14

 古代イスラエル王国の政治的状況が憂慮すべき事態となるにつれて、どのような社会的不法行為や過失が神を怒らせたのか、また、どうすればヤァウェをなだめることができるのかが、ひろく一般に論議されるようになっていった。

 それとともに、元来は王国の役人に過ぎなかったヤァウェ祭司に対し、ヤアウェの意志や贖罪されるべき過失を探知するという課題に立ち向かうことが求められていった。政治的運命の重圧が増すにつれ、贖罪の犠牲の意義とヤァウェの命令についての知識が社会全体の中で喫緊の課題となり始めた。

 p445

 レビびとが威信を獲得したのは、彼らのヤァウェの命令に関する純合理的知識によってである。すなわちヤァウェの命令に対する背反を贖うための儀礼の知識をレビびとが持っていたからである。

 王も共同体全体もそのことに関心があったが、レビびとの私的顧客の関心ははるかに強いものだった。イスラエルの政治的苦境が増大するにつれてこの需要はますます強まった。私的顧客に教えることで彼らを苦境から救出すること、そのことこそが(現在でも)レビびとがトーラー(律法)を唱える意味である。

 p463

 紀元前六百年のバビロン捕囚期の前後に、政治的苦境が大きくなるにつれて、ヤァウェ祭司は民衆をエルサレムでの集中礼拝に導くようになった。そしてそれは副次的に、「ヤァウェから分ち与えられる犠牲の食事」つまり動物の屠殺と肉食が、イスラエル全土に拡大することにつながった。このヤァウェ祭司の個人的食事の世俗化は、過ぎ越しの食事に象徴される旧来の氏族の宗教的意義に対して、最終的な打撃を与えるものだった。

 p476

 特別な種類の性的決議論が、レビびとたちにあるわけではない。性的諸事象それ自身に関する古い自然主義的な無邪気さが、レビびとたちの間でだけ、肉体的露出に対する徹頭徹尾儀礼的な心配と結合しているにすぎない。

 しかもこの結合は、われわれの市民的な羞恥感情とはいささかの関係もない。当時の祭司身分が培養したこの独特な儀礼的態度は、歴史的には北イスラエルの農民の性的狂躁道に対する嫌悪の中にその源泉が存在する。

 じつはイスラム圏でも、ほとんど同じ事情がある。古代農民たちの性的狂躁道はイスラム圏でも同じだったが、知識階級であるイスラムの祭司たちが裸たることに強い反感を示したために、皮肉にもこの地方は現在につながる繊維産業の担い手となったのである。

 辺縁地域だからこそ、「世界の進行」に敏感だった

 p483

 旧約聖書のさまざまな物語は、時として強大だった王権に圧迫されながらも軍事力を持った大氏族が健在であったことの証明である。また、王権に対して精神的に独立し、しかも古い連合戦争神の威信ゆえに王が無視できない職業的なヤァウェ祭司たちも旧約の物語の担い手であった。

 王権に批判的なヤァウェ主義を支援したもう一つのグループは、土地財産を持って定住している敬虔な平信徒たちだった。対外政策の失敗によってひとたび王権の威信が動揺すると、彼らは宮廷を公然と批判した。いまも現存する、王国以前の時代に関する古い諸伝承の集成を引き受けたのは、この平信徒サークルと彼らが支えていた純ヤァウェ崇拝者だった。

 p507-9

 古代の土俗信仰の馬鹿馬鹿しさを排除した宗教改革的思想がまず孕まれたのは、バビロン、アテナイ、アレキサンドリア、ローマのような大文化の中心地ではない。捕囚期以前のエルサレム、後期ユダヤ時代のガリラヤ、後期ローマ時代の属州アフリカといった文化地帯の辺縁地域においてであった。

 その理由は明白である。新しい宗教的な思想が可能となるためには、この世界のもろもろのできごとに新鮮な驚きを感じるひとびとの心が不可欠だからである。文化に飽和している人々は周囲の世界に驚嘆する能力を失いやすい。大文化の辺縁に生活する人々にこそ、世界の進行について驚嘆する能力は与えられる。

 イスラエル人にこのような問題提起の機縁を与えたできごとが何であったのか――、それは打ち続く解放戦争と王国の成立、賦役国家と都市定住文化の成立、諸大国の威嚇、とりわけダビデ・ソロモン後の北王国の崩壊と栄光の最後の名残りである南王国の同じ運命である。

 そしてそのあとにバビロン捕囚が来た。連合戦争神ヤァウェの威信は、こうした大文化の辺縁に生活する人々の艱難の中で創造された。

 p527

 イスラエルに特別の政治的惨禍が生じるのはなぜなのかという問題に対して、レビびとたちは次のように考えた。民がヤァウェの儀礼的・倫理的諸義務を履行するかぎりにおいて、連合戦争神としての古い約束を実行してくれる。イスラエルに惨禍が起きるということは民が義務を履行しなかったからだ、と。

・・・このような問題提起と解決の模索がなされたことは、捕囚を前にして、それまでの素朴な祈りや反省や生贄や占星術的決定論ではあきたらない何らかの合理的神義論を求める要求が、当時の社会的空気の中に現れていたことを示している。

参考:終末の時代に起こること

https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/025a4828f9b24e49eed2d9b73d352fb1

ぺリマリのぶらぶら講義

https://www.pinterest.jp/pin/786089309987019351/

 

預言の終焉

http://web.archive.org/web/20170502052055/http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2096

今を遡ること60余年、約束の地にイスラエルが建国された。私はこの時にキリスト教とユダヤ教を合体させるシステムが完成されたと思う。イスラエルは約束された地への帰還ではなく、キリスト教徒とユダヤ教徒がコインの裏表として機能するためのプロミス・ランドとなっている。イスラエル建国宣言に対して打てば響くように答えた唯一の大国アメリカは、キチガイ沙汰ともいえる巨額の軍事費をイスラエルつぎ込んで行く。イスラエルは見る間に軍事大国に変貌していく。その陰にはいわゆるユダヤロビーの蠢動があったといわれていが、しかしユダヤロビー=ユダヤ教徒とは限らないのである。私は狂信者の化けの皮を被って、キリスト教徒とユダヤ教徒を自在に操る覚めた集団がいると考えている。

イルミナテイ人委員会、フリーメーソンのピラミッド階級、すべてを見通す目、ユダヤ悪魔教、シオンの議定書、タルムードを小道具として用いる、信仰を持たない非常に冷徹な一群、おそらく100人にも満たない真の寡頭勢力がいると私は考えを改めている。つまりキリスト教徒とユダヤ教徒の二元対立はmajickのタネで、真のマジシャンはユダヤ悪魔教徒をネタとして使う、彼ら覚めた一群であると。マジシャンたちは二元対立のバリエーションを自在に操る。その一例がサブラとシャテイーラの二つの難民キャンプ虐殺である。この事件の真相を知るとき、キリスト教とユダヤ教の対立は建前に過ぎず、両者はすでに60余年前に合体していることが分かるのである。

1982年9月ベイルートで3日間に渡ってパレスチナ難民が虐殺される。キリスト教徒がユダヤ教徒の協力の元に、老人子どもを含むパレスチナ難民をカサハ(切り刻む)したのである。虐殺の最中のキャンプに命懸けで入った日本人フォトジャーナリストがいた。

広河隆一写真・編『ベイルート1982年 イスラエルの侵攻と虐殺』より

広河隆一の証言

9月18日、午前8時に、イスラエル軍がサブラとシャティーラのキャンプを包囲したと聞いたので、私は西ベイルートのホテルを出て、キャンプに向かった。キャンプに着いたのは午前8時20分か30分だった。二つのキャンプの中に入ろうとすると、イスラエル製の二大の戦車が、砲台をキャンプの中に向けて、閉鎖していた。ことのきキャンプ内で、銃声とブルドーザーの音がはっきりと聞きとれた。「日本人のジャーナリストだ、入れろ!」と私はイスラエル兵士に言った。だが、彼らは私を追い返した。そこで私は、東側の入り口に回ってみたが、そこも封鎖されていた。それから私は、南側の大きな通から入ろうとした。そこは、まだ燃えていた。真っ黒こげの道路で、樹木もすべて砲弾でなぎ倒されていた。それでも私はキャンプ内に少しの間だけ入ったが、人影は全くなかった。出ようとした時に、私は道路の反対側から来た人に呼びとめられた。彼はレバノン人だった。「キャンプの中でパレスチナ人が虐殺されている」と、その人は言った。彼によると、ハダドの民兵(イスラエルの指揮下で南部レバノンを拠点とするレバノン右派民兵たち)たちがキャンプのパレスチナ住民たちを処刑しているという。私は驚いて、そこへ連れていってほしいと頼んだが、行けば自分も殺されるからと言って、彼は逃げて行った。そこで、私は自分だけでキャンプに入っていかざるを得ないと考えて、入ろうとしたが、20メートルほど離れた地点にイスラエル軍の戦車が砲弾を撃ち込んだので、あやうく殺されるところだった。ものすごい爆風を感じたが、幸いにも外傷はなかった。「威嚇だな」と思ったので、そこからキャンプの中に入る計画は断念した。そのかわり何度も訪れたことのある、近くのアッカ病院に行ってみた。
そこは、パレスチナ月赤十字社の医師たちが、各地からのボランテイアの医師や看護婦たちと一緒に、パレスチナ人の病人や負傷者の治療をするところである。病院の中に入ると、中庭に戦車のキャタピラの跡があった。これは、明らかについさっきまでイスラエル軍の戦車が、そこいたことを物語っていた。病院のベッドはブツブツと真黒に燃えていたが、人は一人もいない。病院の4階と5階も、まだ煙をあげて燃えていた。一階の奥の方に、まだ火がまわっていないベッドの上に、一人の老婆がうずくまっていた。恐怖のあまり体をピクピク振るわせているが、呼んでもこちらを向かなかった。なぜイスラエル軍やハダド軍がこの病院からいなくなったのか、いまだに不明である。虐殺の現場から姿を消して、事実を隠そうとしたのかもしれない。だがイスラエル軍がキャンプの反対側にある道路を封鎖していたというのは事実だ。断言は出来ないが、私は虐殺が終わった直後にキャンプに入ったのだが、おそらくそのときに処刑者たちは、キャンプのずっと奥に移動してしまったのかもしれない。病院を出てシャティーラ・キャンプに入って、200メートルほど歩いた。左側に最初の死体を見つけた。それは、瓦礫の中で体がグシャグシャにつぶされてしまっていた。その隣にも同じ状況の死体があった。そこから50メートルほど歩いたところに、もう一つの死体があった。その時まで、これらの人々が近い距離から射たれて処刑されたことが分からなかった。なぜあんな瓦礫の中に横たわり、体があんなにひどい状況になっているのか理解できなかったのである。多分、戦争の最中に砲弾で家もろとも吹きとばされたのだろう、と私は思った............以下は残酷なのでカット

(聖書ものがたり・Kings1・2(列王記)) ~字数の関係で一部カット
 
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 ここのページはCHRONICLES(歴代誌・第一神殿時代史を含みます。

 何故、歴史書が二つあるか?―神殿と支配層(祭司とレビ人)の権威化

さて、問題は何故似たような歴史書が、列王記、歴代誌と二つあるのか。歴代誌の編集理由は、何なのでしょうか。

今までにみたように、付加部分からは、祭司特にレビの祭儀伝統の継承と重要性、ダビデ王とソロモン王による神殿の権威付け、神の超越性と神秘の強調、イスラエル民族精神の昂揚などが伺われます。

削除部分からは、ダビデ・ソロモン王と、祭司たちの不都合部分抹消と、北イスラエルの無視などがみられます。何れも、ダビデ王(民族的英雄である)による神殿と聖職者の神聖化と権威化、民族意識、愛国心の昂揚を目的として、列王記を削除・追加していることが判ります。


 歴代誌と列王記の違いクリックすると元のサイズで表示します

歴代誌21・1「サタンがイスラエルに対して立ち、イスラエルの人口を数えるようにダビデを誘った。」
列王記24・1b「主は、イスラエルとユダの人口を数えよ、とダビデを誘われた。」
とあり、歴代誌で初めて「サタン」が出現している。これは当時、ユダヤ教がペルシャのゾロアスター教の影響を受けていたことを物語るとされます。旧約には本来は、悪魔・サタンは存在しない。死後の復活観念もない。前2、3世紀ごろから入り始めた外国の思想。(江礼宮夫氏の見解)


列王記と後に書く歴代誌は紀元前1000年から紀元前580年の物語である。列王記Ⅰ第11章41節には,ソロモンの他の事績,彼の行なったすべての事,彼の知恵は,『ソロモンの事績の書』に記されている。また,第15章7,31には,アビヤムの他の事績,彼の行なったすべての事は,『ユダの王の歴代誌』の中に記されている。そして,ナダブの他の事績,彼の行なったすべての事については,『イスラエルの王の歴代誌』に記されている,と。
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 ソロモンの在世中,ユダとイスラエルの人々は,ダン(DAN)からベエル・シェバ(Beer-sheba)に至るまで,どこでもそれぞれ自分のぶとうの木の下,いちじくの木の下で安らかに暮らしていた。(列王記Ⅰ第5章5節)。(注:)英文のKing Jamesではこの部分は第4章25節になっている。
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 ティルス(TYRE)の王ヒラムの墓のような記念碑のような?....と思われる。

 ティルス(TYRE)の王ヒラムとソロモン王に仕えた錬金術師のヒラムとは全くの別人ですので注意が必要。
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 ソロモンはヒラムにその家のための食料として,小麦二万コルと純粋のオリーブ油20コルを提供した。(列王記Ⅰ第5章25節)(注:英文のKing Jamesでは5章11節)
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Gorge of THE CHERITH(ケリト渓谷)。エリヤ(ELIJAH)が大カラスにエサを与えられた聖書的な場所として知られる。近くにはエルサレムからエリコに通じる旧道がある。.......主の言葉がエリヤに臨んだ。「ここを去り,東に向かい,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。その水を飲むがよい。わたしはカラスに命じて,そこであなたを養わせる。」エリヤは主が言われたように直ちに行動し,ヨルダン川の東にあるケリトの川のほとりに行き,そこにとどまった。数羽のカラスが彼に,朝,パンと肉を,また夕べにも,パンと肉を運んできた。水はその河から飲んだ。しばらくたって,その川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからだ。(列王記Ⅰ大17章2~7節)
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カルメル山(Mt.Carmel)は乾季でも水の流れは絶えない。「(エリアによって)水は祭壇の周りに流れ出し,溝にも満ちた」(列王記Ⅰ第18章35節)。
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ケリトの小川。(The Brook of Cherith)。しばらくたってその川も涸れてしまった。雨がこの地方に降らなかったからである。(列王記Ⅰ第17章7節)
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洗濯の日は西洋より東洋のほうが面倒でない。乾季には太陽の元すぐに乾くからである。洗剤はオリーブオイルに灰汁もしくはアルカリ性のものを加える。「アッシリアの王は,ラキシュからタルカン,ラブ・サリスおよびラブ・シャケを大軍と共にヒゼキヤ王のいるエルサレムに遣わした。彼らはエルサレムに上って来て,布さらしの野に至る大通りに沿って上の貯水池から来る水路の傍らに立ち止まった。(列王記Ⅱ第18章17節)
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 ヘゼキア(HEZEKIAH)は貯水池と水道を造った。1世紀の古代ユダヤ人歴史化ヨセフス(YOSEPHUS)によるとこれらの池はPool Amygdalonと呼ばれた。これらはシロアムトンネル工法による.......ヒゼキヤの他の事績,彼の功績のすべて,貯水池と水道を造って都に水を引いたことは,『ユダの王の歴代誌』に記されている。ヒゼキヤは先祖と共に眠りにつき,その子マセナがヒゼキヤに代わって王となった。(列王記Ⅱ第20章20~21節
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 清らかな水は今でも流れる。この泉は壊滅した古代エリコ(Jericho)跡にあり(現在イスラエル西岸管理地区)Elisha's Fountain(エリシャの泉)と呼ばれている。......この町の人々はエリシャのところに来て,「ご覧のように,この町は住むには良いのですが,水が悪く,土地は不毛です。」と訴えた。彼は,『新しい器を持って来て,それに塩を入れなさい。」と命じた。人々が持って来ると,彼は水の源に出かけていって塩を投げ込み,「主はこう言われる。『わたしはこの水を清めた。もはやここから死も不毛も起こらない』と言った。エリシャの告げた言葉の通り,水は清くなって今日に至っている。(列王記Ⅱ第2章19~22節)
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 民は皆,彼の後に従って上り,笛を吹き,大いに喜び祝い,その声で地は裂けた。(列王記Ⅰ第1章40節)
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 ここにあの人の善いシュネム(SHUNAMMITE)の人が住んでいてエリシャもよく訪れた。「見よ,あのシュネムの婦人だ。すぐ走って行って彼女を迎え,『お変わりありませんか,ご主人はお変わりありませんか,お子さんはお変わりありませんか』と挨拶しなさい。」(列王記Ⅱ第4章25~26節)
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全イスラエルの水より良い水?ダマスコ川のあるアバナ(ABANA)。......アラムの王の軍司令官ナアマンは,主君に重んじられ,気に入られていた。主がかつて彼を用いてアラムに勝利を与えられたからです。この人は勇士であったが,重い皮膚病を患っていた。.........イスラエルのどの流れの水よりもダマスコ川のアバナやパルパル(PHARPAR)の方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか。(列王記Ⅱ第5章1,12節)
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 ソロモンはオリーブ材で二体のケルビムを作り,内陣に据えた。その高さは10アンマであった。.........ソロモンは内陣の入り口にオリーブ材の扉を付けた。壁柱と門柱は五角形であった。そのオリーブ材の二枚の扉にもケルビムとなつめやしと花模様を浮き彫りにして,これを金で覆った。ケルビムとなつめやしの上にも金を張った。(列王記Ⅰ第6章23,31,32節)
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ハザエルは贈り物としてダマスコのすべての価値あるものをらくだ40頭に載せて携え,エリシャを迎えに行った。「あなたの子,アラムの王ベン・ハダトがわたしをあなたに遣わしました。この病気が治るかどうかと言っています。」(列王記Ⅱ第8章9節)
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通称イゼベルの塔(TOWER OF JEZEBEL).ここはアハブ(AHAB)が宮殿を持っていた場所で古来からゼリン(Zerin)の村人が給油所として使用していた。......イエフがイズレエルに来たとき,イゼベルはそれを聞いて,目に化粧をし,髪を結い,窓から見下ろしていた。イエフが城門を入ってくると,「主人殺しのジムリ,ご無事でいらっしゃいますか」と言った。(列王記Ⅱ第9章30~31節)
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 BENJAMIN領とみなすべエロト(BEEROTH)の人々。.....このサウルの息子のもとに二人の略奪隊の長がいた。名をバァナとレカブといい,共にベニヤミンの者で,べエロトのリモンの息子であった。べエロトもベニヤミン領と考えられるからである。べエロトの人々はかつてギタイムに逃げ,今日もそこに寄留している.....(サミュエル記Ⅱ第4章2~7節)

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ソロモンの時代イスラエル連合は北に向かいハマス王国(Kingdom of Hamath)まで侵攻した。写真は古代ハマスの現代シリアの町ハマ(HAMA)を流れる川。町の水と灌漑用か?
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 絵:「荒れ野のエリヤ・Elijah in the Wilderness」Frederick Lord Leighton1830-1896(Walker Art Gallery,Liverpool所蔵)。彼自身荒れ野に入り,更に1日の道のりを歩き続けた。彼は一本のえにしだの木の下に来て座り,自分の命が絶えるのを願って言った。「主よ,もう十分です。わたしの命を取ってください。わたしは先祖にまさる者ではありません。」彼はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。「起きて食べよ」見ると,枕もとに焼き石で焼いたパン菓子と水の入った瓶があったので,エリヤはそのパン菓子を食べ,水を飲んで,また横になった。(列王記Ⅰ第19章4~6節)
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 ここはエリヤがホレブ(HOREB)へ向かう途中休止した場所。.....それを聞いたエリヤは恐れ,直ちに逃げた。ユダのべエル・シェバ(Beer-sheba)に来て,自分の従者をそこに残し,彼自身荒れ野に入り,更に一日の道のりを歩き続けた。(列王記Ⅰ第19章3節)
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 ダマスコの門前でらくだに積んだ香料などを降ろすキャラバン隊。そして彼女はエルサレムにやって来た。..........シェバの女王は主の御名によるソロモンの名声を聞き,難問をもって彼を試そうとしてやって来た。彼女は極めて大勢の随員を伴い,香料,非常に多くの金,宝石をらくだに積んでエルサレムに来た。..........彼女は金120キカル,非常に多くの香料,宝石を王に贈ったが,このシェバの女王がソロモン王に贈ったほど多くの香料は二度と入って来なかった。(列王記Ⅰ第10章1,10節)
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絵:Grenville Manton1855-1932。ヤロブアム(jeroboam)の妻は言われたとおりにした。彼女は立ってシロShiloh)へ行き,アヒヤ(注;預言者)の家に着いた。アヒヤは老齢のため目がかすみ,見ることが出来なくなっていたが.............アヒヤは戸口に着いた彼女の足音を聞いて言った。「ヤロブアムの妻よ,入りなさい。なぜそのように変装したのか。わたしはあなたにつらいことを告げるように命じられている。行ってヤロブアムに言いなさい。『イスラエルの神,主はこう言われる。わたしはあなたを民の中から選び出して高め,わが民イスラエルの指導者として.............ヤロブアムの妻は立ち去り,ティルツァに戻った。彼女が家の敷居をまたいだとき,幼いその子は死んだ。イスラエルのすべての人々は主がその僕,預言者アヒヤによって告げられた言葉のとおり,彼を葬り,弔った。(列王記Ⅰ第14章6、17節)
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ティグラト・ピレセル(TIGLATH・PILESER)アッシリア王(後にPulと呼ばれる)。......アッシリアの王プルがその地に攻めて来たとき,メナハム(MENZHEM・King of Israel)は銀一千キカルをプルに貢いだ。........アハズはアッシリアの王ティグラト・ピレセルに使者を遣わして言わせた。「わたしはあなたの僕,あなたの子です。どうか上がって来て,わたしに立ち向かうアラムの王とイスラエルの王の手から,わたしを救い出してください。」アハズはまた主の神殿と王宮の宝物庫にある銀と金を取り出し,アッシリアの王に贈り物として送った。(列王記Ⅱ第15章19節,第16章7,8節)
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背後の山はMt.Carmel(Esdraelon=イゼベル(Jezreel)がはっきり見える。.....エリヤは「バアル・BAALの預言者どもを捕らえよ。一人も逃がしてはならない」と民に命じた。民が彼らを捕らえると,エリヤは彼らをキション川連れて行って殺した。(列王記Ⅰ第18章40節)
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 ベン・ヒノムの谷(VALE OF HINNOM)はかつて屠殺の谷と呼ばれた。......王はベン・ヒノムの谷にあるトフェトを汚し,だれもモレクのために自分の息子,娘に火の中を通らせることのないようにした。(列王記Ⅱ第23章10節)
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エルサレムは石の町である。Masons(メーソン=石工)は絶えずこのような作業をしている。列王記Ⅰ第5章15,18節参照)
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 肥沃なエフライム(Ephraim)の土地の一角を借りて耕したキャベツ,カリフラワー,オリーブなどを市場へ売りに行く農民たち。
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 絵:V.de.Brozik1851-1901.「Death of Ahab」。ところが一人の兵が何気なく弓を引き,イスラエルの王の鎧の胸当てと草摺りの間を射抜いた。王は御者に言った。「手綱を返して敵陣から脱出させてくれ。傷を負ってしまった。』その日,戦いがますます激しくなったため,王はアラム軍を前にして戦車の中で支えられていたが,夕方になって息絶えた。傷口から血が戦車の床に流れ出ていた。(列王記Ⅰ第22章34,35節)
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 このアラブのいたずらっこのような少年が首からさげているTALISMANは不思議な力のあるお守りとしてパレスチナでは一般的である。
彼は神殿の前に二本の柱を作った。高さは35アンマ,頂の柱頭は5アンマであった。また内陣に網目模様の浮き彫りを造り,それを柱頭につけ,100個のざくろを造って,網目模様の浮き彫りにつけた。その柱の聖所の正面の右と左に一本ずつ立て,右の柱をヤキン(Jachin),左の柱をボアズ(Boaz)と名付けた。(歴代誌Ⅱ第3章15~17節)
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 ティルス(TYRE)の王ヒラムとソロモン王に仕えた錬金術師のヒラムとは全くの別人である。上の作品は後者による。「海」は12頭の牛の像の上に据えられていた。3頭は北を向き,3頭は西を向き,3頭は南を向き,3頭は東を向いて,「海」を背負い,牛の後部はすべて内側に向いていた。(列王記Ⅰ第7章25節)
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 ユダの王アサの治世第31年に,オムリ(Omri・紀元前880年ごろ)がイスラエルの王となり,12年間王位にあった。彼は6年間ティルツァで国を治めた後,シェメル(Shemer)からサマリアの山を銀2キカルで買い取り,その山に町を築いた。彼はその築いた町の名を,山の所有者であったシェメルの名にちなんでサマリアと名付けた。(列王記Ⅰ第16章24節)

 写真の中央部に見える山の頂上にはOmriの宮殿とAhabのIvory Houseがある

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ダマスコの門の内側から

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 指差しているのはバビロニア時代のイシュタルの門。
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