アデン
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%87%E3%83%B3
アデン(アラビア語: عدن, ラテン文字転写: ʿAdin/ʿAdan アラビア語南イエメン方言発音: [ˈʕæden, ˈʕædæn])は、イエメン共和国南西部のアデン県にある、アデン湾に面する港湾都市。現在の人口は約59万人で、同国第2の都市である。1990年の南北イエメン統合まではイエメン人民民主共和国(南イエメン)の首都であった。
アデン アラビア
ポール・ニザン 篠田浩一郎訳
四六判 260頁
定価:1,980円(本体1,800円)
4-7949-1235-8 C0398 〔1975年〕
ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい──。この冒頭の一句によって全世界の熱烈な共感をえた青春小説の傑作。砂漠の地アデン、すべての虚飾をはぎとられた人間に見たものは何か。1930年代、ヨーロッパの危機の時代をもっともラディカルに生き、戦争にたおれた鮮烈な青春がここによみがえる。
J'avais vingt ans. Je ne laisserai personne dire que c'est le plus belle âge de la vie.
ポール・ニザン~エマニュエル・トッドは孫にあたる
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B6%E3%83%B3
アシール地方と聖書の世界 その2関連
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/57e9fc319db07ca9ceffa81e01ee1911
紅海沿岸の歴史『サバ王国』
http://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/31255058.html
管理人注:イエメン:捨てられたユダヤ人の村の風景
http://jp.globalvoicesonline.org/2012/11/27/18107/
イエメンに居住するユダヤ人は、古来よりのユダヤ教の教えを伝統的に保持していると言われ、ヘブライ語聖書を朗読する際にも、伝統的なヘブライ語の発音方式を用いているという。ウィキペディアによれば、マジック・カーペット作戦後イスラエルに移住したイエメン系ユダヤ人は、彼らの伝統的な発音方式を守り続けているという。
どのくらいの伝統があるかというと、一般的には紀元6世紀から11世紀頃のバビロニアのユダヤ人のヘブライ語から派生したと言われているが、彼らがこの地にディアスポラを築いたのはもっと以前の話になる。
管理人注:ディアスポラ・預言の終焉
http://web.archive.org/web/20170502052055/http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2096
約束の地
http://web.archive.org/web/20170904201555/http://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2099
イスラエルのための戦争はもう御免だ
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/75b49c0c0c2c4494156ed89abfc366bb
彼らはいったいどこから来たのだろうか ?
1.
旧約聖書によるとソロモンの時代にユダヤ人がアラビア半島地域に移住したとされ、今日のアラビアの地名であるWadi Jauf やWadi Sirhanと同一視される。
2.
“シバの女王の求めに応じてユダヤ人の職人がイエメンに赴いた”という説もあれば、そもそもシバの女王がソロモンを訪れたのは、彼の叡智についてユダヤ人商人を通じて知ったからだとも言われている。乳香などの交易関係がイスラエルの地と南アラビア半島地域に確立されていたのは、聖書の記述からもうかがうことができる。
3.
口伝によれば、ヘロデ王の神殿が破壊される42年前、紀元前722年頃にイスラエル王国の衰亡がはじまった頃にアラビア半島南部への移民がはじまったとされている。伝承によれば大予言者エレミヤに従って、7万5千人のユダヤ人がエルサレムからイエメンに移住したとされている(ウィキペディア参照)。
こうした様々な伝承は大変興味深い。問題はその伝承の信憑性というよりも、ユダヤ人のディアスポラがそこにあった事実だ。そして、オリジナルに近いヘブライ語を継承しているイエメン系ユダヤ人の起源をめぐっては、聖書の記述以外にそれを説明するものはほとんどない。
より科学的な検証によれば、アラビア半島南部に移住したユダヤ人は同一の故郷を持っていたというわけではない。先住民としてそこに住んでいたイエメン系のユダヤ人に加え、古代イスラエル王国、バビロニア、ペルシア、エジプト、シリア、そしてスペインや北アフリカなどからも入植があったようだ。
考古学的に証明できるのは、西暦4世紀のものと思われるユダヤ人の碑文とアラビア半島の各地で発見されたシナゴーグが最古のものとなっている。4世紀半に栄えた後期ヒムヤル王国の時代には、国家として一神教を崇めた時代があったというが、それがユダヤ教であったのかは定かではない。
ヒムヤル王国最後の王(滅びたのは西暦525年)であるDhu Nuwas(Yūsuf ʾAsʾar Yaṯʾar)は、確実にユダヤ教徒であったことが分かっている(他の説ではその前任者であるMa'adikarib II. Ya'furも)。彼が率いた帝国は、最終的にビザンチン帝国を後ろ盾としたキリスト教国家であるエチオピアのアスクム王国によって滅ぼされることになるのだが、それ以前の歴史となると立証できる資料などの数は非常に少ない。
関連記事:ヒムヤル王国からエルサレムまで
https://blog.goo.ne.jp/0345525onodera/e/a39076b60ef4c40c89679e2e68bd735d
ただ、この辺りの事情を調べてみると、自分が見ている方角が逆なのではないかと感じる事もある。
つまり、イエメンのユダヤ人は・・・
すでに文明を築いていたメソポタミア周辺やシリア・カナン地方などから入植してきたのではなく、
元々 そこ にいたのでは?・・・と。
つまり、上記ヘロドトスのフェニキア人に対する記述のように・・・
南アラビア半島こそ、
ユダヤ人の発祥の地ではなかったのかと・・・?
とりあえず、地名学的アプローチ以外の限りある資料の中で、南アラビア半島の歴史を一度みてみよう。
古代 南アラビア半島
南アラビア半島は石器時代からすでに人々が居住していた跡が発見されており、新石器時代にものとしては墳丘墓や巨石記念物も発見されている。青銅器時代となった紀元前2500年頃には2つの文化が、イエメン北部とインド洋沿岸地域に生まれたと推測されている。
紀元前3000年頃だ。アラブ系の伝統ではセム族出身のカターン(Qahtan)と、その息子達24人がアラビア半島南部の人々の祖になったと伝えられている。このカターンはイスラム教初期の時代には、この伝説的なカターンが、旧約聖書のエベルの息子ヨクタンであると考えられていた。
関連記事:聖書アラビア半島起源説 1
http://web.archive.org/web/20190305035915/https://blogs.yahoo.co.jp/alternative_politik/30381907.html
その内、1つのグループはヒムヤドと呼ばれアラビア半島インド洋沿岸地域に都市を築き、他のグループはカーラン(Kahlan)と呼ばれイエメン北部で遊牧を行っていた。カーランの遊牧グループは、紀元前2500年頃にNajraと呼ばれるイエメントとサウジアラビアの境にある砂漠地帯に土手ダムをつくり、マアリブ地域に灌漑が整備したとされている。このカーラン族が後にサバ王国を建国したと考えられている。
サバ王国の興隆
南アラビア半島の古代史において、まず注目されるのはサバ王国だ。旧約聖書においてソロモンを訪ねたという“シバの女王”のシバ王国とサバ王国が同一であるかはまだ立証されていない。
しかしながら、いずれにせよサバ王国は遅くとも紀元前8世紀頃にはイエメン北西地方にサバ人達によって建国されたとみられている。マリブや他の地域において定住した遺跡などが発見されていることから、サバ国の建国を紀元前10世紀頃とみる学者もいる。
建国当初はSirwahに首都をおいていたとされるが、その後、経済的にも文化的にも40キロほど東にあるマアリブ(Ma'rib)が王国の主導権を握るようになった。碑文で確認されるところにおいて、遅くともカリビル1世(Karib'il I.)の治世(紀元前775年頃、もしくは紀元前820年頃)には、サバ王国の首都はマアリブに遷都されていたと考えられる。
Sirwahの遺跡
王国の経済繁栄の基礎となったのは、農業と乳香の取引であり、マアリブによって統制されていた。都市マアリブの周り4、1キロほどが城壁で囲まれていたと考えられ、最盛期には110ヘクタールほどの都市に5万人が暮らしていたとされている。マアリブに住んでいる人々にとっては周辺のオアシスを維持するための水の管理や灌漑施設の建設、増築は最大の関心事であったに違いない。
マアリブの遺跡
歴史的には紀元前1世紀中頃に建設されたマアリブのダムが有名だが、前述の通りマアリブ・ダムの前身となるダムは、すでに紀元前3000年頃からの存在が推測されていて、人口も増えたサバ王国の時代には、それが拡大し、発展した。
スムフアリ・ヤヌフ2世(Sumuhu'ali Yanuf II.)の時代(紀元前528年頃)には、Yitha'amar Bayyin II.の時代(紀元前510年頃)には、ダムは大幅に拡張され全長680メートル、高さ20メートルにもなり、9600ヘクタール、縦21キロ、横8キロのオアシスを潤していたとされる。
都市マアリブの中には数多くの神殿が建設されており、多神教であっと考えられるが、国家の主神としては、Awwam神殿に祀られていた月の神Almaqahであると考えられている。
Awwam神殿
サバ王国の主神が月の神Almaqahであったということは覚えておきたい。彼の添い名は『主の地の牡牛』であり、象徴は牡牛であり、またメイス(棍棒)でもあった。首都マアリブ以外にも、NaschqやSirwahなどにも彼を祀る神殿が建てられた。
また、月の神はサバ人元来信仰していた他の太陽や金星の神とも結び付いており、月の神が最も重要であったと考えられるものの、祈り、神への呼びかけの際にはアッタル(Athtar:金星の女神)が最初に呼びかけられていた(アッタルはもちろんバビロニアのイシュタルやカナンのアシュタルテに対応する女神だ)
サバ王国についての最古の記録は、ユーフラテス沿岸の町ハディーサで発見されたメモ書きのような碑文で、紀元前8世紀頃にシュフとマリの行政官がアブ・ケルマール付近でサバとタイーマから来たキャラバン隊を襲ったというものだ。
紀元前715年には、サバ王国の支配者であるイタムラ王(Itamra)、紀元前685年にはカリビル王(Karibilu)がアッシリア(新アッシリア時代)に対して朝貢したとの記録がある。
ただし、サバ王国側の資料からはこの2人がどの王にあたるのかは立証できていないが、アッシリア資料のイタムラ王(Itamra)はサバ王国王名表のイタマール・ワタール1世(Yitha'amar Watar I)、カリビル王(Karibilu)はカリビル・ワタール1世(Karib'il Watar I)だったと推測されている。Yitha'amar Watar I.の頃、アッシリアではちょうどサルゴン2世の治世で全盛期にあった。
なぜ・・・
南アラビア半島に栄えていたサバ王国は
アッシリアに朝貢したのだろうか?
本来、新アッシリア帝国時代の地図は以下の様に紹介されている。
南アラビア半島は完全に忘れさられている,
だが・・・
碑文にも残っているのに、なぜ、学者には無視されるのだろうか?
そして約束の地は今......
0345525onodera さんが 2022年11月25日 に書かれた記事をお届けします。 | ||||||||||||||||||||||||
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