さらに本質を言えば、法華経に対する不信・謗法とは、元品の無明の生命の発動です。万人の中に仏の生命があり、それを開くことによって、その身そのままで仏になれるという十界互具の成仏を信じ切れず、それどころか、万人の仏性を開く行動を続ける法華経の行者を嫉み、憎み、敵視し、軽蔑するのが、無明の生命の本質です。
その意味で、最大の悪業である謗法を見つめることは、生命における悪の根源である無明の生命を深くとらえ直すことに通じます。根源の悪を洞察し、その悪をもたらす元凶の因を断ち切ることによって、宿命転換の道を開いていくのが、日蓮仏法です。
これは、老苦・死苦の根底に無明を発見し、無明を滅することによって苦を消滅させることができるとする釈尊の縁起観にも通ずる、仏教正統の思想であります。
しかし、日本に伝わってきた仏教における通常の罪障消滅観は、般泥洹経の”八種の苦報”に見られたように、過去の悪業の果報を現世で一つ一つ受けて消していくという受動的な因果の考え方です。これを大聖人は、「常の因果」と表現されました。
しかし、大聖人の仏法における宿命転換は、この「常の因果」によるのではありません。
今、述べたように、悪業の根本因は妙法への不信・謗法です。この不信・謗法を打ち破る修行を因とし、妙法の太陽が胸中に現れて仏界が涌現することを果とする因果、つまり「成仏の因果」なのです。
妙法を根幹とした根源の成仏の因果は、あらゆる悪の因果を打ち破り、また、すべての部分的な善の因果を包み込む、いわば「大いなる因果」ともいうべき因果です。
転重軽受・罪障消滅・宿業転換
この「大いなる因果」による、日蓮仏法の宿命転換の原理には、より委細に見れば、「転重軽受」「罪障消滅」「宿業転換」の三つの側面があると言えます。
「転重軽受」とは、重きを転じて軽く受く、すなわち、過去世の重い罪業によって長く受けるはずの重い苦の報いを転じて軽く受けて消していけることです。これは、受ける苦報の軽重に焦点を当てて宿命転換を表現した法理です。
「罪障消滅」とは、過去世の重い罪業の影響力そのものを消滅させることです。
「宿業転換」とは、過去世の謗法の重罪による悪から悪への果てしない流転そのものを、善から善への流転に転換していくこと、と言えるでしょう。いわば、三世の生命という大きな次元での”コース転換”と言えるものです。
この宿命転換の三つの面をすべて含んだ御文が、次の「転重軽受法門」の一節です
「涅槃経に転重軽受と申す法門あり、先業の重き今生につきずして未来に地獄の苦を受くべきが今生にかかる重苦に値い候へば地獄の苦みぱつときへて死に候へば人天・三乗・一乗の益をうる事の候」
涅槃経に、「転重軽受」という法門がある。過去世でつくった罪業が重くて、今の一生では消し尽くせず、未来世に地獄の苦しみを受けなければならないはずであったものが、今の一生に、おいてこのような重い苦しみ(大聖人のように謗法を責めることによて受ける大難)に遭えば、地獄の苦しみがパッと消えて、死んだ後には、人・天、声聞・縁覚・菩薩の境涯、そして一仏乗という成仏の利益が得られるということである。
ここで「地獄の苦しみパッときへて」と仰せです。「開目抄」でも、「重罪をけしはてて」と仰せられています。「消し尽くす」のです。これらは「罪障消滅」の面を表していると拝することができます。
譬えて言えば、朝、太陽が昇れば、夜中にきらめいていた星の輝きは太陽の光に包まれて、直ちに地上の私たちが肉眼で見ることができなくなります。
同じように、謗法を打ち破る深い信によって妙法の太陽が胸中に赫々と昇れば、私たちの生命には仏界が涌現します。すると、これまで私たちを苦しめていた地獄の苦しみも、直ちに消えるのです。まさに、晴れやかな大晴天の輝きの前に、一切の重罪は消え果てていくのです。
宿業の苦しみは断じて消える!
不幸の闇を払い、勝利の太陽が昇る!
これが日蓮大聖人の大確信であられます。まさに、宿命転換の仏法とは、希望の宗教であり、幸福革命の宗教の異名にほかなりません。
また、これまでの悪から悪への六道輪廻をとどめて、生々世々、人界・天界・声聞界・縁覚界・菩薩界そして仏界の利益を得ていけると仰せです。つまり、今世の転換を起点にして、善から善への流転に入ることができるのです。これは「宿業転換」の面と言うことができるでしょう。
そして、謗法を責める戦いで、果てしなく続くはずの重苦を転じて、今世でとどめることが「転重軽受」です。