2017.3.16桶狭間の戦いの鳴海方面の史跡をまわりました。
丹下砦→鳴海城→善照寺砦→中島砦と歩きました。
丹下砦跡
緑区鳴海町字丹下
光明寺
お寺の住職さんのお話ですとお寺の裏に跡地との立札があったそうですが今は無いそうです
しかし代々の言い伝えでお寺の入口の石垣はその時代からのものだとのことでず。
鳴海城の付城 (城を包囲する)
東西46間(84m)南北43間(78m)の広さで 水野帯刀(忠光・忠広)・山口海老之丞(広憲・守孝・盛隆)・柘植玄蕃頭(友顕)・真木与十郎・真木宗十郎・伴十左衛門尉が兵340人で守っていました。
1560年(永禄3年) 織田信長は午前4時ごろ清須城から兵を増やしながら午前10時半ごろ3000人で丹下砦入る、その後善照寺砦に向かう
↓丹下町常夜灯(西の常夜灯)1806年(文化3年)鳴海宿の入口を示す
↓光明寺(光明禅寺)右側の石垣が砦跡を示しています。
↓鳴海で有名な山田餅店
鳴海城跡
鳴海城跡公園
↓鳴海城跡 (天神社)
緑区鳴海町城・根古屋
東西75間(約136m)南北34間(62m)
桶狭間の戦い当時は今川軍の武将 岡部五郎兵衛元信が800人で守っていました、南側は船着き場があったようで大高城方面から船で物資が入ってました。
↓鳴海の中心地 本町
↓善照寺砦跡 (現在の砦公園)
緑区鳴海町砦 (鳴海城の付城)
東西33間(60m)南北20間(36m)
佐久間右衛門尉(信盛)・佐久間左京助(新盛・信辰)450名で守っていました。
織田信長は3000名を率いて午前10時ごろ入って1000名残して2000名で中島砦に移動する。
↓中島砦跡
緑区鳴海町下中
長さ80間(約145m)幅50間(約91m)
梶川平左衛門(重実・正継)が250名で守っています。
織田信長は12時ごろ2000名を率いて桶狭間に向かう。
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