gooブログはじめました!

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

京の松茸 は牛や馬も食わないほど豊作だった。嵯峨天皇 の「旨い!」の一言で 松茸 の大ブームになった

2022-09-23 08:54:04 | 日記
京の松茸 は牛や馬も食わないほど豊作だった。嵯峨天皇の「旨い!」の一言で松茸の大ブームになった。形のいい松茸こそ不作の原因 伏見稲荷大社の物語 61話

 京の都は三方を山で囲まれているが、なぜか?、東山には松茸の採れる山はなかった。ところが北山の松ヶ崎、宝ヶ池、衣笠山、御室、嵯峨、それに西山の嵐山、松尾山~山崎には松茸が豊富に採れていた。しかし、当時は松茸そのものはそんなに珍しくもなくそれに牛や馬の家畜もそんなに喜んで食べなかった。それ故市場にも出回らなかった。

 ところが嵯峨天皇が小麦の衣で揚げた「袈裟揚げ」(江戸時代から、天ぷら)が美味いという言葉が独り歩きして庶民も松茸を食べ始めた。この松茸を採るのは山裾に住んでいる農民だけだった、このころは質より量で松茸の傘がころよく広がったころが収穫の時期になる。大きな傘は直径30センチを超えるが、これを適当に裂いてそれを焼いて塩を付けて食べるのが主流だった。

 その袈裟揚げの衣にする小麦のほうが松茸より高くなっていた。それより少し前に最澄、空海も参加した第18回遣唐使が持ち帰った唐の「醤油」というのを稲荷大学の学生が研究して日本初の国産醤油ができたと稲荷神社三代目宮司の伊蔵(いくら)が嵯峨天皇に持ってきた。伊蔵は、
「これは大豆を発酵させた調味料になります。これを数倍に薄めれば塩とはまた違う風味になります。また味噌の大量製造も同じ工程になります」
「ほう、これが醤油か?前の遣唐使が持ち帰った「魚醤」とはどう違う?」
「あれは魚を発酵させたもので日本人の口には合いませんでした」
「そか、この醤油を使った食べ物はあるのか?」
「はい、北海道から献上された昆布というのがありますが、これと豊富に採れる松茸とを煮たものがこれです」

 伊蔵が天皇にお出ししたものは今でいう「松茸塩昆布」だった。天皇は一口食べて、
「ほう、これは昆布が柔らかく松茸に合うの~それに匂いもいい」
「はい、これは何年も保存ができ栄養価も高いものです」
「しかし、その大豆は大量生産はできるのか?」
「はい、この大豆は連作を嫌うので農民もそんなに喜びませんが、天皇が「醤油は旨い!」と一言いってもらえばそれが火付けになって醤油の大ブームになります」

 この当時は歌舞伎もまだなく庶民の憧れのスターは派手な演出で雨を降らした空海、それに稲荷神社の祈祷師の伊蔵、写本で有名な紫式部、そして禁裏のトップスターの嵯峨天皇だけだった。実際にこの天皇の一言で京の都の大豆は高騰して米一辺倒だった農家も大豆を作るようになった。そうなると醤油はもちろん味噌の生産の工場までできて農民でもない商人、職、工人でもない一般労働者というのが誕生していた。つまり、家内工業から大量生産製造工場へとなった。

 こうなると工場で働く人の人手不足になるが、これは民間企業で農民を労役として狩りだすわけにはいかない。そこで各地から都に流れてきたいわゆる「無戸籍者」の就職先としての受け皿にもなった。この醤油工場と味噌工場の敷地内に労働者用の長屋の建設を天皇が認めたことで住所が確定して各無戸籍者から立派な都の住人として家族ともども約450名が登録されていた。

 そこで天皇は再び無戸籍者の集団が住みつかないように平安騎馬隊に無戸籍者らしき者を見つけたらただちに確保することを命じていた。これは確保して罪にするということではなく一定期間は収容して仕事を斡旋するというものだった。つまり、犯罪予備軍を事前にキャッチするという作戦になる。このことが大成功して京の都は世界の中でも都会の犯罪発生率の少なさではトップになっていた。

 もちろんこのアイデアは伊蔵発だったので天皇は酒を飲みながら伊蔵に、
「またお主の祈祷(アイデア)が成功して真夜中でも女子が一人で歩ける安心か?、こんどは貴族の女性が好きな男に夜這いをかけているという。そもそも、平和になるのはいいが、お主の政策はなぜか?最後には風紀が乱れる」
「いえいえ、火付けに強盗、それに内乱も外乱もない世の中なんてものはそんなに長続きはしません。これから戦乱の世になる前のひと時の休息だとすれば少々の風紀の乱れは許せます。その風紀の乱れはリトマス試験紙にもなります。内乱の前には風紀の乱れもなくなりますからそのほうが怖いのです」
「そか、それにしてもこの太くて形のいい松茸は歯ごたえも香りも最高にいい」
「ささ、その形のいい松茸はまだ蕾で傘を開いて胞子をまき散らしてはいません。そうなると来年には不作になります」
「そか、松茸も風紀の乱れがなかったら豊作にはならないのか」

 一方で天皇が「松茸は旨い!」という一言から都中の人々がピクニック、または山歩き気分で北山、西山の山へ松茸狩りに押し寄せていた。しかし、人々は我先にと松茸を見つけ、それもまだ傘が開いていない蕾の状態で傘から胞子が飛び散らないうちに採取したのでその山の次の年の松茸はほとんどできなかった。農民が質より量として傘を開くのを待って収穫していたことが、松茸の豊作につながっていたことになる。

★…私が幼稚園のころでも松茸はそんなに高いものではなくて松尾の親戚やら長岡の親戚から松茸の季節になると届いていた。やはりこれも傘の開いたもので焼いたり塩昆布に祖母が料理していたことを覚えています。その幼稚園の弁当にこの焼いた松茸が一面に並べてあったが、そんな松茸より卵焼きのほうが高価な時代だった。






最新の画像もっと見る

コメントを投稿