お賽銭や願いことのお礼は願いが叶った後の後払いになるというのが千本鳥居のルーツになる。千本鳥居の1本目 伏見稲荷大社の物語 66話
平安時代の初期はまだまだ貨幣が十分流通していなかったので物々交換が市場の原則だった。稲荷神社もお賽銭の箱はあるが、これはほとんど利用されなくて信者達は米や野菜、それに海産物、絹糸、絹織物などをお供えとしていた。ただこれらは重くて持ち運びに不便になるので願をかける、または祈祷やお祓いを受ける時には持参してこなかった。
まあいわば無料で先に神様にお願いしてもしそれが叶ったらその時には大八車にお礼のお供え物を持ち込むか、日本通運にお願いして輸送するかの手段が一般的になる。つまり、神様としてはこれらのお願いごとに応えなければその分、神社へのお供えが減るという真剣勝負にもなる。しかし、これがもしお供えの前払いだったら神様も手を抜くし、また忘れることもある。
人の世界というのは悩みが途切れないから一つのお願いが叶ってもまた次の悩みや相談事ができるもので先のお願いのお礼として米を一升~一俵お供えしてた上で次の悩みや願いことを神職に相談していた。この悩みを聞く神職は10名ほどいるが、やはり一番人気は稲荷神社三代目の宮司の伊蔵になる。ただこの宮司の占いや祈祷はすべて予約制でもう2年先まで予約でいっぱいだった。
今日の伊蔵の予約者は塩問屋で豪商の「播磨屋」だった、この播磨屋は伊蔵に、
「都の塩の需要は毎年倍々ゲームで増えています。ところが赤穂から船で大阪湾の淀川河口、ここで三十石船に積み替えて淀川を上がり淀の港に着きます。そこから京街道(鳥羽街道)を牛貨車、または大八車で東市まで運ぶのですが、これが高くつき塩の値段が下がりません」
「そうか~最近、野菜の保存食として「京つけもの」が大流行だが、これには安い塩が大量に必要になる」
「はい、それで東市(朱雀大路松原付近)から撤退して油小路(油の問屋街)のような塩小路を淀に近いところに作れば便利になります」
「しかし、播磨屋は卸問屋だからそれでいいが、今度は塩の小売店が淀まで塩を取りにいかねばならない」
「そうですね~そこでどの場所がいいのか占ってほしいのです」
伊蔵はこれを占っていた、そして結果を、
「それなら淀港からまた船に積み替えて鴨川を上がってくればいい」
「しかし、鴨川は水量がそんなになく船の底が…」
「そう、だが、この水量に合わせて船底を平らにすればいいことになる」
「な、なるほど発想の転換ですね…」
「そう、船着き場は七条辺りの鴨川右岸にしてその船着き場を塩小路とすれば洛中の塩小売商も近くで便利になる」
「つまり、塩を降ろしたその場所が塩問屋街になるのか…」
「それに帰りの船には「京つけもの」や「酒、味噌、醤油」を積んで浪速の国などにも売れる」
この船は底が平らで十石ほど積めることから塩10石船(約1500キロ、後に高瀬舟)と呼ばれていた。この船は川船仕様の簡単で底が平らということで安価、なおかつ大量に造船できる。播磨屋は伊蔵にお礼は何がいいかと尋ねている。
「そうだな~もし播磨屋さんがこれで儲かれば鳥居を一つ寄進してほしい」
「はっ?鳥居でいいのですか?」
「そうだ、商売繁盛の願いが叶った場合には鳥居を一つ寄進していただけたら、それが1000年後にはこの稲荷山のすべてに鳥居が建つことにになる」
こうして千本鳥居の1本目が建つことになった。この話を聞いた嵯峨天皇は伊蔵に、
「ほう、わずかな水量の川でも荷物が運べるとは伊蔵も頭がいいのう~」
「いえいえ…ただこの船を鴨川に沿って上流まで運河(高瀬川)を作れば宮中まで直接船が入れます」
「ほう、ではその運河の近くに酒や味噌、醤油の工場を作れば画期的な流通になる」
「はい、それは今後の事として考えてみます」
京に都が遷都されたころは都で消費される食料や酒、絹織物や日用品まですべて他国からの輸入に頼っていたが、わずか遷都から26年で洛中には工場ができて今度は各地に物資を輸出するという発展国になった。そこで淀港までの陸運からこの高瀬舟になり鴨川から淀川、そして大阪湾から全国に物資が運ばれるようになった。これで儲けた商人はお礼にと稲荷山に鳥居を寄進したというお話しでした。ちなみにこの千本鳥居の数は私と娘との調査では山の中腹の四つ辻までは798本、全体では約2万6千本と推定しています。
画像は若き頃の凛ひとえさん、音川伊奈利。この小説は98話まで書けています🦊⛩️
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