これは至って普通なのに、2011年3月11日が東日本大震災の日だから、3月11日が誕生日の人が祝っても良いものかと頭を悩ませる事態に。
今は
となっている。
あの当時を振り返る。
岐阜県は地震の影響はなかった。
いつものように夕飯の支度をしてから
午後三時過ぎに仕事へ出かける。
テレビを昼寝予防でつけっぱなしにしていたら、被災映像が流れた。
出かける時間だった為、詳細が分からないまま出勤、会社の手前の交差点で信号待ちで見た夕日が綺麗すぎて普段と変わらない日常風景と被災地の惨状とのギャップに、異世界に紛れ込んだ感があった。
被災地の被害が尋常ではない程、情報が遅れがち。
出勤した時と帰宅後の情報が同じ。
それどころか数日、一緒。
少し更新したかと思えば同じ情報の繰り返しだった。
あと日本海側や太平洋側も押し寄せた被害も海なし県の岐阜では被害は出なかった。
でも東日本大震災への募金箱設置は早かった。いつものスーパーやコンビニだけではなく、道の駅の野菜売り場、百均のお店、至る所にあり、市役所や図書館にもあった。
普段から私はお釣り募金をしているが、だいたい一桁か奮発して10円だったが、東日本大震災の時は奮発して100円玉を募金した。
スーパーの品薄はそれほど深刻ではなく
牛乳や納豆、ヨーグルトが無くなった位、一部買い占められたのか?トイレットペーパーやカップ麺が無くなった。
もしかしたら被災された親族へ送った分もあるのだろう。
世界的疫病でトイレットペーパー買い占めでほぼ1ヶ月以上手に入らなかったが
東日本大震災の時の補給はスムーズだった。西日本が機能していたからだ。
被災地も頑張った。
被災してない人も応援頑張ったんだよ。
そんな思い出話でした。
最後迄読んで頂きありがとうございます