この間までの書き方で、私の言いたいことが伝わる人と、あれでは意味がどうも伝わっていない人があるようなので、今回は、また違う表現で述べてみることにしました。
私の気が付いてきたのは、主に2点あります。
一つは、それが相手の気持ちなのか、
それとも自分の中で覚えている、そういう感覚であるのか、
それらの二つの違いについて、
これをキチンと区別した上で認めるのが、
なぜだか非常に下手クソな人がいるようなのです。
もう一つは、人というものは意識で考えるだけじゃなくて、
意識以外のものが、人の行動を大きく左右してくる訳なのですが。
これについて、自分が汲めているのかどうか、
そこをついつい忘れてしまっているので、
自分のやろうとしていることが、たいへんチグハグしている。
そういうことがあります。
それらを自分の記憶にある子供時代の体験を書きながら、
説明していこうと思います。
私には丸2歳年下の妹がいます。そのことと、
後年、私が陥ってしまった状況と深い繋がりがあります。
たまたま私の母が、
先で述べたような2つの問題を顕著な状態で抱えていたせいなのか、
知らずしらず、私に対して行っていたことが、
やがて私が困りごとに直面する背景にあったらしいのです。
もちろん悪意でも故意でもないのは、今の私は十分に理解しています。
誰が悪いとか、何のせいでとか、そういう犯人捜しをする気は毛頭ないです。
ただ気が付かないで、うっかり人というのは、そういうこともするので、
今そうなりかけている方へ、お伝えしたい気持ちが湧いてきます。
これについては同じように家族会へ行っても、
そこで親御さんたちの言葉から拾うことができますが。
例えば、子供の身体の健康を気遣うから、
心配のあまりに、ついつい声を掛けてみるときも、
それが起きていますが。
心配といえば、心配だし、
親心といえば、まさにそうではある。
だから人は、そこに何があるか、見落としてしまうのですが。
これは私の妻の母親も似通ったことをします。
私の妻には姉が一人います。
この人は、還暦を迎えるような年齢になっていますが、
そのひとの老いた母親は、小さい子供に対して言うような声掛けをする。
また気遣うことでも、そういう気持ちで思っていたりします。
要は、良い大人に対して、非常にお節介なことをする訳なのです。
そこを少し細分して切り分けてみるならばです。
これは相手がしていることですから、
その相手の判断で、それらの人が自分の行動を選んで、
それを自分で実行している。そういうことなのですよ。
だから、傍で見ている人間が心に浮かべることと、
その相手が行うことには、当然のこと隔たりがあるし、
自分だったら、そう考えるし、だから、そんなことはしない。
でも、その相手というのは自分と違う人間ですから、
その相手なりに思ったこと考えたことで、そうしているのです。
つまり行動の主体というのは、相手のことですよね。
それを見ていて何か思ったというのは他でもない、
傍で見ている自分の方な訳ですよ。
だからこれは、別個の人間の中で起きていますしね。
それをゴチャマゼにして、自分がこう思うのに、
どうして相手は、そんなことをするのだろう、を言い出したとて、
センナイ話はオビタダシイ。でしょ?
だけども、それらの人は、どうしたものだか、そういう時、
自分ならしないことを、相手がするのを、見逃せない。
だから、声を掛けたり、自分の思いで仕向けさせたりです。
これを、ついついしていますが。
それはまるで、知らずしらずに相手をハイジャックしている、
とでも言いたくなる状況が、そこでは繰り広げられます。
それがあまりに厳しいとどうなっていくか・・・・。
これは、そういう話でもあるのです。
また2つ目にあげた理屈や考えと違う部分を、
われわれ人間は持っているという側面を、
キチンと理解をしているかどうか、ということについてですが。
誰しも気分や気持ちというのは自然に湧いてきて、
それを感覚しているのですが、
私には、こういうことがありました。
小さいときに、あったことです。
誕生日にしろ、クリスマスにしろ。
親からプレゼントをもらったりして嬉しかった思い出を、
子供のころの記憶に持っている方は大勢いることでしょうね。
私の親も同じようなことをしていました。
ただ少し自分の場合に違っていたのは、
私は何々が欲しいから、それを買ってくれとは言えませんでした。
そういう時に私が考えたのは、
自分は何が欲しいと言わないといけないのか、
そういう何かの設問に対する、正しい回答の選び方のような、
そういう探し方で決めようとしていました。
つまり何が欲しいか、気持ちに湧いてくる思いよりも、
期待される答えを述べられるかどうか、というのが、
私の心を占めていましたからね。
というよりも、もしかして本当に欲しいものを伝えると、
それは後になって落胆をしないといけない、
そういう事柄が私には常にありましたからねえ。
これもまた、そうなってしまった理由の一部なのでしょうが。
先に自分の同胞のことを書きました。
下の子というのは、上の子が持っている物を、
自分も欲しい、お兄ちゃんだけズルいみたいにワガママな主張をしたりする。
そういう時に、まず母が考えたのは、公平性とか、均等であるかどうか、
そういった部分なんですよ。
兄弟で不公平があってはいけない。
それが金科玉条みたいなね、でも極めて表面的な場当たり的な内容で、
そこの部分を重んじようとしていましたからね。
妹が欲しいといえば、分けてやりなさい、また今度それを買ってあげるから。
でも、あとで買ってもらったことは、一度もありませんでしたし。
売っているものではない品物だった場合も、同じようにさせられました。
要は、妹は泣いて怒るので、これを避けるために、
私には聞き分け良くさせる、という押し付けをしていたのでした。
しかも、また違う背景がこれには絡んでいたのです。
妹を泣かせてしまったような場合、
私は物心がつく前から、叱られて叩かれていました。
言いつけを頭で理解ができる年齢でないのに、
物事の道理を言われ、タシナメラレテきた私です。
自然にそういった流れに沿って、母は、この私と妹については、
接してくるということを続けていました。
これは私だけではなくて、同じような病気障害の人で、
次のような心境になってしまっている場合がよくあります。
それは、その他多くの病気じゃない人の場合、
したい事・したくない事と、
やろうとする事と・やりたい事の、
それらの間に、それほど酷い隔たりは、きっとないだろうと思いますが。
病気の人間には、
自分のしたいことは、イコールしてはイケナイことで。
逆に、やらなきゃならないのは、自分が遣りたくないこと。
それが行動規範に完全に取り入れきった状態になっている人というのを、
よく見掛けます。
禁欲的というか、ストイックな人物に見えるけど、実は違うのです。
私の気が付いてきたのは、主に2点あります。
一つは、それが相手の気持ちなのか、
それとも自分の中で覚えている、そういう感覚であるのか、
それらの二つの違いについて、
これをキチンと区別した上で認めるのが、
なぜだか非常に下手クソな人がいるようなのです。
もう一つは、人というものは意識で考えるだけじゃなくて、
意識以外のものが、人の行動を大きく左右してくる訳なのですが。
これについて、自分が汲めているのかどうか、
そこをついつい忘れてしまっているので、
自分のやろうとしていることが、たいへんチグハグしている。
そういうことがあります。
それらを自分の記憶にある子供時代の体験を書きながら、
説明していこうと思います。
私には丸2歳年下の妹がいます。そのことと、
後年、私が陥ってしまった状況と深い繋がりがあります。
たまたま私の母が、
先で述べたような2つの問題を顕著な状態で抱えていたせいなのか、
知らずしらず、私に対して行っていたことが、
やがて私が困りごとに直面する背景にあったらしいのです。
もちろん悪意でも故意でもないのは、今の私は十分に理解しています。
誰が悪いとか、何のせいでとか、そういう犯人捜しをする気は毛頭ないです。
ただ気が付かないで、うっかり人というのは、そういうこともするので、
今そうなりかけている方へ、お伝えしたい気持ちが湧いてきます。
これについては同じように家族会へ行っても、
そこで親御さんたちの言葉から拾うことができますが。
例えば、子供の身体の健康を気遣うから、
心配のあまりに、ついつい声を掛けてみるときも、
それが起きていますが。
心配といえば、心配だし、
親心といえば、まさにそうではある。
だから人は、そこに何があるか、見落としてしまうのですが。
これは私の妻の母親も似通ったことをします。
私の妻には姉が一人います。
この人は、還暦を迎えるような年齢になっていますが、
そのひとの老いた母親は、小さい子供に対して言うような声掛けをする。
また気遣うことでも、そういう気持ちで思っていたりします。
要は、良い大人に対して、非常にお節介なことをする訳なのです。
そこを少し細分して切り分けてみるならばです。
これは相手がしていることですから、
その相手の判断で、それらの人が自分の行動を選んで、
それを自分で実行している。そういうことなのですよ。
だから、傍で見ている人間が心に浮かべることと、
その相手が行うことには、当然のこと隔たりがあるし、
自分だったら、そう考えるし、だから、そんなことはしない。
でも、その相手というのは自分と違う人間ですから、
その相手なりに思ったこと考えたことで、そうしているのです。
つまり行動の主体というのは、相手のことですよね。
それを見ていて何か思ったというのは他でもない、
傍で見ている自分の方な訳ですよ。
だからこれは、別個の人間の中で起きていますしね。
それをゴチャマゼにして、自分がこう思うのに、
どうして相手は、そんなことをするのだろう、を言い出したとて、
センナイ話はオビタダシイ。でしょ?
だけども、それらの人は、どうしたものだか、そういう時、
自分ならしないことを、相手がするのを、見逃せない。
だから、声を掛けたり、自分の思いで仕向けさせたりです。
これを、ついついしていますが。
それはまるで、知らずしらずに相手をハイジャックしている、
とでも言いたくなる状況が、そこでは繰り広げられます。
それがあまりに厳しいとどうなっていくか・・・・。
これは、そういう話でもあるのです。
また2つ目にあげた理屈や考えと違う部分を、
われわれ人間は持っているという側面を、
キチンと理解をしているかどうか、ということについてですが。
誰しも気分や気持ちというのは自然に湧いてきて、
それを感覚しているのですが、
私には、こういうことがありました。
小さいときに、あったことです。
誕生日にしろ、クリスマスにしろ。
親からプレゼントをもらったりして嬉しかった思い出を、
子供のころの記憶に持っている方は大勢いることでしょうね。
私の親も同じようなことをしていました。
ただ少し自分の場合に違っていたのは、
私は何々が欲しいから、それを買ってくれとは言えませんでした。
そういう時に私が考えたのは、
自分は何が欲しいと言わないといけないのか、
そういう何かの設問に対する、正しい回答の選び方のような、
そういう探し方で決めようとしていました。
つまり何が欲しいか、気持ちに湧いてくる思いよりも、
期待される答えを述べられるかどうか、というのが、
私の心を占めていましたからね。
というよりも、もしかして本当に欲しいものを伝えると、
それは後になって落胆をしないといけない、
そういう事柄が私には常にありましたからねえ。
これもまた、そうなってしまった理由の一部なのでしょうが。
先に自分の同胞のことを書きました。
下の子というのは、上の子が持っている物を、
自分も欲しい、お兄ちゃんだけズルいみたいにワガママな主張をしたりする。
そういう時に、まず母が考えたのは、公平性とか、均等であるかどうか、
そういった部分なんですよ。
兄弟で不公平があってはいけない。
それが金科玉条みたいなね、でも極めて表面的な場当たり的な内容で、
そこの部分を重んじようとしていましたからね。
妹が欲しいといえば、分けてやりなさい、また今度それを買ってあげるから。
でも、あとで買ってもらったことは、一度もありませんでしたし。
売っているものではない品物だった場合も、同じようにさせられました。
要は、妹は泣いて怒るので、これを避けるために、
私には聞き分け良くさせる、という押し付けをしていたのでした。
しかも、また違う背景がこれには絡んでいたのです。
妹を泣かせてしまったような場合、
私は物心がつく前から、叱られて叩かれていました。
言いつけを頭で理解ができる年齢でないのに、
物事の道理を言われ、タシナメラレテきた私です。
自然にそういった流れに沿って、母は、この私と妹については、
接してくるということを続けていました。
これは私だけではなくて、同じような病気障害の人で、
次のような心境になってしまっている場合がよくあります。
それは、その他多くの病気じゃない人の場合、
したい事・したくない事と、
やろうとする事と・やりたい事の、
それらの間に、それほど酷い隔たりは、きっとないだろうと思いますが。
病気の人間には、
自分のしたいことは、イコールしてはイケナイことで。
逆に、やらなきゃならないのは、自分が遣りたくないこと。
それが行動規範に完全に取り入れきった状態になっている人というのを、
よく見掛けます。
禁欲的というか、ストイックな人物に見えるけど、実は違うのです。
引きこもりの人で、それに陥ってる場合もあったりします。
それらの人々は、出たくないから出ないというより、
出てはいけないというのを自分に課すようになった果てに、
外に自由に出ないのは、自分にも苦痛に感じてるのに、
我慢をしてまで、出ない状態を頑張って続けていることが起こる。
妙といえば、確かに不可解ですが、これもそれが理由なのです。
そういうしたいことと、したくないことが不自然な組み立てだから。
そういう選び方に拘り続けていますし。
「やりたくないからこそ、しなくてはイケマセン」を、
周囲から強いられてきて、自分から取り入れざるを得なかった、
そこの原則が、いつまでも、これを強化をし続けていますから。
それらの場合も、自分というものをハイジャックされてきたから、
ハイジャック犯の意向には逆らえないパイロットと同じくで、
自分の意思選択と、これに基づく行動であるはずのところを、
自分と別個の人間から、過剰な感情移入をされてしまい、
それらの場合も、自分というものをハイジャックされてきたから、
ハイジャック犯の意向には逆らえないパイロットと同じくで、
自分の意思選択と、これに基づく行動であるはずのところを、
自分と別個の人間から、過剰な感情移入をされてしまい、
その相手から、
それは、これこれこういう内容の問題だから、
あなたは、この場合に、何をどう感じて、
どうのように行動するかというのは、
私が言うように、これこれしかじかでこうなのです。
まあ、こんな執拗な決めつけで、人に接し続けていると、
その人はやがて、どういう風になっていくか・・・・。
そういうのが、病気と呼んでいる状態が示す内容なのです。
あなたは、この場合に、何をどう感じて、
どうのように行動するかというのは、
私が言うように、これこれしかじかでこうなのです。
まあ、こんな執拗な決めつけで、人に接し続けていると、
その人はやがて、どういう風になっていくか・・・・。
そういうのが、病気と呼んでいる状態が示す内容なのです。
だから理解不可能どころか、
これはもうどう考えても、無理もない現象へと、
それらの人々は追い込まれていますから。
だから、「お前らはクスリを飲んでいろ」と、された場合にですよ。
だから、「お前らはクスリを飲んでいろ」と、された場合にですよ。
何の意味合いで従うのかを、少しは考えてほしいものです。
そういう仕打ちに加担していると禍根を残すことでしょうね、実際。
さてさて、
最初にあげたように2つの部分から述べるのも可能だけど。
全体として、これらをまとめるとしたら、
それは次のようになるかと考えます。
人間は、各々で考えたり感じたりは、それぞれ個々の人の中で生じています。
しかも、見えるようで、見えないのが、その人の考えや思いです。
仮に相手が2才だろうが、いや新生児だって、
こっちが考えるように考えていないし、
傍目が感じるようには感じていないですから。
こうかな、ああかな、というのは、
どこまで行っても、永久に平行線な「類推」なのですよ。
的外れで、アテズッポウで、勘違いしかしていないし。
だからこそ、常々、これは心しておかないと、
そのズレが将来どうなっていくかが、非常にヤバい。
あたかも目で見えたから、それは「コレコレ」なんだな。
それは「自分のマナコ」に映すから見えている気分がしてきますが。
実は、「相手の気持ち」も、あなたとは別個に、そこにはあって。
この気持ちというのは、「相手の心」の中にあるのだけれど。
「自分の手」に、取れるはずないのですよ。
それを、まるであたかも「自分の手」に取ったみたいな錯覚でいるから、
「自分の考え」と「相手の気持ち」を混線させ同一視してしまい。
先回りをした押し付けを「相手の心」へネジ込もうとまでしてしまう。
それは自分の難儀をどこかで認めたくない、
そういう心性で自分の人生を活きているものだから。
あなたの見たくないソイツが、知らずしらずに、
あなたをして、行動を支配して来てしまう。
本当は認めたくないソイツは、
あなたに気が付いて欲しいから、
躍起になって訴えかけてきています。
それを逃れようなんて意気地のないことをしているから、
あなたを自由にしてくれないのです。
まさにソイツが他でもない、あなたの宿題なのですよ。
つまり、人に何かしてあげたいから、何々していますの、
その真底に何が潜んでいるのか、あなたに自覚ができていないと、
こういう繰り返しが終わらなくなるということでした。
え。やっぱり通じない?
まあね。自転車の乗り方や、水泳の泳ぎ方と同じでね。
覚えた人、身に着けた人、という人だったら、
そのやり方がわかっているんだけど。
これは言葉で言っても、説明ができかねるのと、
結局は、おなじですから。
覚えるなり、試すなり、工夫を凝らしてみてください。
それは、あなたのすることで。
私がさせるようなことでは、ありませんから。
私の人生は、私なりに生きていくし。
あなたの人生は、あなたなりの生き方です。
応援はするし、見守り続けていきたいけれども、
それは隣に居るだけが、隣人に出来る精一杯なんでね。
では、また今度。お元気で。お大事にね。
全体として、これらをまとめるとしたら、
それは次のようになるかと考えます。
人間は、各々で考えたり感じたりは、それぞれ個々の人の中で生じています。
しかも、見えるようで、見えないのが、その人の考えや思いです。
仮に相手が2才だろうが、いや新生児だって、
こっちが考えるように考えていないし、
傍目が感じるようには感じていないですから。
こうかな、ああかな、というのは、
どこまで行っても、永久に平行線な「類推」なのですよ。
的外れで、アテズッポウで、勘違いしかしていないし。
だからこそ、常々、これは心しておかないと、
そのズレが将来どうなっていくかが、非常にヤバい。
あたかも目で見えたから、それは「コレコレ」なんだな。
それは「自分のマナコ」に映すから見えている気分がしてきますが。
実は、「相手の気持ち」も、あなたとは別個に、そこにはあって。
この気持ちというのは、「相手の心」の中にあるのだけれど。
「自分の手」に、取れるはずないのですよ。
それを、まるであたかも「自分の手」に取ったみたいな錯覚でいるから、
「自分の考え」と「相手の気持ち」を混線させ同一視してしまい。
先回りをした押し付けを「相手の心」へネジ込もうとまでしてしまう。
それは自分の難儀をどこかで認めたくない、
そういう心性で自分の人生を活きているものだから。
あなたの見たくないソイツが、知らずしらずに、
あなたをして、行動を支配して来てしまう。
本当は認めたくないソイツは、
あなたに気が付いて欲しいから、
躍起になって訴えかけてきています。
それを逃れようなんて意気地のないことをしているから、
あなたを自由にしてくれないのです。
まさにソイツが他でもない、あなたの宿題なのですよ。
つまり、人に何かしてあげたいから、何々していますの、
その真底に何が潜んでいるのか、あなたに自覚ができていないと、
こういう繰り返しが終わらなくなるということでした。
え。やっぱり通じない?
まあね。自転車の乗り方や、水泳の泳ぎ方と同じでね。
覚えた人、身に着けた人、という人だったら、
そのやり方がわかっているんだけど。
これは言葉で言っても、説明ができかねるのと、
結局は、おなじですから。
覚えるなり、試すなり、工夫を凝らしてみてください。
それは、あなたのすることで。
私がさせるようなことでは、ありませんから。
私の人生は、私なりに生きていくし。
あなたの人生は、あなたなりの生き方です。
応援はするし、見守り続けていきたいけれども、
それは隣に居るだけが、隣人に出来る精一杯なんでね。
では、また今度。お元気で。お大事にね。