では、なんで「これが病気である」という理解をしていたのでは、
どういったことが手落ちになってしまうか。
そうしたことを今回は書いてみることにしました。
これは、やはり本人の側と、その人の周りの人々の間でおきる。
そうした事柄の一つである訳です。
ここで誤解なきよう予め申し上げておきますが。
これは誰かの失敗であるとか、間違いなんだとか。
そういう指摘をしてみて、そのせいで起きる事象だとか。
それをやってしまう相手側に注意の喚起をすれば、事足りるとか。
そんな次元やレベルの見方や考えは、一旦ここで捨ててください。
とにかく一度、頭を空っぽにしてみるつもりでいて欲しいのです。
間違っても、これが何の話か。
そういった結論に即決させたい気持ちへ先走る方向とかいかず。
もっと距離をとって、落ち着いてからにしてください。
何度か深呼吸をして、自分の頭の考えを止めてみるつもりで、
聞こえてくる音色を聴き分けていく状態になって、
耳を澄ませ、気持ちを開き、聞き届ける用意をしたうえで、
少しでも広い視野と、
また今までより、もう一段、高い観点で、眺めて俯瞰してみる。
そんなつもりで受け止めていただけたら有難いです。
ではでは。
まず、過去に言い古された部分でもあるのですが。
心因的な事柄と、その心因的な類推の範囲を超えた話と、
そういった表面的な区分で、この事柄を考えてみるという、
そうした便宜的な受け止め方を、ここで止めておいてください。
これを先ずお願いしておきます。
それらは、確かに、医学の人々が、物事の組み立てに用いてきた。
そういう歴史があるにはありました。
ただ、それが、何かの範囲を超えたか、超えてないか、というのは。
今では、もっと別の内容として置き換わっているからです。
いうなれば例の論理階型の意味合いでは、どの段階に当たるか。
そうした読み分け方の内容へと観点も移っているからです。
今回は、これは取り上げません。
ただ押さえておくべき事柄としてですが。
これは紛れもなく人が有しているところの「こころ」の問題で、
そこで起きてくる、その気持ちや気分また行動の話だよと。
是非、そこを汲んでおいていただきたい。
何故ならば、「こころ」が壊れた人だから、
エラーやミスが起きるという、この見え方では、
到底それが何であるか、知ることができないからです。
また同時に、「こころ」の問題であれば、
筋を通すように言って聞かせれば、話が通じるというのも、
間違いですから、絶対にやってはダメです。
先程、論理階型という用語を出しましたが、
それは、これが飛び出してくる問題だからです。
つまり表面的には正論で正しいから言えるんだ、というのは。
議論を打つ側が、相手を捻じ伏せて、征服するようにして、
こっちの言い分を押し通すという暴力行為や、虐待行為へと、
堕してしまって、結局、相手を傷付けるだけで終わってしまいます。
そう、この問題は、傷付けているのに、傷付け続けていることに、
そうしている側で気が付けないことと、同じ意味でありますが。
これがなんと、ややこしいことに傷付けてしまう側も、
自分が傷付いているから、そうしてしまうという、
もう一段ここに複雑な入れ子になった構造が潜んでいます。
それで、下手に触れると、余計に傷を深め広げるので、
棚上げにしてく方法が取られてきた意味です。
でも宿題は、味噌や漬物と違って、熟成を待っていると、
いつの間にか美味しくなって出来上がりはしないので。
いまこうして、8050と揶揄するみたいな言い方になっています。
あるいは、退院(できない人)の問題も同行異曲な話であって。
待たないと育っていかなくても、待つだけで育つのでもない。
でもね、育っているんです、もう既に。
すでに育っているから、任せていけばいいのが大半なのです。
任せておいて、任せていないというか。
子育てが終わっているのに、子育てを終えようとしないというか。
子育て時代と違う付き合い方に入るはずなのに滞っている。
そこが問題になってきているのが、この事態なのです。
それは上手な通過儀礼ができたら、それが大切かもしれません。
目に見える仕切り直しであり、過去と違う形になったねという。
確認の取り交わしであり、現実には明確でなくても、
気持ちの上に、キッチリと認め合っておく。
そういう心の通わせ合いをしていく。
この問題にならないで済むというのは、
そこが出来たか、うまく出来なかったか、
それらの違いというのは、そんなところです、きっとみんな。
そう、だから、どう関わるか、
また関わられて、どう応えられるか。
これは気持ちや心、また思いや行動、そういうことであって。
だから、そこは病気か、病気でないかという問題じゃないのです。
また、関わりあうというのも、
これは相手と自分の間にあることで、
相手の中にあるのでないし、
自分の中にあるのでもない。
目で見えないし、手で触れられないし、
捉えどころがないといえば、確かにそうで。
でも、両者で確認しあえるという場面が持てるのは、
これが、そこにあるからこそできるので。
見えないし、触れないからこそ、
上手に確かめ合い続けていないと、見失うんだし。
自分の中にあるんじゃないから。
独り合点で了解しても、通じるはずがないし。
こっちで、もしかして、これこれかな?
そう思ったら、相手に問わないと、
その自分の勘違いを、相手の実際だと思い込んでしまうし。
キッチリ把握したいと思うがばかりに、
そこで念を押そうとしたら、
相手には釘を刺されたという印象に、
受け取られてしまうことも多い。
キャッチボールのつもりで、
グローブ抜きで、しかもボール以外が飛んだら、
怪我をさせたり、暴力を被ったり。
こっちは悪気のないボールを投げたつもりでも、
受け取りがたい物が飛んでくれば、
当たり所が悪ければ、受ける側は痛みを感じます。
痛い思いをさせられて、痛いじゃないかと、
叩き返されて、ああ痛かったのかと、
投げかけた側で気が付ければ、なぜ叩いてくるか。
これが理解できるんだけど。
ヘンに自分を弁護して、こっちが悪いんじゃないと、
そういう言い張り方をするのでエスカレートしていく。
家で起きる暴力の問題というのは、そういうことで。
ここにあるのは、こっちの思いを汲んでほしいという。
そういう気持ちの打つけあいセメギあい。
でもね、子供と大人で喧嘩してもラチがあかないんで。
子供が玩具を買ってと駄々こねたら、
嫌だよ駄目だよと泣いて道に寝転がる親は見ないんだけど。
だんだん力勝負が互角に近づいてくると、
却ってより酷い抗争に持ち込んで、ダダと駄々の捏ねあい、
ぶつかり合いで応酬しあおうというのは何故なのでしょう。
それは、一言で答えられる。
そろそろ独り立ちに舵切りを始める時期が来たってことです。
それが認められない。したくない。
つまり、親子関係のなかで味わった、親をしてみた美味しさを、
賞味期限が来てるのに、食べ続けていたいという欲です。
これは、どこから来るの?
これも一言でたぶん答えられる。
その親をしている側が、自分の代で行う親子関係。
というのは、自分が親の側である場合と、
また子供の側である場合と、そういう二者二通りあるが。
この人が、子供と離れるのを上手く履行できないとしたら。
それは、どう考えても、その人自身が、済んだこと、終えたこと。
そう思い込んで、決めつけて、修了証書を手にしてるつもりで、
その実、ここが案外とキチンと決まりよく終えられてはいない。
これに尽きると思う。
ということはだ、次代の被っている状態が、
その人の中にある、病気だ、病だと、そうしておきたいのは、
そこに理由があるからで、自分が振り返りたくない、
思い出したりしたくない、自分の子供時代。
勘違いしちゃだめです、親の側ですよ、
親の側と、その人の親の間で起きていた不具合や問題が、
祖父母からみて、次々代である、孫世代と自分の子供で再現された。
そういうことですからね。
これを一世代に切り分けて、その人の病気という理論じゃ。
これは解決しませんから。
そう、だから「これは病気です」が、上手な考えではない。
いや、一番に間違っている、勘違いした対処だということです。
果たして、祖父ちゃん祖母ちゃんが生きてると限りません。
でも、8050の80側は、こころの中で思い返すのは、
自分と自分の親とが、如何なる親子をしてきたか、
もうじき人生に幕を下ろすにあたって総括すべきは、
子世代の話と思っていたら、80は成仏しきれないです。
魑魅魍魎になって、さらに次々世代を呪いつづることになります。
考えてもみてください。これ連綿と残り続けるけど、
それは自分と自分の親たちとの落とし前ができないと、決着しません。
まさか、80になって自分と自分の親たちとの問題とは思ってないでしょ。
つまり、だから、それで、延々と、引き継がれてきたんでしょう。
私、すでに60代ですが、自分の中で、やはり自分の親世代と、
今いる自分との問題は、さらに前世代だは認めるし、わかるんです。
きっと、たまたま自分には継ぐ代がいないんで、
そこが見て取れたんだろうと思う。
子宝は子宝だけど、子宝を授からないなりの宝を
自分は授かったのかもなあ。