いま、そこに、あなたが、あるのは

誰も『苦労』はひとそれぞれ。しかもすべて自分のオリジナル。つまり人間の数だけ誰にもみんな役目と役割りあって生まれてる

対処対策というのは現実に根差した組み立て方ですから。

2022年06月09日 | 闘病


今日は養生にまつわる考え方について、
少し書いてみたいと思います。

これは誰しもよくあることですけど、
こういう病気になった場合に、
どうしてこんなことになったんだろう、とか。
何が理由で起きたことなのかしら、とでもいった。
それらが頭に浮かんできたりしませんか。

そして、それらを発端のようにして、
いわゆる犯人探しの策を講じたりしたがる、
そんな考えを、ついついしてみたり。
その大元になっていったりもしますけれど。
これがでも結局たいして役に立たないばかりか、
むしろ遠回りにしか連れて行かない方法だったりします。

なぜなら、例えば、それは。
もし、「火事が起きました」でも、
「泥棒に入られたんですよ」でも同じことなのですが。

これにもやはり原因や理由というのを考えてみるなら、
何かしら、その元になるようなことを人というのは、
見付け出してきて、指摘をしてみたり致します。

でも。むしろ、この場合の優先すべきは、
仮に家が焼けたというなら、
だったら、どうしたらいいのかであって。
金品を盗まれた場合にでも、
その被害に対して、いかに応じていこうかで。
これこそが、まずそこで成すべき重大事なのです。
つまり、盗難でも、また火災にしても、
すでに現実に起きてしまってから、防止は不可能です。
不可逆な取り組みなんて実行は無理ですから。
今ここに実際があるのなら、その事柄に関して、
自分が、いかなる対処を図るのか。
これしか履行しえないのは自明であるし。
またそこが問われた課題でもありますから。
これに当たること。それが先決なはずなのです。
理由や原因、またその背景について、
これは同じことを再度また繰り返さないために、
将来、考えておくべき事柄ではあるにしても。
焼け出されたら、今夜どうするか、
大事なものを失えば、それはどうしたらいいのか。
そういう目前に現実のすでに持ち上がった、
そうした案件というものは、これを軸に据え、
じゃあ、ここはどうしていけばいいか、なのですよ。
これに対処する、が何にもまして欠かせません。

泥縄って言葉がありますよね。
あれは泥棒に入られてから藁で縄を作って、
それで泥棒さんを縛ってやろうでは、
手遅れだし、手順として間違っている意味合いで。

病気になってしまったら、原因探しより、
その治療や養生を考えるというのが、
順序として、まず今まさにすべきことですから。

仮想的に、どうしておけば、こうならなかった。
という構図に見立てるというのはですね、
そういうヒックリ返った格好になっているのであって、
言うなれば逆泥縄とでも申せましょうか。
あべこべな、目の付け所になってしまった。
そういうズレ過ぎた理屈に堕したことですから。

それは、どうしていいかが、皆目わからないので。
まるで何かに責を負わせたいみたいな心情から、
引き出されてくる屁理屈な言い逃れにも近いものです。

自分でどうしていいかが見付けられない、
解決方法が、サッパリわかりません。
そういうときには、少し専門性を身に着けていて、
自分より賢い知恵が使えるような相手に、
手を貸してくれるよう働きかけることが可能です。

誰にでも、自分にはできないことがある。

あなたが飯を喰うときの米粒だって、
お箸だって、お茶碗だって。
他の人が用意してくれるものを使うじゃないですか。

それなのに、自分は人の助けがなくても、
自分で全部できますから。
そんなこと言っちゃう人の頭がどうかしています。

お米を作っている人ですら、水でも、太陽でも、
自分で作り出しているんじゃないはずです。

あるもの、使えるものを、いかに活かすか。
そこを取り持つのが物事に充たる人の役目です。
これは、そういうことなんですから。
餅は餅屋といいます。
自分で餅をつかない人は、餅をつく人を介して、
その餅を手に入れるまで。
いつまでも、お馬鹿な堂々巡りをしていちゃ、
ホント十年経っても百年経っても、
埒なんて明きませんよ。
指くわえて、ベソかくために、
時間を費やすなんて、待ち惚けの農夫じゃないんで、
次のウサギさんは飛んで走って来ませんって。

じゃあ、また。






こころの(仮)落ち着き処、ご用意があります

2022年04月11日 | 闘病



たとえば、
何かの影響によって、
「これこれは、しかじかになりました」

そういった理由なり、もしくは原因?
みたいな、いまある現状について、

その繋がりと思しき過去のものを、
ときに考えたり、探してみたりして、

そのときに思い浮べたことで、

これは、
どこに元となるモノがあったのか、
ひとが、知ろうとしたがったり。

こういうのって、よくありますよね。



神話というのも、そうだし。

歴史を学んだりするのにも、

そうした面はあるでしょうね。



もうちょっとパーソナルな、

自分の家の家系や、

それら由来来歴についても、

そうやって理解をしたいという、

ひとびとの知りたがる謎について、

それが、こたえの一つだと言えますし。



それらは、自分がどこからきたのか、

自分たちは、何者なんだろうかも、

いま自分がどこにいるのかしらだって、



これら漠然とした問いを、

少しでも、もっと掴みやすいような、

よくわからないものを、

いくらかであっても、

ちょっとでも腑に落ちる納め方を、

したいからと「こころ」が思うというのも。



結局ひとの心が、自然にそうしたがるからという、

これは、その一端といえるでしょう。



それは取り敢えずであっても、

落ち着きどころに置いてみないと、

それを、どこかに据えられないことには、

ひと心地つけないという性分を、

われわれが持っているからですが。



でも、それらは、

仮の安置場所に過ぎないのも事実です。



あることを、

それは、〇〇の関係で、こうですよと、

そう言っておいて、

その口が乾く前に、すぐ別の、

いや、あれは、これこれだったんです。



これも実によくある話です。



だから、決定しているつもりでも、

厳密には、宙ぶらりんな、

常に(仮)つきの座りというのが、

どれにもこれにも付いて回ります。



ただ、あらゆることに、これが備わるから、



とりあえずであっても、仮の置き場に、

ここだなと、しておかないと、

また、別の切羽詰まったことが、

次々と差し迫ってきますから、



妙だけど、決まったつもりになっておかないと、

対処ができないし、収拾もつかない、

そういった混乱に巻き込まれるのも、

目に見えていることです。

だから、その事態を避けるために、

こういうのも方便の一種だからと、

こころの片隅にであっても、

そう意識をしておくことが大切です。



それを愚かにも失念していたりするから。

どこかに真に永久普遍の収まり方が、

理想的に存在をするはずだという。

そういう、あり得ない想定してしまうから、

絶対に確かな〇〇はどこだろうって、



これに陥ってしまうのが、

いわゆる強迫症的な対処の理由だと、

そういって良いのかもって思ったりします。



それらの人が求めている完全・完璧は、

どこにあるのかといえば、

これ現実には存在しないんだけど。



だって、そもそも、すべてが(仮)の、

取り敢えずで構成されているに過ぎないんだし。



変わりつつ、移ろいゆくことが、

過ぎゆくままに、経ていくという、

諸行無常じゃないけど、



その何かが、もしそこに、

間違いなく確かにあるのだとしても、

それだって、今だけバージョンが、

今の今だけ、そこにあるという。

それだけといえば、それだけですから。



いつまでも、ある。

これを確かめようと願っても、

そこに立ち会う自分自身だって、

限られた時間それに付き合えるだけですし。



要は、組み立て方そのものが、

最初っから錯誤を孕んでいるから、

こういう脱線は解決しえないコースになる。



そういう話だよと、

理で解さないと、

あるはずの出口を、ないないと、

右往左往してしまう羽目になります。



すべては仮初(かりそめ)です。


これを悟ることが、賢いと思いますよ。


あとは、長年やっていると、


苦痛な行為すら癖になりますから、


放っておいても、気持ちが自動的にいってしまう。


これは、改めて別の方法が身につくまで、


そこを練習し続けることです。


必ずできるようになります。


だって、いまの強迫症状だって、


そうした身につけ方で学習をしたのですから。


あとは、仕切り直しに、


自分の中で上手な通過儀礼


イニシエーションを工夫されてみては、


いかがでしょうか。





ではまた、今度


今日は、ここで失礼します。





これ少し世の中全体で一緒に考えないとイケませんよね?

2022年04月10日 | 闘病


これまでの人間が生きてきた長い歴史を考えてみると、

ヒトという生き物は、どんな物事であれ、そこに不完全・不十分な事柄を見つけ出しては、その何かについて、さらにいっそう完成を遂げた状態だとか、また少しでも堅固なしっかりとした何かに置き換えたくて止まないみたいな、そうした衝動に突き動かされ、今日まで、その活動を絶え間なく繰り広げつつ歩んできような存在である。
と、そんな定義さえしたくなる気がしますが。

これは社会全体もそうですが、一人ひとりの個人にも、それは同じように作用していたりもする訳です。

例えば、ある集団や、グループ。それは地域や国であっても、また職場のような組織や、家族のような単位でも、それらを構成するメンバー同士のあいだで、同じように、目的や方向を重ねつつ、その活動のなかに発揮してみたり、

また一個人でも、その自分の生き方・考え方に、何かこれをいっそう納得できるような状態にしてみたいと願って、そこに働きかけたりします。

そういった事柄にも、やはりここで、ヒトという存在の本来から備えるらしき性質の働きかけが、おなじように見出せると思います。

さて、もしもですね、これらのなかにですが。そこへ何か不一致や不確実なものを、誰かが見付けられているとか、気が付きかけていたとしたらですが。

これは、やっぱりヒトであれば、それは取り除くべき事柄として、もっと違う何かに置き換えてみたりして、そこをより完成をしたような状態にしてみたいと、そう願うだろうし、またそれを実現させようとするのも、これは流れとして当然と、そんな風に考えられることだと思います。

しかしながら、これは一個人で自分のなかだけで行いうる場合と、もう一つグループや集まりで指向している状況とでは、そこには一定の違いがあると指摘可能なのも自明でしょう。

つまり、それが自分単独であれば、自身が自己によって変更することで、それを完結させられるということかもしれませんが、

もしこれが一定の複数の成員で、それらことに挑むような局面であれば、その何か、ここで気が付きつつある事柄・対象についての共有を、そこでいったん図りつつ、そのうえで、これについて共同で問題にあたらなくては、その何かに関して所期の目的の達成は遂行しようにも、これを行いえないことですよね。

もしその際、仮にそこを構成するメンバー間で動かしがたい序列があり、上からは命令が下る。だけど、下から提案しようにも、そこを汲み取る仕組みが十分でなかったり、これが欠けていたりしたら、その場合どうなるでしょうか。

ここで明確な指摘をすることができるぐらい、言語化が可能で明示しうる事柄として、伝えらえたなら多少は困難が小さいかもしれない。

でも、何となく不十分さを感じている程度であったら、これは言う側も聞く方でも、そこの話が届きにくいのは間違いない。

しかもですよ、構成する単位が非常に小さく、一対一で、それらを相手とやり取りするのだとしたら、これはどうでしょうか。

つまり、相手とこちらが対等ではなくて、何かを伝え合う、やり取りしあわなくてはいけない。そういう状況で、これが1対1であれば、これは力を持つ側と、力が弱い側の、たとえ小さな力量の差だとしても、そこでの立場の違いというのは、圧倒的な差であるというのが、この二者関係の間に生じてくる差です。

要はここで、社会というのは、その二者ではなく。もうひとつ第三者という存在が、ここに働きとして、あるかないかで、ことの当事者同士と違う別の視点からの立場が、そこにキチンと噛んで存在をしてるか、それともまったく噛んでおらず何の存在もしない。このあるなしで、そこでの人と人の間柄が、決定的に異なる形勢の違いとして喫してる意味です。

仲介・仲裁する立場としての第三者を持てるかどうかで、当の二者の公平性を担保するか・しないかのカギになる。

つまり二者関係で、もしもその相手が対等に耳を貸すよ・聴いてあげるよと思ったとしても、そこは成立させようにも、最初っから、機能なんかするはずありません。

そこを多くの親が無知だったり、気が付いていない。意地悪く言えば、知らないふりをして、かさに着つつで傍若無人をしていることすらある。

一見したところ目に見えないようでいて、実は暗にこの力による抗争や支配が、そこへ潜んでいるといっても過言じゃない訳です。

結局、病人の側が苦しむ、困難で壁に遮られる、というのは、そうした構えが、ここに立ちはだかるのを、その場に立ち会う人間が認めていない、向き合っていない、気が付こうとしていないと、そうとしか言いようがないのが。この問題にある一番に根深くて悩ましい根幹の部分です。

さて、いかがでしょうか。そういう話であるのに、それを家族が抱え続ける話だよというのは、これでこの問題にあたろうとするのは、あまりに無理難題が酷すぎませんか。

そういう不可能な作業に従事をさせられ続けて、これで何にも解決なんぞするはずないな、と。その理由が、これがあるからだと。少しはご理解いただけましたでしょうか。

しかも、ひとは誰しも自分自身には認めたくない受け入れたくない、そういった盲点をどんな人でも心の中に持ち抱えていたりしますが、これは生理的な目の中の盲点が現実ここにあるがのごとく、絶対に避けられない事実ですが。

この部分があることに、身近な人間のだれか、その多くは子供の側ですが、妙だな、そこオカシクナイみたいな気付きというのを何となく見えていたり、気が付きかけていたりするのは、一番近しいだけに如実に感覚したりするのですが。そこを伝えようにも、今度は聞き届ける側で、聴こうとする耳というのが働いてくれないというのも、これが盲点という見えないところだから、気が付きようがないのだと。そういうことがおきてくるのです。

つまり、これは第三者が、第三者だなんて、そこが、そもそも捻じ曲がっている話だと理解すべきです。事実上、現に必須であるべき第三者の介在というのが、ここで微塵も機能していない、そうした致命傷があるからこそ、そこで起こる困難が取り除きようもなくなってしまう訳なんです。

子供から、お父さん顔に何か付いてるよ、という物理的な現実なら、お母さんだって、「あら、ホント。お父さん顔に○○が」

でもね、多くの場合もっと抽象的な目に見えない。言葉で指摘しがたい内容ですし。夫婦というのは知らず知らずお互い似たり寄ったりで、同じように同じものを持ち合わせていたりして、お互い自分たちでは無自覚なことも多いです。

これ自体が悪いとか、良いとかではないのですが、ただ、

この第三者の不在というのが、そこに、そのままあるかぎり、肝心の二者関係の谷間に横たわっている見え難い支配・被支配という深い溝というのが、結局いつまで経とうとも、両者を隔て続けたままになってしまうのだし。

そういう一種の不健康さとでもいうべき、いくらかの歪み具合というのが、修正をされないままに残って、やがて時間とともに固定化もしていく。

結局、その予期せぬ隷属した関係から、当の親子も家族も、永遠普遍に抜け出せないような袋小路になったままで。これを世間から知ってやろうともしていないし、それを汲み取って、ここに自分たちの役目があるから、それを果たすべき事柄として、一肌脱ぐこともしてやらない。

これは、最初から、そこに世間が、まず存在もしていなければ、機能を果たすこともしていないということであり、無に等しい話です。

ここで、敢えて申せば、親たちも、ことによって子供たちすら、世間体に目が行くという、それ自体も、そういう具合で、世間について意識しているのに、その世間というのは、この家族を見て見ない知らないふりをするといっても、いいなのかもでして。

これが、じつは、これ自体こそ、まずもって引きこもりそのもんだし、だから社会自体が、家族に対して「引きこもり」状態に陥っているというべきです。

そういう入れ子の構造・構図があるというのを知るのが、ここにある入り口であって、それが出口で突破口なんでしょう。

これは社会そのものが、その存在証明を問われた。そういった危機です。

社会が不在で、人間が立ち行かないのは自明です。人間は如何にして人間かというのは、人というのが社会性を帯びているからこそ、ヒトはヒトでありますから。

見ない・聞かない・言わない・ふりしつづけて。そういうイワナイお岩さんみたいな幽霊社会こそが引きこもりというモノノケの真実の正体なのです。

つまり、各家庭のお家にあるのは、その社会が映り込んでいる鏡のなかの吹き出物の状態だという、怪談話がこれでしょう。

これが成仏できないというのは、そうした道理があることなのです。

お岩さんの話だって、欲に目がくらんだ人間がいたから起こった話で。

これも、現実に自分が引き受けるはずのことを果たさないで、逆に怠ろうとした姿勢が社会にあるからだと、そういう結論を、お伝えして、今回の締めくくりと致します。



















病気だという説明は一方的すぎると思いますよ。

2022年02月06日 | 闘病


これまで、いつも私がここに書いていることですが。

一部の精神科の疾患について、それらは、
単に病気と呼ぶような性質に捉えていたのでは、
それらについて、対処・対策の講じ方においてさえ、
この観点では、とうてい済ませられない問題であると、
そう厳しく感じない訳にはいられないのです。

むしろ中途発生をした障害の状態にあると見ていたほうが、
その状態についても的確な把握ができると思います。

ただ身体における障害等の状況などと同じように、
もし、これも発症時に適切な対処ができていたら、
その後の重篤な障害にまでは発展することもないことで。

そうならないようにするのは初期に全体を、
俯瞰して考えられる視点を見付けるというのが、
何よりも大事だと、そう感じているのです。

そのためには、やはり家族内だけでは限界があり、
もう少し第三者からの援助が必要なのは明々白々で、

家族自身、その出来事の一端にいることですから、
そこから自分たちに何が起きているか気が付くのも、
また、どこから何をすべきかを考えるのでも、
それを別の観点から何が見えているか問えないことには、
問題の気付き方だけでも、これは至難の業であって、
そこは往々にして、ほぼ不可能に等しいかもしれない。

だからこそ後手後手になり、上手くいかなくなって、
抱えきれないほど破綻は酷くなり、状態は顕著になる。

つまり家族内では、解決ができないような内容が、
そこに生じつつある段階で、もうすでに家族という、
このシステムないしは器が、それ自体不十分なことには、
なかなか気が付けていないので、問題が輻輳してしまう。
そうした面が、この問題には含まれていたりすることです。

 
これは、どんなことでもそうなるのですが、
何事でも硬直化しているシステムというのは、
その機能を著しく発揮し損ねてくる訳です。

これにも自己修復機能が当然あるのですが、
そこを発動させる力を、かなり失っていたりする。

要は、柔軟な運用は欠けて来ていたりしますから。
そういう場合に、よく起きる現象として、
責任論で取り仕切ろうとする無理をしたがる。

なぜそうなったか、考えるよりも、
なんでそんな風にするんだという、
取り締まり強化で事に当たるような羽目になって、
困っている相手に、共感もしなければ、
助けるとか、思いやるとかより、
責めてみたり、叱ってみたりする。

その結果、まだ相手に自分で発揮する力が、
残っていたとしても、これで頑張れる、
エンパワメントにできるどころか、
逆に自己卑下で、本人はますます気が塞がる。
それでも。そこ更に押し付けで強化したがるから、
ますます拗れるだけにしかならないことで。

ここにあるのは悪循環そのものなんだけども。
それを見やるよりも、自分は悪くないという、
お前が駄目だからだという応酬になっていき、

もっと自分のことを、わかってもらえたら、
それだけで自分なりに、頑張ろうと思うことでも、

お互いに下手な擦り合いで、そっちのせいだという。

ちょっと離れて見詰め直したら、
ここには、大人というのが、どこにいるのかという。

そういうキライも伺える構図だったりするのです。

ある意味、大人が自分で、その健康さを失うと、
そういう行動や思考に陥ったりもするのであり。

自分の健康さを気遣う感覚を持ってこそ、
家族全体の健康度が上がる話でもあったりして。

それは冒頭に、病気じゃあないだろうと述べましたが。

もし病気だよと、そう主張されるのであったら、
ここで申し上げたいのですが。

仮にこれが植物や何かであってもですが。
もし健康に育てられるような環境が与えられたら、
それには育つ力が宿っている話ですから、
その用意さえできたら、自然に発揮していきます。

そういう摂理を忘れてしまっているから、
相手を生きた実際の生物だと思っていないで、
機械か何かみたいに、指令や命令で聞かそう式に、
そう当たるから反発させたり、力を削いだりするのです。

そこにあるものを引き出すには、
引っ張って伸ばしたら、芽が出ても千切れるだけです。
これでは育つはずがないことです。

それを待たないというのは、
別の言い方をしたら、待てないということです。
なぜ、待てないのかといえば、
知らず知らずに自分自身が急き立てられるような、
そういう生活にいたりすれば、これだけで、
自ずと、他に対しても、そういう当たり方で接する。

余裕というのは、贅沢なんかじゃないんです。
生きているというのは、ユトリのアソビの部分の、
そういう糊代を持っていないと、
繋がって大きくするという力は出せないことです。

これには顔をくっ付ける様にして、
覗き込むみたいに伺っていたのでは、
誰だって気が急いて早くしろって急き立てます。

早くしろって急いで、いったいどこに行くつもりか、
もう少し、離れて眺める感覚が持てないと、
自分自身も振り返れないことであって、

振り返ってこそ、これでよかったかなと、
考える間が持てるのです。

考える間を持とうとしないから、
結果、結果、と追い立てるような、
そういうことで、やろうとする本人を、
窮地に立たせこそすれ、発奮させえぬことになる。

どんな相手にも相手の都合があることで、
自分の思惑至情で押し通すようなのは、
誰に対してだって礼が無さ過ぎることです。
失礼なことされたら、身内にだって嫌がられる。
それが人の情ですから。きちんと相手を、
人間扱いしていなかったと思い巡らしたら、
少しは全体が見えてくると思うのです。

結局、これらの塊や滞りが鬱積しきった結果が、
今でいうところの「病気」の真の正体だと。

これに尽きるんだけど。
渦中にいると、これに輪を掛けて、
撚りをかけて、さらにキリキリしていき。
それが今あるような全ての、これが、
原因・大元だってことなんですがねえ。

人間の脳は、そういう風に病気にはならないです。
これは脳がシッカリ働いているからこそ、
機能として、この状況に応じた「仕事」を、
働いているまでですからね。

それを「病気」は「薬」だって。

そういう図式は、あまりに過去のもので、
それが過剰な単純化だろうというのは、
やはり、そうでしょうよ、どう考えたって。

おっと、そこで今飲んでる薬は、
即やめますって、これも飲んだ以上は、
減らし方のある話ですって。

どうぞ気を付けてくださいよ。
少しでも危ないことは、
よく考えて行動しましょう。






やっぱり、これは病気じゃないのだけど。

2021年11月30日 | 闘病


では、なんで「これが病気である」という理解をしていたのでは、
どういったことが手落ちになってしまうか。
そうしたことを今回は書いてみることにしました。

これは、やはり本人の側と、その人の周りの人々の間でおきる。
そうした事柄の一つである訳です。

ここで誤解なきよう予め申し上げておきますが。
これは誰かの失敗であるとか、間違いなんだとか。
そういう指摘をしてみて、そのせいで起きる事象だとか。
それをやってしまう相手側に注意の喚起をすれば、事足りるとか。
そんな次元やレベルの見方や考えは、一旦ここで捨ててください。

とにかく一度、頭を空っぽにしてみるつもりでいて欲しいのです。
間違っても、これが何の話か。
そういった結論に即決させたい気持ちへ先走る方向とかいかず。
もっと距離をとって、落ち着いてからにしてください。
何度か深呼吸をして、自分の頭の考えを止めてみるつもりで、
聞こえてくる音色を聴き分けていく状態になって、
耳を澄ませ、気持ちを開き、聞き届ける用意をしたうえで、

少しでも広い視野と、
また今までより、もう一段、高い観点で、眺めて俯瞰してみる。
そんなつもりで受け止めていただけたら有難いです。



ではでは。

まず、過去に言い古された部分でもあるのですが。
心因的な事柄と、その心因的な類推の範囲を超えた話と、
そういった表面的な区分で、この事柄を考えてみるという、
そうした便宜的な受け止め方を、ここで止めておいてください。
これを先ずお願いしておきます。

それらは、確かに、医学の人々が、物事の組み立てに用いてきた。
そういう歴史があるにはありました。
ただ、それが、何かの範囲を超えたか、超えてないか、というのは。
今では、もっと別の内容として置き換わっているからです。
いうなれば例の論理階型の意味合いでは、どの段階に当たるか。
そうした読み分け方の内容へと観点も移っているからです。
今回は、これは取り上げません。

ただ押さえておくべき事柄としてですが。
これは紛れもなく人が有しているところの「こころ」の問題で、
そこで起きてくる、その気持ちや気分また行動の話だよと。
是非、そこを汲んでおいていただきたい。

何故ならば、「こころ」が壊れた人だから、
エラーやミスが起きるという、この見え方では、
到底それが何であるか、知ることができないからです。

また同時に、「こころ」の問題であれば、
筋を通すように言って聞かせれば、話が通じるというのも、
間違いですから、絶対にやってはダメです。
先程、論理階型という用語を出しましたが、
それは、これが飛び出してくる問題だからです。

つまり表面的には正論で正しいから言えるんだ、というのは。
議論を打つ側が、相手を捻じ伏せて、征服するようにして、
こっちの言い分を押し通すという暴力行為や、虐待行為へと、
堕してしまって、結局、相手を傷付けるだけで終わってしまいます。

そう、この問題は、傷付けているのに、傷付け続けていることに、
そうしている側で気が付けないことと、同じ意味でありますが。
これがなんと、ややこしいことに傷付けてしまう側も、
自分が傷付いているから、そうしてしまうという、
もう一段ここに複雑な入れ子になった構造が潜んでいます。

それで、下手に触れると、余計に傷を深め広げるので、
棚上げにしてく方法が取られてきた意味です。
でも宿題は、味噌や漬物と違って、熟成を待っていると、
いつの間にか美味しくなって出来上がりはしないので。
いまこうして、8050と揶揄するみたいな言い方になっています。
あるいは、退院(できない人)の問題も同行異曲な話であって。

待たないと育っていかなくても、待つだけで育つのでもない。
でもね、育っているんです、もう既に。
すでに育っているから、任せていけばいいのが大半なのです。
任せておいて、任せていないというか。
子育てが終わっているのに、子育てを終えようとしないというか。
子育て時代と違う付き合い方に入るはずなのに滞っている。

そこが問題になってきているのが、この事態なのです。
それは上手な通過儀礼ができたら、それが大切かもしれません。
目に見える仕切り直しであり、過去と違う形になったねという。
確認の取り交わしであり、現実には明確でなくても、
気持ちの上に、キッチリと認め合っておく。
そういう心の通わせ合いをしていく。

この問題にならないで済むというのは、
そこが出来たか、うまく出来なかったか、
それらの違いというのは、そんなところです、きっとみんな。

そう、だから、どう関わるか、
また関わられて、どう応えられるか。
これは気持ちや心、また思いや行動、そういうことであって。
だから、そこは病気か、病気でないかという問題じゃないのです。

また、関わりあうというのも、
これは相手と自分の間にあることで、
相手の中にあるのでないし、
自分の中にあるのでもない。

目で見えないし、手で触れられないし、
捉えどころがないといえば、確かにそうで。
でも、両者で確認しあえるという場面が持てるのは、
これが、そこにあるからこそできるので。

見えないし、触れないからこそ、
上手に確かめ合い続けていないと、見失うんだし。

自分の中にあるんじゃないから。
独り合点で了解しても、通じるはずがないし。

こっちで、もしかして、これこれかな?
そう思ったら、相手に問わないと、
その自分の勘違いを、相手の実際だと思い込んでしまうし。

キッチリ把握したいと思うがばかりに、
そこで念を押そうとしたら、
相手には釘を刺されたという印象に、
受け取られてしまうことも多い。

キャッチボールのつもりで、
グローブ抜きで、しかもボール以外が飛んだら、
怪我をさせたり、暴力を被ったり。

こっちは悪気のないボールを投げたつもりでも、
受け取りがたい物が飛んでくれば、
当たり所が悪ければ、受ける側は痛みを感じます。

痛い思いをさせられて、痛いじゃないかと、
叩き返されて、ああ痛かったのかと、
投げかけた側で気が付ければ、なぜ叩いてくるか。
これが理解できるんだけど。

ヘンに自分を弁護して、こっちが悪いんじゃないと、
そういう言い張り方をするのでエスカレートしていく。
家で起きる暴力の問題というのは、そういうことで。

ここにあるのは、こっちの思いを汲んでほしいという。
そういう気持ちの打つけあいセメギあい。
でもね、子供と大人で喧嘩してもラチがあかないんで。

子供が玩具を買ってと駄々こねたら、
嫌だよ駄目だよと泣いて道に寝転がる親は見ないんだけど。
だんだん力勝負が互角に近づいてくると、
却ってより酷い抗争に持ち込んで、ダダと駄々の捏ねあい、
ぶつかり合いで応酬しあおうというのは何故なのでしょう。

それは、一言で答えられる。
そろそろ独り立ちに舵切りを始める時期が来たってことです。
それが認められない。したくない。

つまり、親子関係のなかで味わった、親をしてみた美味しさを、
賞味期限が来てるのに、食べ続けていたいという欲です。

これは、どこから来るの?
これも一言でたぶん答えられる。

その親をしている側が、自分の代で行う親子関係。
というのは、自分が親の側である場合と、
また子供の側である場合と、そういう二者二通りあるが。

この人が、子供と離れるのを上手く履行できないとしたら。
それは、どう考えても、その人自身が、済んだこと、終えたこと。
そう思い込んで、決めつけて、修了証書を手にしてるつもりで、
その実、ここが案外とキチンと決まりよく終えられてはいない。

これに尽きると思う。

ということはだ、次代の被っている状態が、
その人の中にある、病気だ、病だと、そうしておきたいのは、
そこに理由があるからで、自分が振り返りたくない、
思い出したりしたくない、自分の子供時代。
勘違いしちゃだめです、親の側ですよ、
親の側と、その人の親の間で起きていた不具合や問題が、
祖父母からみて、次々代である、孫世代と自分の子供で再現された。
そういうことですからね。

これを一世代に切り分けて、その人の病気という理論じゃ。
これは解決しませんから。

そう、だから「これは病気です」が、上手な考えではない。
いや、一番に間違っている、勘違いした対処だということです。

果たして、祖父ちゃん祖母ちゃんが生きてると限りません。
でも、8050の80側は、こころの中で思い返すのは、
自分と自分の親とが、如何なる親子をしてきたか、
もうじき人生に幕を下ろすにあたって総括すべきは、
子世代の話と思っていたら、80は成仏しきれないです。
魑魅魍魎になって、さらに次々世代を呪いつづることになります。

考えてもみてください。これ連綿と残り続けるけど、
それは自分と自分の親たちとの落とし前ができないと、決着しません。
まさか、80になって自分と自分の親たちとの問題とは思ってないでしょ。
つまり、だから、それで、延々と、引き継がれてきたんでしょう。

私、すでに60代ですが、自分の中で、やはり自分の親世代と、
今いる自分との問題は、さらに前世代だは認めるし、わかるんです。
きっと、たまたま自分には継ぐ代がいないんで、
そこが見て取れたんだろうと思う。

子宝は子宝だけど、子宝を授からないなりの宝を
自分は授かったのかもなあ。