このページの画像は、故あって表示されませんが、
連続性を担保する意味合いからも、そのままで公開し、
別途、新しく作り直すことにしました。
同じ内容ですが、画像はその限りではありません。
新たなページは、
(以下、本文)
「やーい。王様は裸だぞ」「はだかの王様だ」
誰もが知っている有名なアンデルセン
の童話『裸の王様』での一幕ですが、
このクライマックス・シーンの角度を少しだけ
変えて眺めてみれば、
出典:ameblo.jp
見栄や処世や世間の垢にまみれた大人を
よそに純真な子どもがズバリその核心をつく
この名場面も、大人がそれを言ったら官憲に
捕らえられて処刑されるのがオチでしょう。
言わば、蛮勇の謗(そし)りを免れない行為
ということになってしまうわけですが ・・・
では、どうしたら王様に、つまり王様の面子
を立てながらその真実を伝え、ひいては民衆
にも王様は馬鹿ではないと思わせるような
諌言(事実認証)ができるのでしょうか
しかも、
秦の始皇帝に仕えた宦官の趙高が行った
※ 「鹿を指して馬と為す」
※ http://www.asahi-net.or.jp/~bv7h-hsm/koji/sikauma.html
というような例もあるし、王自身による臣下
を試す逆芝居である可能性もあるわけです。
そんな状況下で「王様は裸です」と
単刀直入に言えるのは罪のないイノセントな
子どもぐらいのもので、場合(王様の資質)に
よっては、そんな子どもですら容赦ない処分
を受ける危険性を大いに孕んでいたのが、
ダ・ヴィンチの生きていた時代であって、
そうしたシチュエーションのなかで
「罠」という仕掛けの動機づけを決定
させる出来事が、若き日のダ・ヴィンチの
身の上に起こるわけです。
ローマ・カトリックの偽善と欺瞞
は教会組織としてのそれであったのか
歴代教皇の原質に資するものなのか
それが教会組織だとして、
それは当初からの由来によるものか
それとも、途中で変更されていたのか
あるいは、何も知らぬ間に、
何者かの支配が及んだ結果だったのか
いずれにしても、
ダ・ヴィンチには厄介な問題でした。
彼が体験した幻としてのビジョン
は余りにも荒唐無稽で、信じ難い内容
であっただけでなく、「神」なる者たちの
真の姿を知らしめ、メシア(キリスト)を
否定して、聖性を貶め、教会を誣告
するような映像の数々が繰り返し視覚を
通して襲ってきたわけで、
出典:shanti-phuia.net
それは、
まるで、『聖書』の世界の別バージョン
や『ヨハネの黙示録』の逆パターン
を見せつけられているようなものでしたが、
このとき、
ダ・ヴィンチの好奇心は凍り付きながら
も爆発寸前にまで昂揚していたのです。
この辺りの補足としては、
『ダ・ヴィンチの罠 松果体』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/480.html
『ダ・ヴィンチの罠 白日夢』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/481.html
などを参照してみてください。
とは言え、それが、
出典:shanti-phuia.net
夢や妄想による幻覚的な映像とは
到底のことに思えなかったダ・ヴィンチは、
それゆえに、
幻に見た人類誕生の叙事的な秘密と
未来の出来事と思われる一連の情景
を抒情する手段として、「罠」という
トリッキーな告白の方法を採用
したのではないでしょうか。
さて、
かなり無理があるものの、やろうと思えば
やって出来ないこともないような、
決して不可能とは言えないペテロの
右の手首のかたちですが ・・・
こうした手首の捻(ひね)り方は、それなりに
意識をしないと容易には作り得ないかたちで
あって、言わば、不自然な部類に属する動作
であるということです。
然は然り乍ら(さはさりながら)、
たとえ不自然であっても、動作かたちとして
可能であり、誰もそれを否定できないところに
ダ・ヴィンチ流の「罠」の真髄と言うのか
、その本質が隠されていると思うのですが、
しかも、しかもですよ。
このケースにおいては他の誰の手であるとも
言えないようにペテロの右腕の習作を用意
して、メモ書きにはナイフを持つ人物の存在
を臭わせているのです。
その習作にしても、決して、ハッキリとは
その肝心要となる手首から先を描かずにいる
わけですね
ペテロの右腕の習作
要は、追及の余地を残しているのです。
つまり、それが彼一流の「罠」における
「匙加減」(さじかげん)なのです。
ユダの右手の場合もそうですが、巾着を
絞った口らしき部分だけは描いてあっても肝心
の袋の部分はないのです。
ユダの右手の習作
たとえば、メモ書きにある
「振り向いているもう一人の者は、手に
ナイフを握り、テーブルの上のグラスを
ひっくり返している」
この文に該当する人物は見当たりませんが
ユダの手の中にナイフがあったと仮定
すればメモの内容とほぼ合致します。
相違点はひっくり返すものがグラスなのか、
塩壺なのか、の違いだけです。
さらに言えば、
この巾着を絞った袋の頭と思われる部分が
ナイフの柄頭を描いたものであったとしても、
何らの不都合も不思議も感じないわけです。
しかも、
これがまた憎い演出だと思えるのですが、
その袋にあたる部分にペテロの右腕を
思わせるようなかたちのラフ・スケッチを
そっと差し込んでいるわけです。
さあ、このパズルを「解いてくれ」と
言わんばかりのサービスぶりですね
こうして、
この時点でのナイフの持ち主は本命の
ペテロに続いて、対抗馬としてのユダ
の存在にも着目する必要性が生じると
いうことになったわけです。
それが、このシリーズの『予告版』
で紹介したイタリアのデジタル画像処理会社
HAL9000によるデジタル高精彩画像ですが、
ユダの手にある イエスの右手が
ナイフをペテロ ヨハネの左手に
が押さえている 重ねられている
という斬新なアイデアとして登場します。
『ダ・ヴィンチの罠 予告版』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/400.html
つまり、この画像はダ・ヴィンチのメモ書きの
状況とほぼ一致するような内容になっていると
いうわけですね
ここでは、
しっかりと組まれていたはずのヨハネの両手
は、胸元へと移動する右手とイエスの右手に
重ね添えられる左手として互いに離されます。
この辺りの描写は
『ダ・ヴィンチの罠 謎の手』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/401.html
を参考にしてください。
こうして固く結ばれていたヨハネの両手は、
その呪縛を解かれて自由になるわけです。
要するに、これで、
本命のペテロ、対抗のユダ、に加えて
穴馬であるヨハネも、ナイフを手にする
権利を得たわけです。
もちろん、
その場合にはユダの右手には巾着袋
が握られ、ペテロの右手はナイフを
掴んでいるヨハネの右手首をガシっと
ばかりに捕り押さえている構図になります。
そうなると、
当然ながらヨハネの腕は尋常ならざる長さに
なっていることになるわけですが ・・・
それでは、その時に
ヨハネの左手はどうだったのでしょう
イエスの右手で、そっと優しく包まれて
いたのでしょうか
いいえ、違います。
イエスの右手はユダの左手と同じく、空の皿
のなかにある見えない真理(隠された真実)
を懸命に掴もうとしていたのです。
ですから、
ヨハネの左手はそこにはありません。
では、どこにあるのかと言うと、
ここなのです。
・・・ って、おいおい、
(それ、トマスの左手じゃね)
そ、そうでしたよね
確かに、そのような説明をした記憶が ・・・
大ヤコブの左手とトマスの左手と思われる素描
でも、しかし、
右手がナイフを握っている場合における
ヨハネの左手は、右腕と同じく左腕も
ONE PIECE(ワンピース)のルフィの如く
に、ビヨ~ンと伸びていたのです
つまり、それは、こういうことです。
時空劇『最後の晩餐』における第二幕
の終わりから、第三幕の初めにかけて 理性
(ことわり)から感性(たましい)への転換が
行われるといったことのひとつが、
第二幕の最後(R1)に控えるヨハネが
第三幕の最初(L1)に移動(転換)してきて、
大変革をもたらすというシナリオです。
要は、
第一幕におけるロゴス=理性(ことわり)
の誕生から、第二幕でのエトス=倫理
(みちすじ)の発現を経て、いよいよ第三幕の
パトス=感性(たましい)の離反(反逆)、
すなわち、分離へとつながっていくのです。
出典:www.lets-bible.com 出典:shanti-phuia.net
現在進行形での展開であるがゆえに
なかなかプロトコル(手順)通りに行かない
のが頭痛の種(苦しいところ)なのですが、
このことを理解してもらうには少し前に戻って、
時空劇のプログラムを振り返る必要があります。
もう忘れているかもしれませんが、
今、我々は第二幕の終盤の辺りを観劇中で、
これから漸(ようや)く第三幕が始まるのです。
次回は、このトマスの左手とされる手が
どうして第二幕から移動してきたヨハネの
左手なのか、についての解説や検証などを
予定していますが、
現在の立ち位置が第二幕にあることを確認
する意味からも、
出来れば、再度、以下のページを復習して
おいて欲しいと思います。
『ダ・ヴインチの罠 ロゴス』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/499.html
『ダ・ヴィンチの罠 想像力』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/500.html
『ダ・ヴィンチの罠 真善美』
http://sun.ap.teacup.com/japan-aid/501.html
『聖アンナと聖母子』『モナリザ』『洗礼者聖ヨハネ』
さっきからゴチャゴチャと
(押し付けがましいだよな)
「匙加減」も何もあったもんじゃねえ
まあ、まあ、そんなにボヤかないで、
もうちょっとだけ聞いてください。
第三幕の開始直前に大事件が起こります。
それが、
【洗礼者聖ヨハネの首とサロメの物語】
『音楽家の肖像』『ウィトルウィウス的人体図』『自画像』
『音楽家の肖像』1485年頃
『洗礼者聖ヨハネ』 1513-1516年
なのですが ・・・
それはまた、
次回以降でのページでお話しましょう。
ネっ !!
ひょっとして、お前さん。
「サロメも演じるのか」
えっ、えっ、ヘロデ・アンティパスの台本、
「わしゃ、貰ってないけど」
それこそ、お得意の「匙加減」で
「アドリブしなさいよ !!」
『最後の晩餐』のヨハネ 『岩窟の聖母』のマリア
マグダラのマリア 『サロメ』高畠華宵1926年
… to be continue !!