「無頼漢」、まさに、そんなブログの引っ越し作業の結果、
100を超える記事の画像が表示できなくなり、非公開としました。
記憶を呼び起こしつつ、漸次、復活・再生させるつもりですが、
正直、皆目見当のつかない画像も多々あります。
さてと、それでは、ここからが、
『ダ・ヴィンチの罠 無頼漢(改)』
の記事になります。
(以下、本文)
「オレの勝手」という自己中心的で
、「天邪鬼」でもある漢(おとこ)は、
「人様に迷惑をかける」ことなど
露ほども気にならない性分のようで、
★★『東方三博士の礼拝』では、契約を
すっぽかしてミラノへ旅立ち、以来、制作途中
であった作品を顧みることはなかったとか・・・
しかも、この仕事は、
息子のためにと、父セル・ピエロの口利きで
もらった大作だったのですが ・・・
もう泣くか笑うかしかないよね。 お父さん
そうかと思えば、
パリ・ルーブル版 & ロンドン・ナショナルギャラリー版
注文主からの依頼内容を無視することも
朝飯前で、『岩窟の聖母』(ルーブル版)
では指定された人物構成や背景・場所などを
独断で変更し、裁判沙汰となっていますし、
他にも、フィレンツェ政庁からの依頼である
サン・ベルナンド礼拝堂の祭壇画は、下絵の
段階で放り出し、フィレンツェ郊外の修道院
の仕事も素描の途中で放棄しています。
この辺りの話は、
『ダ・ヴインチの罠 非常識』
でも紹介しましたが、こうした行為の裏には
我が道をただひとり行くが如き孤高なる
無頼漢の影が見え隠れするのです。
但し、それは「ならず者」という意味
ではなく、「単孤無頼の独人」であり、
アウトサイダーやドロップアウトとも違う
ダ・ヴィンチ流の奥儀なのかもしれません。
しかし、
それは「精神的」という意味においての
ことであって、経済的・政治的にはパトロン
(権力者)たちの庇護のもとにあったわけです。
チェーザレ・ボルジア
円熟期(50歳頃~)のパトロンである
チェーザレ・ボルジア(1475-1507)には
「建築家兼技術総監督」として招聘され、
多くの兵器を考案しています。
ウィトルウィウス的人体図 mnsatlas.com
以前に、
ダ・ヴィンチをリアリスト(現実主義者)
だと評しましたが、偽善と欺瞞の塊の
ような日本的リベラルとは違う、寛容
で啓蒙的であるとする本来の意味
でのリベラリスト(自由主義者)であり、
いい意味での「天邪鬼」なのです。
但し、こちらの場合も自分に対して寛容
であって、未来に対して啓蒙的である
というだけで、名うての「天邪鬼」で
あることに変わりはありません。
「天邪鬼」ということであれば、
というサブタイトルの記事もありますので、
よかったら覗いてみてやってください。
さて、
前置きの段階で、ダラダラと余計な紙幅を
使ってしまうのが悪い癖のようですので、
さっさと本題に入いることにしましょう。
ペテロが握るとされているナイフの
真の持ち主はヨハネであって、
隠し持ったナイフで、いよいよ本懐を
遂げようとしたその刹那に、ペテロが
「なにをする !」とばかりにユダの
背後から蛇のように長く伸びたヨハネの
手首をむんずと掴んだ決定的瞬間の
スナップショットであるとするのが、
時空劇における『最後の晩餐』での
第一義的な見立てなのですが、
言わばそれは、時空や次元を超えた
思考実験的な描写とでも言うべき
チャレンジであると ・・・
『ダ・ヴィンチの罠 蓋然性』
のなかで解説をしました。
それは、ヨハネに射影(投影)された
『最後の晩餐』のヨハネ『岩窟の聖母』のマリア
聖母マリアとマグダラのマリア
の姿を影として写しているわけですね。
マグダラのマリア
ところで、
この場面が二人のマリアの射影
だとして、狙われた相手は誰でしょうか
ユダでしょうか ペテロでしょうか?
それとも ・・・
要するに、それが「罠」の肝に直結
する動機のひとつになっているのですが、
紙面の都合上、
ここでは触れないでおきましょう。
なぜなら、
その前に明らかにしなくてはならない事柄
がいくつもあるからですが、
目線
(アナモルフォーズ(歪像画)への挑戦)
そのひとつがアナモルフォーズ
(歪像画)に関しての考察です。
アナモルフォーズ(歪像画)とは、
対象を斜めの角度から見た場合や特定の
角度から眺めたときに正常なかたち(像)と
なるような、あるいは鏡(円筒の鏡)などに
投影させることで「像」を浮かび上がらせる
技法で、デビュー作:『受胎告知』
において、すでにその技術の応用が
なされていたわけです。
詳しくは、
を参照してください。
この左右に間延びした落書きのような線は
アナモルフォーズ形式で描いた幼児の顔で、
下の画は幼児の顔と眼を描いたものですが、
眼の完成形が上に小さく示されていますね
幼児の顔と眼の素描(アナモルフォーズ仕様)
この落書き風のスケッチを特定の位置から
角度を変えて眺めて見ると、
「美の巨人たち」からの引用画像
「レオナルド・ダ・ヴィンチ『受胎告知』」
幼児の顔が出現するというわけです。
ダ・ヴィンチはこうした手法のトリックを
デビュー作以外にも、必ずどこかで採用して
いるはずなのですが、『最後の晩餐』
のほかには、それに該当するような作品が
見当らないのです。
そして、その可能性を秘めているのが、
ペテロの手にあるとされる「ナイフ」
を握っているヨハネの手であって、
その尋常ではない長さとなるヨハネ
の腕が、ある特定の位置や場所から
眺めた時に人間の腕として違和感なく
自然に見えるポイントがあるとすれば
『最後の晩餐』左斜め kubogen.com
そこにアナモルフォーズの応用が
あったと考えられるわけで、
『最後の晩餐』左斜めからの視点(大塚国際美術館)
そのポイントを探そうということです!
歪像画は通常の遠近法での「消失点」
にあたる位置に視点を置いて眺めるのが、
一般的なのですが、
ダ・ヴィンチの場合には、歪像画といっても
普通に歪みのないあたりまえの情景の中に、
そのポイントを作っているわけです。
つまり、それが思考実験的な描写で
あるとした理由でもあるのですが、少なくとも
そのポイントは二つあると考えられます。
これも「罠」の根幹に係わってくる内容を
含みますので、ここでの紹介は控えますが、
二つあるポイントのうち、我々が見る
ことができる場所は一箇所だけです。
このことをヒントにして、皆さんも、是非
「探してみてくださいネ」
要は、残されていた手稿類の中に、
このような素描があるという背景には
そうした理由があったというわけです。
ダ・ヴィンチは「謎」を解く手懸かりとして
その道標(みちしるべ)となるべき 厖大な数
の手稿や素描を残しています。
彼の素描のなかで、目立って多いのが
顔のコレクションで、これでもかという
グロテスクな顔が特に好みのようで、
変顔フェチと錯覚してしまうほどに
充実したラインナップを誇っています。
この辺りの事柄については、
『ダ・ヴィンチの罠 美意識』
を参照してみてください。
次いで、
体の動きや人体解剖図などの筋肉、骨格、
動作、運動といった描写が続きます。
人物や構図、解剖図、設計図、レイアウト
(配置・割り付け)等に関する素描の多さに
比べて、単体の部位、それも特定の作品に
おける特定の人物の部位は極めて少なく、
これらが何らかのカギを握っているのは
想像に難くありません。
そして何よりも手懸かりになりそうなのが
単体の「手」や「腕」の習作です。
「手」や「腕」、その他のデッサン
で『最後の晩餐』に関係するものは、
以下の通りです。
まずは、ユダの右手のデッサンですが、
ペテロの右腕が描かれている(黒枠内)『ユダの右手の習作』
ここから考えられる事柄としては、
ペテロとユダの右手が同時に構想されて
いることや巾着の口の部分がナイフの柄頭
のようにも見えることからも「ナイフ」を
握るかのようなペテロの右腕とユダが持つ
巾着袋には「罠」が仕掛けられている
と推理・推察するのが妥当でしょう。
続いては、ヨハネの組まれた両手です。
手前に組まれた両手は、如何にも、
「しっかりと結ばれている」とでも
言いたいのでしょうが、却ってその
雄弁さが仇となっている気がします。
そして、
トマスのものされるテーブルの縁に
そっと添えられた左手は、
移動するヨハネを想定したものと
推理しました。
さらに言えば、
ペテロの右腕の習作
ナイフを持つかのようなペテロの右腕の
習作ですが、
ユダの右手とペテロの右腕の習作には、
肝心の巾着袋とナイフそのものはまったく
描かれていません。
これらはすべて重要なカギとなる部位で
あって、手懸かりにもなれば、落とし穴
へと誘導するエサ(誘引剤)にもなります。
おそらく、それは描く
必要がないから描かなかったのではなく、
描くことができなかったということの方が
より真実に近いのではないでしょうか。
もし、
袋とナイフを描いてしまったとしたなら、
ユダはユダだとして固定されてしまいます
し、ナイフを握っているのはペテロである
と決定付けられてしまうからです。
他にも、
大ヤコブの左手とされる習作があります。
大ヤコブの左手と思われる習作
この左手の習作については、
ユダの左手だとか、イエスの反転した右手
であるとも、言われることがありますが、
空の皿に同時に手を伸ばしているユダと
イエスが抱く思惑とは何だったのか?
妙に引っ掛かってきますよね
また、
この手は『岩窟の聖母』でのマリアの
左手であるとも言われていますが、
ルーブル版とロンドン版では微妙に違います。
いずれも「罠」の落とし穴に誘うが
如き、迷宮へとつながる謎の部分です。
繰り返しになりますが、
手前に組んだヨハネの両手に至っては、
何かを拒むかのように固く結ばれ、
愛する弟子と師であるはずのヨハネと
イエスは何故か、反目しあうように互い
に距離を置いています。
「わたしは、お前と女の間に、また、お前
の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼は
お前の頭を砕き、お前は彼の踵を砕く」
(創世記 3:15)
イエスとヨハネのそれぞれの手は、
片や回内の手と回外の手に分けられ、
回内(右手)と回外(左手)のイエス
出典:hatenablog.com
片や両手は固く組まれ(結ばれ)ているのです。
いったい何があったというのでしょうか?
20200807mospronunciation-w640
これらの単独の部位で、尚且つ、特定の
作品を思わせる素描は非常に少ないうえに、
それがなぜか『最後の晩餐』での、
しかも、どれも謎に密接に関連する部分で、
微妙に怪しく疑わしいかたちで残されている
ことは、何を意味するものなのでしょうか?
いわくつきのアリバイ作りや誤まった方向へ
と誘導する布石や伏兵のような役割を担って
敷設され、準備されていたものであったとしか
小生には思われません。
『最後の晩餐』は教会の改装工事の
最終段階でのフィナーレを飾る壁画として、
ミラノ公 ロドヴィコ・スフォルツァにより委嘱
されたものですが、その作業を見ていた者の
証言によれば夜明けから日没まで一心不乱
に描き続けることもあれば、数日間、まったく
筆をとらないこともあったそうで、数時間以上
、ただ作品を眺めていたり、別の仕事場から
突然やってきては、一筆、二筆、手を加えた
かと思うとまた突然去っていったとか ・・・
この辺りの詳細については、
『最後の晩餐 CGの謎』を参考に、
手の習作の「謎」については、
『ダ・ヴィンチの罠 謎の手』
を参考にしてみてください。
はてさて、
「無頼漢」レオナルド・ダ・ヴィンチの
腹の中にはどのような含意と思惑が
あったというのでしょうか?
その腹蔵をさぐるべく、
次回では持ち越しとなっている矛盾点
(ナイフの持ち主がヨハネであるとした場合
に起こる2本の右腕の謎)について、
自然界を席巻するフィボナッチ数列
におけるスパイラル(螺旋)の謎と、
ウィトルウィウス的人体図との関係性
から紐解いてみたいと考えます。
なにぃ !!
「腹を弄(まさぐ)るじゃとぉ」
「腹蔵(腹に隠すもの)を探るんです」
「なんて助平な奴ヤツラなんじゃ」
「腹の中(謎)を解明するんですよ」
「無礼じゃ、それで『無礼漢』かあ」
NO!
「無頼漢(頼らない男)です」
「どうでもいいけどよぉ」
「オレの話、いつになるのかなァ」
出典: www.lets-bible.com
(第三幕からだと)(思うんだけど・・・)
… to be continued !!