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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 十字軍

 〝十字軍の遠征〟を『ダ・ヴィンチの罠』仕様で解剖
してみようと思い立ったまではよかったのですが、都合
7回~8回にわたる遠征のすべてを網羅することは困難
な作業であるとすぐに気づきました。

 そこで、まずは、遠征にいたる経緯についての簡単な
流れから見ていきたいと思います。

 イエスの死後、30数年が経過したAD1世紀の後半に
エルサレムの崩壊を目の当たりにする第一次ユダヤ戦争
(AD66年-73年)が勃発し、ディアスポラ(民族離散)の
兆しが見え始めます。

ユダヤ人の年表-古代 | 世界の歴史まっぷ
『エルサレム神殿の破壊』フランチェスコ・アイエツ画 

 しかし、 


  『エルサレムの包囲と破壊』デイビット・ロバーツ(1850年)

 ローマ帝国は反乱軍(第一次ユダヤ戦争)の制圧後も、
ユダヤ人がイスラエルの地に住むことを認めていました。


           「バル・コクバの乱」 japaneseclass.jp

 AD2世紀の前半になるとユダヤ人たちは、ふたたび
バル・コクバの乱(第ニ次ユダヤ戦争AD132年-135年)を
起こし、またもや失敗を繰り返してしまうのでした。

バル・コクバの乱 - Bar Kokhba revolt - JapaneseClass.jp
        「バル・コクバの乱」 japaneseclass.jp

 そこで、

 ローマはついに、イスラエルの地からユダヤ人の追放
を考え始めたのです。

 まず、手始めに、

 エルサレムを、「アエリア・カピトリーナ」と改称し、
ユダヤと呼ばれていたイスラエルの土地を「パレスチナ」
と改めました。

 そして、

 離散を余儀なくされたユダヤ人は、ヨーロッパや中東、
北アフリカなど地中海周辺各地に移住して行ったのです。

 離散地では、ユダヤ人の生活・信仰の規範となるべき
法典としての「ミシュナ」(AD2世紀ごろ)、さらに
その注解である「エルサレムタルムード」(4世紀末)と
「バビロニアタルムード」(5世紀末)が編纂されます。

 ユダヤ教はかつての神殿祭祀ではなく、ラビの指導に
よる「タナハ」(ヘブライ語聖書)や「ミシュナ」および
タルムード」の研究解釈という新たなシステムを確立
していきました。

 また、各地に、

     
      シナゴーグ ja.wikipedia.org

 祈りの場としてのシナゴーグを建設して、ユダヤ教の
信仰と民族のアイデンティティを守り続けました。

 特に「安息日を守る、割礼を行う、食事規定」という
ユダヤ教の定めである厳密な戒律は、他宗教との軋轢を
生みましたが、ユダヤ人が他民族との同化によって消え
てしまうことを防ぐ重要な役割を果たしていました。

 313年にローマ帝国のコンスタンティヌス帝によって
キリスト教が公認されて以後、パレスチナは4世紀から
ビサンチン帝国(東ローマ帝国)の統治下に入ります。


         コンスタンティヌスの洗礼 wikipediaより引用

 キリスト教が公認されると、

 ユダヤ人たちは「キリストを殺した犯人」と言う名目
のもとに、殺害、暴行、略奪、職業の制限などの迫害を
受け始めることになるのでした。

 7世紀半ばから13世紀まで、西アジアから北アフリカ、
南ヨーロッパ一帯を、イスラム教帝国が支配しました。

 また、

 ムハンマドが、エルサレムにおいて昇天したとされた
ことから、エルサレムはイスラム教の第3の聖地となり
、エルサレムの神殿跡にはイスラム教の寺院が建てられ
ることになります。


          『岩のドーム』 upload.wikimedia.org

 これが現在の黄金に輝く「岩のドーム」です。

 このようにして、

 
       「岩のドーム」 israel.motochika.jp

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教のいずれの宗教も
「神」から与えられた約束の継承者が自分たちであると
主張する図式が出来上がるのでした。

 しかしながら、

 イスラム教は当時、ユダヤ人には比較的寛容な政策を
取っていたために、イスラエル(パレスチナ)の地には
多くのユダヤ人たちが住むようになります。

 こうして、11世紀になると、


          十字軍の遠征 history-maps.com

 キリスト教徒たちは「異教徒からの聖地奪還」を目的
とする十字軍を組織し、エルサレム奪還のための遠征を
開始し始めるのです。 

第一回十字軍
          第一回十字軍の遠征 history-maps.com

 直接的に言えば、異教徒とは、当時パレスチナを支配
していたイスラム教徒を指しますが、そこにはユダヤ人
たちも含まれていました。

 ですから、当然のことに、

 キリスト教徒たちは、聖地に行く途中において、多く
のユダヤ人を殺害したのでした。

 
          十字軍の遠征 shikaoichurch.com

 AD1099年に、十字軍の本隊は聖地エルサレムに到着
しますが、エルサレム及び周辺の街々でもイスラム教徒
とともにユダヤ人は虐殺され、当時パレスチナに住んで
いたユダヤ共同体は、消滅したと言われています。

 この後、ユダヤ教徒とキリスト教徒の交際が禁止され、
ユダヤ人に対する公職追放令が出されるなど、ユダヤ人
の職業選択の自由が制限されていきました。

 わずかに選ぶことのできた職業の一つが、汚れた職業
である金融業でしたが、それが後において、ユダヤ人は
「金に汚い高利貸し」と見られる原因になったのです。

      
  ベニスの商人(シャイロックとアントニオ)ja.wikipedia.org

 13世紀になると、

 ユダヤ人たちはさらに自由を制限され、スペインなど
では、「改宗するか、他国に移住するか」の選択を強要
されました。

 やむなくキリスト教徒となったユダヤ人もいましたが
彼らはマラノ(スペイン語で豚の意)と呼ばれ、改宗の
後も侮蔑と差別の対象となり続けていたのです。

  また、

 カトリックは異端審問制度を確立させ、ユダヤ人たち
が少しでもユダヤ的な風習を守ったり、ユダヤ教で禁止
されている豚を食べなかったりするだけで、拷問や火刑
など残虐な刑罰が科せられました。 

画像
     異端審問を受けるガリレオ・ガリレイを描いた19世紀の想像図

 こうした制度は1801年まで続いたのです。

 13世紀の後半からは、ユダヤ人を追放しなかった国々
でも、ユダヤ人の隔離政策が執られるようになり、各地
で後に「ゲットー」と呼ばれるユダヤ人の隔離住居区が
作られました。

 しかし、1789年のフランス革命の後、フランス議会で
ユダヤ人にも平等の権利が認められます。

 その後、ゲットーは解放され、その流れはヨーロッパ
各地へと広がって行きました。

 各地のゲットーは解体され、 職業選択も規制を解かれ
て 各界にユダヤ人が進出し、ユダヤ人たちの社会構成も
激変していきました。

   
     ハスカラの運動家(マスキール)

 これを啓蒙運動「ハスカラ」と言います。

 しかしながら、

 現実的にはユダヤ人への差別は解消されず、反ユダヤ
主義と民族主義のもと、かえってひどいユダヤ人迫害が
各地で起こりました。

 ロシアでは、1881年からポグロムと呼ばれるユダヤ人
大虐殺が何度も起り、犠牲者は数十万人に及んでいます。

レイド・ポグロム」、1907年。
       レイド・ポグロム 1907年  www.meisterdrucke.jp

 また、1894年には、

 フランスのユダヤ人士官アルフレッド・ドレフュスが、
スパイ容疑で逮捕されるという「ドレフュス事件」など
が起こります。

 これは彼がユダヤ人であったため、犯人にでっちあげ
られた冤罪事件でした。

 このような背景を受けて、ユダヤ人たちのあいだから
、ユダヤ人の国家建設を目指す運動が起こってきます。

 この運動は、「シオンの丘に帰ろう」と言う合言葉を
スローガンにしたことから『シオニズム運動』と 
呼ばれています。

     
   テオドール・ヘルツル ja.wikipedia.org

 1897年には、テオドール・ヘルツルの呼びかけにより
、第1回世界シオニスト会議が開催され、パレスチナに 
ユダヤ人国家を建設することが決議されました。

 その後19世紀末から20世紀初頭にかけて、ポグロムを
逃れたユダヤ人やヨーロッパからの移民が、パレスチナ
の地に住み始めました。

 第一次大戦後、パレスチナの地はそれまで続いていた
オスマントルコ(イスラム教国)の支配からイギリスの
委任統治領となります。

 荒れ果てていたイスラエルには、多くの人々が集まり、
活況を呈してきました。

 イギリスは1917年に、ユダヤ人の国家再建を約束する
「バルフォア宣言」を行います。


            バルフォア宣言 parstoday.ir

  しかし、

 イギリスは「バルフォア宣言」以前にも、アラブ側に
対して同じような取り決めである「サイクス・ピコ書簡」
を行っていました。

 さらに、

 イギリスはフランスとロシアに対しても、旧トルコ領
を「自分たちだけで分割しよう」と持ち掛けています。

 こうした、当時の三枚舌政策が、100年以上にも及ぶ
 今日の「パレスチナ紛争」の火種となっていきます。 

 このような中で、第2次世界大戦において、ドイツで
政権を掌握したナチスが、ユダヤ人を滅亡させるための
組織的、かつ計画的なユダヤ人の虐殺(ホロコースト)を
行いました。

ヒトラーとナチス: 悪の審判 | Netflix (ネットフリック ...
        ヒトラーとナチス:悪の審判 www.netflix.com

 死の収容所と呼ばれる施設で、数百万人を殺害し、炉
で死体を焼くという前代未聞の計画が実施されたことは、
よく知られています。

 俄(にわ)かには信じがたいこの虐殺事件の背景には、
キリスト教が長年の期間に積み上げてきたユダヤ人への
差別感情があって、当時のヨーロッパでは、ユダヤ人は
動物と同等の存在だという空気があったのでした。

   
   ワルシャワ・ゲットー蜂起当時のユダヤ人 

 おっと、いかん、いかん!

 いつしか、十字軍による遠征の話が『反ユダヤ主義』、
『シオニズム運動』からユダヤ人に対するホロコースト、
果てはナチスやヒトラーにまで話が及んでしまいました。

 取り急いで、タイトル(副題)である「十字軍」
話題を戻したいと思います。

 さて、

 十字軍(12~13世紀)は、名目上、聖地エルサレムを
イスラム教徒から奪還しようとする 一大ムーブメントで
あったわけですが、

 大抵の場合、十字軍の兵士は聖地奪還よりも戦利品が
目的だったりしますので、戦いが終われば土産を抱えて
さっさと故郷に帰っていきました。

 ところが、

 奪い返した聖地を守ろうとした敬虔なキリスト教徒も
少数ながら存在していました。

 彼らは、修道士の誓願を立てると同時に、「騎士」と
しての資格も合わせ持ち、聖地の防衛と巡礼者の保護に
あたりました。

 そんな彼らを宗教騎士団(Orders of Knighthood)と
呼びます。

 騎士というと、忠誠心、武勇、礼節、弱者や女性ヘの
労(いたわ)りといった「騎士道」に象徴される高潔な
精神を持った兵士というイメージを抱きますが、

 「騎士団」を、英語で〝order〟と呼ぶように、 

 確かに「秩序」や上下の「序列」を重んじる騎士たち
の集まりは結社ということになるでしょう。

 ところが、

 いわゆる「世俗」の(戦うことだけが仕事の)騎士団
というものは中世ヨーロッパには存在しなかったのです。

 それは、どういうことかと言うと!?

  
   ・・・・ ・・・・       ふむふむ  (^▽^)(^^ゞ  

 漸く話が佳境に入ったとこで大変に申し訳ないのです
が、なにやら内容的に長くなりそうな気配がしますので
今日のところは、これで一旦、終わりとします。  

 次回においては、

 「騎士道」か「騎士団」あるいは「唯名論」などの
テーマに照準を合わせて、『ダ・ヴィンチの罠』風味
での解説にチャレンジしてみたいと考えています。

 なお、蛇足ですが、

 十字軍の遠征を大雑把にあっさりと言ってしまえば、

 一方的で、独善的で、排他的であり、独断と偏見に
満ちた侵略行為にして、ややもすれば「唯名論」なる
イデオロギーに貫かれた現代におけるグローバリズム
につながるムーブメントであったように感じています。

 畢竟するに、

 彼らキリスト教徒たちは、あらゆる意味において、
「十字軍」(クルセイダー)だったのです。

  その昔、子供の頃、駅前商店街などの街頭
 に傷病兵(傷痍軍人)の人が立っておってのぅ。 

  白衣にアコーディオンを抱えて「〇〇十字軍」
 やら「〇〇赤十字」とか、書かれた箱を首から
 下げて物乞いをしていた姿を覚えておるんじゃ
 が、あの人たちはどうなったんじゃろうか?

 
   「戦争って罪つくりよね!」

     ま、まさか、お前さん!
 
  「従軍看護婦じゃあるまいな」
 ええっ  
 
ZionismNazism(シオニズムはナチズムよ)」
 
      そ、そっち なの?
 
     ・・・ って、おいおい、
  
  (イスラエル軍やネタニヤフのことか?)
 GLO1IDZX0AAbMDe.jpg
        Nazism =Zionism(シオニズム=ナチズムだ!)X.com         
 
      風雲急を告げる現在社会、多分に「ナチズム」的なものかも
   藤原直哉 on X:
                        Nazis & Israel(ナチスとイスラエル)X.com
 
             兎にも角にも、戦争は絶対に、

           画像元: domani.shogakukan.co.jp
           あかんのや!

        
       ・・・・ ・・・・         う~む  (^▽^;)(^^ゞ  

     
           そうだよなぁ! 

       symbol2 ダ・ヴィンチの推理は、まだまだ続きます。

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 1291年のアッコン包囲戦を描いた油絵。城壁上でメイスを振り上げる赤い外衣が聖ヨハネ騎士団員
  その横で槍を振るう白い外衣がテンプル騎士団員である。1845年、ドミニク・ルイ・パプティ作
             画像元:ja.wikipedia.org


            画像元:www.irasutoya.com

反プーチンデモ

           そして、プーチンもまた、ヒトラーなのか?

       … to be continued !!

 

コメント一覧

小吉
今までの記事の中で一番分かりやすいかもしれない。

ユダヤ人からしたら溜まったもんじゃない歴史。

宗教戦争において昔から疑問だったのはその戦争をキリストやムハンマドは「どう思っているのか?」ということです。
あるいは神様はどう思っているのか。

そもそものところ「約束の地」とか「他の神を信じてはだめです」とか言ってしまうから争いになってしまうのではないだろうか。

そう思うと、神様というものが完璧でないように思えます。

直感的に言うと、キリスト教などが信じる神は、

本当は「大悪魔」なんじゃないかとさえ思えます。

でもたぶんイエス・キリスト、あるいは洗礼者ヨハネは人類が行ってきた宗教戦争を望んではいないのではないかなと思ったりします。
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