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透明人間たちのひとりごと

ダ・ヴィンチの罠 利己心

 キリスト教では、殺人鬼であろうと、大強盗だろうと
強姦魔にしても、悔い改めさえすれば罪が許されて天国
に迎え入れられます。

 それまで、何をしようと最後の最後に神の前にその罪
を告白して赦しを受けさえすれば、最終的には天の御国
に入れるのです。

 その信仰によって罪を赦され、天国に行けるのです。

 これは、すべてのキリスト教の宗派に共通の教えです。


  キリスト教のイメージ(Photo Adobe Stock)出典:diamond.jp

 symbol2「罪の赦し」はキリスト教の基本ですから。   

 イエスの十字架の死と復活を信じて、洗礼を受けると
、罪の上に新しく永遠の生命(いのち)が上書きされて
新しい人間に生まれ変わり、洗礼を受ける前のいかなる 
罪も許されて帳消しになります。

 たとえ、何人の人間を殺そうとも、どんな悪だくみを
仕組んでいたとしても、神の御前においては赦されます。

 仮に、その後、再び罪を犯したとしても、最後の最後
に悔い改めれば、死後、救われ=赦されて、天国に行く
ことが出来るのです。

 その良い例というよりも、むしろ、レアな事例となる
出来事がイエスの処刑時に起こります。

 西暦30年4月7日朝9時頃、イエスはエルサレムの外れ
にあるゴルゴタの丘で、十字架に磔にされました。

 
         磔刑(十字架刑)objapan.org

 その時、一緒に磔刑をうけていた強盗のうちの一人が
「おまえが救世主なら、自分と俺たちを救ってみせろ!」
とばかりに口汚い言葉をイエスに浴びせかけました。

  その顛末を『ルカの福音書』で見てみましょう。 

 十字架に架けられた犯罪者の一人は、イエスを罵り、 
「おまえはキリストではないか。自分と俺たちを救え」
と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。

「おまえは神を恐れないのか。 おまえも同じ刑罰を
受けているではないか。俺たちは、自分のしたことの
報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、
悪いことを何もしていない」 そして言った。

「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を
思い出してください。」 イエスは彼に言われた。

「まことに、あなたに言います。 あなたは、きょう
わたしと共にパラダイスにいます」

    (ルカの福音書 23章39-43節)

 この男は、もう一人の処刑者をたしなめた強盗犯で、
その名をディスマスといった。彼は「この方は何の罪
も犯していない」とイエスの無罪を認めるだけでなく、 
イエスから問題となる発言を引き出したのです。

 魂の叫びを吐いたディスマスに、イエスは十字架上
で、やさしく微笑みます。

「まことに、あなたに言います。 あなたは、きょう
わたしといっしょに天国に入ります」

 イエスは、このディスマスという強盗犯に対して、

 
   聖ディスマス hoarun.web.fc2.com

「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」 
とばかりに天国行きを確約したことで、ディスマスは
例外的に聖人認定され、のちに「善良な強盗」という
称号で呼ばれることになります。

 強盗の罪を犯し処刑されながら、聖人となった男は
歴史上ほかに見つけられないわけで、大逆転の人生を
まっとうしたとも言えるでしょう。

 しかし、問題は彼に天国行きを確約したことです。

 「罪の赦し」はキリスト教の基本中の基本ですが、

        

 イエスの十字架の死と復活を信じて、洗礼を授かる
と罪の上に新しく永遠の命が上書きされて新しい人間
に生まれ変わり、洗礼を授かる前のどんな罪も許され
て帳消しになる、というのが「罪の赦し」のはずです。

 ディスマスは例外的に聖人に認定されただけでなく、
まだ生きている時に、特例的(最後の審判を受ける前)
に天国行きを確約されたのです。

 強盗でありながら、死を経験する前に彼の天国入り
をイエスが確約したことから聖人と認定され、のちに
は「善良な強盗」という、言葉としてはどうにも矛盾
する称号で呼ばれることになるわけです。

 これをご都合主義と呼ばずして、何と言ったらいい
のでしょうか?

   さもあれ、           

 エルサレムの郊外にあるゴルゴタの丘で、イエスは
十字架刑に処せられました。

 それは、

 西暦30年4月7日金曜日の午前9時のことでした。

(処刑中に日蝕があったとの『新約聖書』の記述から
日付の特定が可能ですが、これには異説もあります)


   三本の十字架 yamanashichurch1909.blogspot.com

 多くの見物人が見守る中、イエスの左右には、二人
の強盗が十字架に磔にされました。

 『新約聖書』には、強盗の名は記されていませんが
4世紀頃に成立した外典の『ニコデモの福音書』には
二人の強盗の名前は、ディスマスとゲスマスである旨
が記されています。

 この『ニコデモの福音書』には、実に興味深い話が
載っています。

 キリスト教の考えでは、イエスより前に亡くなった
聖徒(義人=正しい人)は全員が、まだ天国に昇って
おらず、「陰府」とされるリンボ(辺獄)という冥界
にとどまっていると考えられています。

 『ニコデモの福音書』では、十字架上で亡くなった
イエスが陰府に下って、アダム、アブラハム、ダビデ、
イザヤ、洗礼者ヨハネなどの死者(すべての義人たち)
を天国へ引き上げ、代わりにサタンを冥界につなぐ話
が書かれていますが、そのときに案内役を務めたのが、
「善良な強盗」ディスマスだったと伝えられています。

 もちろん、それは、

 現代人である我々の感覚からすると信憑性の乏しい
物語のように感じますが、そうした物語が人々の人気
を集め、連綿と語り継がれてきたのは、そこに大衆に
よる「(ディスマスが活躍する)そんな話があったら
いいな?」というような素朴な願望があったからでは
ないでしょうか!?

 それにしても、強盗の罪を犯して処刑されながらも
十字架上で、イエスから天国行きの確約を取り付けて
聖人となり、すべての義人たちを案内する役目までも
務めあげてしまったディスマスは果報者であり、人生
を大逆転させた男として、歴史上ほかに類例を見ない
存在かもしれません。

 また、


    『エジプトへの逃避行』カルロ・マラッタ

 ヘロデ大王によるイエスの殺害計画を天使のお告げ
によって知った聖母マリアとヨセフが、赤子のイエス
を連れてエジプトへ逃げる途上で強盗に遭遇しますが、
その中にディスマスがいて助けられた、という伝承が
残されています。

 その物語でイエスはディスマスに、「あなたは将来、
わたしといっしょにエルサレムで十字架につけられる」
と預言したと伝えられているのですが ・・・

         
 (イエスは赤ん坊のはずだけど、喋れたのかな?)

 それはそうと、

 イエスと共に十字架に架けられた、二人の犯罪者の
うちのひとりであったディスマスはイエスを神の子と
認め、罪を告白し悔い改めて、イエスの口から直々に
天国行きを約束されるわけですが、

 ディスマスとは聖人名簿に載せるために付けられた
仮の名前であって、本名は不詳であると言うのが実際
のようです。 

 正教会においては、特に名前では記憶されておらず
単に「右盗」(うとう)とのみ呼ばれています。

 イエスが両親と共にヘロデ大王の魔の手から逃れて
エジプトに向かう途中で強盗に遭う話の他にも、一夜
の宿を貸した家の息子だったという伝承もあります。

 こうした、「イエスの冥府めぐり」の逸話にしても
「十字架上での預言」や「エジプトへの逃避行」の際
の出来事にしても、誰にも証明できない余聞であって
、その真偽のほどは不明ですが、小生は後世の人間に
よる追加(加筆)であると思っています。

 おそらくは、ダ・ヴィンチもそのように考えていた
ものと思われるのですが ・・・

 さて、

 常日頃から『旧約聖書』の神を狭量の持ち主である
と感じていたダ・ヴィンチは、特に「失楽園」に至る
経緯に大いなる疑問を抱いていました。

 いわゆる、原罪を負うシーンです。

 蛇の誘惑は確かに狡猾ですし、その結果として蛇は
嘘をついてしまうことになるわけですが、そもそも蛇
には嘘を言う必要などなかったのです。

  
     『原罪アダムとエヴァ』 部分

 アダムとエヴァが神に従わなかったという事実だけ
が欲しかったのです。

 神へのささやかな抵抗や反抗の軌跡を神に見せつけ
たかっただけなのです。

「わたしがあなたたちを土の塵から造ってあげたのに
決して食べてはいけないと命じておいた善悪を知る木
の実を食べてしまうとは ・・・(何と嘆かわしい)」

 そう神に言わせてみたかったのです。

 神に一泡吹かせてやりたかっただけのことが、楽園
から追放されて「死を賜る」という大袈裟な原罪事件
へと発展してしまったのは、蛇としても予想外の展開
であったとダ・ヴィンチは感じ取っていたのです。


   失楽園 ameblo.jp      アダムとエヴァ?

 本当の意味で

 神はアダムとエヴァを愛していたのでしょうか? 

 そこに、

 「利己心」や「支配欲」は、なかったでしょうか?

 ダ・ヴィンチには「愛」ある存在の物言いや振る舞い
だったとは、到底のことに思えませんでした。

 「愛」とは、見守り育てるもので、見返りを求めない
もののはずです!

 親は子を愛しています。子を愛する親は子にいろいろ
な制限を課すことがあります。

 たしかに、

 親は子の個性を伸ばすことともに、事故を避け、病気
を防ぐためにさまざまな制約を設けることはあります。

 横断歩道を渡る時には、左右をよく確認してから渡り
始めるように諭すことも、そうした制約のひとつです。


 手を上げて横断歩道を渡る子供 www.irasutoya.com

 「横断歩道があろうとなかろうとも、あなたを愛して
いるから道路はどうとでも好き勝手に渡りなさい」など
と言う親が果たしているでしょうか?

 最低限の常識をわきまえた大人(オトナ)として成長
できるように、してはいけないこと、なすべきことなど
を教えようとするでしょう。

 エデンの園にある2本の木を示し、それを禁ずるとは
まさに漢字の「禁」の字ですが、神が「善悪を知る木」
と「命の木」を置いたのは、そうした制限が目的であり、
いずれ彼らに与える予定であったとする意見もあります
が、ダ・ヴィンチには納得がいきません。

 しばしば人間は、愛と支配を混同させます。 利己的
な傾向に走った結果が支配につながるのです。

 それが、現在、

 言われるところの〝ネグレクト〟に匹敵(相当)する
怠慢なのでしょう。

 さて、ここで考えなくてはなりません。


     考える男のシルエット frontier-eyes.online 

 神が人間に制限を課すのは「利己心」からでしょうか?

 「利己心」は被造物が持つかもしれない心の状態です。

 より高い地位を渇望したり、より多くの所有物を所望
し、熱望することから生ずる欲望です。

 しかしながら、

 神は全能者であり、創造主である神は、 初めから最高
の地位にあり、 誰かから与えられないとやっていけない
ということもありません。

 変色したり腐敗する要素がまったくない存在です。

 ならば、

 神に 「利己心」など、あろうはずもないことは    
明明白白にもかかわらず、ダ・ヴィンチには神の狭量が
見えてしまうのです。

 人間を試したり、支配する「我欲」のようなドス黒い
汚いものがチラついて見えるのです。

     
       『旧約聖書』のエピソード www.newlifeministries.jp

 少なくとも、『旧約聖書』の神は実に嫉妬深く傲慢で    
怒りっぽく、しかも、怠惰であると感じます。

 平和と秩序は、人間の利益にならないでしょうか?

 現在の世界は、秩序立っていて平和な社会ですか?

 決して、そうとは言えないでしょう。

 善悪の区別が一定ではなく、いろいろな宗教や思想に
振り回されて、戦争や抗争や暴力を誘発しているのでは
ないでしょうか?

 それを、

 悪魔(ルシファー&サタンなど)の所為にして、体裁     
よく纏め上げたのが『聖書』であると、ダ・ヴィンチは
考えていたのかもしれません。

 しかし、いささか逆説的に聞こえるかもしれませんが、
だからこそ「そんな世界に必要なものが『聖書』であり、    
『神』なのです」と彼らは切り返してくるでしょう。

 彼らとはクリスチャンたちです。

 「人類および宇宙に存在する理知ある被造物のすべて
は神を中心とする秩序を学ばなければなりません」

 「それが完全な平和と秩序にいたるのです」と ・・・

  神の要求は負いきれない類のものではありません。

 アダムとエヴァの物語で言えば、

 園にある豊富な果実の中からたった1本の木の実を
避けさえすればそれでよかっただけのことですから。

 要するに、

 責任ある者の愛は、相手の福祉(幸せ)を希求して
制限を課すことがあるのです。 

 したがって、

「愛ある制限は過酷ではない」という結論に到達し、
アダムとエヴァは謂れのある原罪を負ったのです。

 そして、イエスは、

  
   『イザヤ書』53章 5節 www.bible.com

 その原罪を贖うために十字架につけられたのです。

 

 『聖書』では、

 人類の歴史は「エデンの園」から始まります。

    
    『エデンの園』 出典:ameblo.jp

 そこは人類の苦難の始まりでもありました。


  

 なぜなら、

 それ以前にあった出来事としてのおぞましい記憶が
すっかりと消されてしまっていたのです。


       『アダムとイヴ』 ルーベンス画

 記憶を消去され、白紙の状態に戻された脳に、新しく 
上書きされた情報が装備され、何も気づかぬまま我々は
日々の暮らしを送らされているのかもしれません。

        【天地創造の六日間】


 第一日 第二日 第三日 第四日 第五日 第六日


  「わしがアダムであんたがエヴァじゃ」
  
   「ペテロ役や言うてるでしょ!」

   オッサン!!

 果たして、

 

 〝禁断の木の実〟をエヴァに手渡す者の正体は!?

        
      『原罪アダムとエヴァ』 部分

 下半身は蛇で、上半身は女性という異形な姿をして
いますが、実はこの蛇はアダムの前妻である「リリス」
の可能性があるのです。
 「リリス」は蛇と一緒に描かれることが多く、楽園
でのアダムとエヴァを誘惑した蛇がその彼女であると
され、何かにつけて蛇とは不可分な関係なのです。   

     
    『原罪・楽園追放』部分

 さて、それでは、ここで、問題ですが、

 果たして、彼女はエヴァでしょうか? 

 それとも、リリスなのでしょうか? 

 はたまた、別の人物のメタファでしょうか!?

 その答えは遠からずあきらかとなることでしょう!     

   
    マジか!          う~む  (^▽^;)(^^ゞ 


      (誰なんだろう?)

 ところで、聖母マリアとヨセフが赤ん坊のイエスを
連れてエジプトへ逃げるキッカケとなった事件である

 「幼児虐殺」は『マタイの福音書』2章16節~18節
にあらわれるエピソードです。

  
『幼児虐殺』ピーテル・パウル・ルーベンス(1638年)

 Wikipediaでの概要によると、

  

 占星術博士の星に関するエピソードの中で、博士たち
はユダヤ人の王を訪ねてきた。

     (マタイの福音書 2章 1節)

 
 

 ユダヤの王であったヘロデは、自分を脅かしうる者が
誰なのか、を調べるために策略を練り、帰りに立ち寄り
知らせるよう、博士たちに頼んだ。 博士たちが他の道
を通って帰ったことを知ると、

 「大いに怒った。 そして、人を送り、学者たちに
確かめておいた時期にもとづいて、ベツレヘムとその
周辺一帯にいた二歳以下の男子を一人残らず殺させた」

      (マタイの福音書 2章16節)


      『幼児虐殺』ピーテル・パウル・ルーベンス(1611-1612年)musey.net

 「大虐殺、みんな殺せば、恐くない」という
ことだったのでしょうか ・・・!?

 それとも、

 
          ビートルズ(アビーロード)nme-jp.com

 「横断歩道、みんなで渡れば怖くない」のか!?

 いやいや、それを言うなら、

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない!」
 
  横断歩道を渡る人のシルエット silhouette-illust.com

     あのぅ~、ひとりなんですけど ・・・
 

 … to be continued !!

   symbol2 ダ・ヴィンチによる推理はまだまだ続きます。

コメント一覧

小吉
宗教を教育だと捉えて、神という存在を作って、その神様と契約して、「神の子」となったとして、ところで「神の意志」とはなんだろうなみたいなことを考えました。

 自分が作った子(人間)が言うことを聞かないから罰を与えるとか一掃するとか、ずいぶん勝手だなあと思うけれど、結局のところそれは神様の「不完全さ」を表しているように思います。

 完璧なら、完璧な作品を作れってんだ!

 自分の思うようにいかなかいからって殺すとかどんだけ器が狭印だって思います。
「こんなんやだー」ってダダをこねておもちゃを壊す子どもみたいなものです。

 そのうえ「信じるものは救われる」とか、まるで「オレのこと好きでいてくれるんだったら可愛がってやる」なんて度量の狭い上司みたいなものだなと思いました。「オレのこと信じてくれないならクビな」って感じです。

 器小さい。

 
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