映画について
🌟🌟🌟☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
映画を批評するという行為について、または、その他。
2005年6月7日 映画
子供の頃、映画を紹介する仕事に就きたい思っていた時期がある。
中学の頃からずっとシネマ感想ノートをつけていて、出来がどうの脚本がどうのと、なんとも偉そうな事を書いていた時期もあった。
10代の後半から20代前半には投稿した文章が映画雑誌などによく採用されたりもしたし、映画関係の仕事をしている友達からも「やってみなよ、いけるよ」などと言われてすっかりその気になったもいたのだが、有る時ドカッと気がそがれてしまった。
あまりにつまらない映画を観続けてしまったのだ。
当時は何故かハリウッド大作が目白押しに来た時期で、そればかりを見ていた自分も悪いんだけど、こんな大味の底の浅い映画なんかと関り合うのは嫌だなぁと思ったら、映画を観るという行為そのものからも疎遠になってしまったのだ。
結局は、自分的に縁が無かっただけの話なんだがの。
んで、ある時こんな記事を読んだ。
70年代に日本に入ってきた香港映画は何故みんな英語バージョン
だったのか、という記事だったと思う。その頃はすでにジャッキー・チェン人気で彼の香港制作の作品は広東語が当たり前だったのだが、昔のカンフー・ブームの頃の作品は全部が間違いなく英語バージョンだったのだ。
子供心にも、とても変だった。
だけどその記事を読んで何故そうだったのかが良く理解出来た。当時ある映画会社の重役が戦争体験者でまだバリバリの現役で、中国=日本の領土なんていう信じられない考えをまだ持ってて「シナ語の映画は日本映画や」なんて言うもんだから洋画系列の劇場に配給出来無い。で、仕方なくアメリカにいってるバージョンを買った等の話だった。
バカか。ってね、今なら笑い話だけど、その当時は香港でも地元の広東語での映画が出来なくて、殆どが北京語の吹き替えだったっていうから、なんか考えてみたらトホホな時代だったんだよね。
あの時代の香港映画を見て「あんなツマラナイのは映画じゃないっ」とかバカにする友達も沢山いたのだが、今デジタル・リマスターされた作品を見直すと、へぇって思う物が沢山ある。まったくの別物なのだ。
要するに、今自分が見ている物って、本当にこれだけなのかなと、思うようになるのだ。
80年代にはデレクターズ・カットバージョンやら完全版やらがワンサカ出たが、それもやはり製作者側と会社側の軋轢で無理やり歪められてしまったせいだったんだなと、今なら思える。
そんな作品は山の様に有るはずだ。配給会社の思惑や、バックについてる黒社会の思惑やらも絡んでくるんだろう。
そんなもので変わってしまう作品の出来をトヤカク言うよりも、淀川長治氏の言った「どんな駄作からも、必ずひとつは勉強出来る。映画は人間の人生そのものなんだから」でいいと思うんだ。
好きとか嫌いとかでもいいしね。
イタリアン・エロの大家ティント・ブラス監督も映画「背徳小説」の中で「映画や小説は究極の覗き趣味」と主人公に言わせているが、私もそう思う。
みんな映画でその人の人生を覗き見せてもらって、自分自身を振り返ったりしてるんだからね。
蛇足だけど、個人的にはこのティント・ブラスが撮った「鍵」が、日本のどの監督が撮った「鍵」よりも面白く出来て居ると思う。原作者谷崎潤一郎に対する敬愛の精神に溢れていて、素直な感じだし。
ってね、こんなんでいいんじゃないの?
特殊効果の仕事をしていた時には、自分が関った場面がスクリーンに出て来ただけで「わーっ、あれヤッタ所だよね〜」なんて言って、作品の出来なんか関係なかった。
クリエーターじゃないわな、これでわ。
だけど、折角自分が命をかけて作り上げた作品を、それこそ「大人の事情」かなんかでズタズタにされてしまったら、その監督のプライドはどうなっちゃうんだろう。
出来上がったらそれはそれ、なのかなぁ。
きちんと作り上げて、「後は見た人の判断に任せます」って所までいければいいけど、そうではなく、まったく思いも寄らない形の物になってしまったとしたら・・・
次には、そんな作品の一例「冒険王」について書いてみようと思います。
中学の頃からずっとシネマ感想ノートをつけていて、出来がどうの脚本がどうのと、なんとも偉そうな事を書いていた時期もあった。
10代の後半から20代前半には投稿した文章が映画雑誌などによく採用されたりもしたし、映画関係の仕事をしている友達からも「やってみなよ、いけるよ」などと言われてすっかりその気になったもいたのだが、有る時ドカッと気がそがれてしまった。
あまりにつまらない映画を観続けてしまったのだ。
当時は何故かハリウッド大作が目白押しに来た時期で、そればかりを見ていた自分も悪いんだけど、こんな大味の底の浅い映画なんかと関り合うのは嫌だなぁと思ったら、映画を観るという行為そのものからも疎遠になってしまったのだ。
結局は、自分的に縁が無かっただけの話なんだがの。
んで、ある時こんな記事を読んだ。
70年代に日本に入ってきた香港映画は何故みんな英語バージョン
だったのか、という記事だったと思う。その頃はすでにジャッキー・チェン人気で彼の香港制作の作品は広東語が当たり前だったのだが、昔のカンフー・ブームの頃の作品は全部が間違いなく英語バージョンだったのだ。
子供心にも、とても変だった。
だけどその記事を読んで何故そうだったのかが良く理解出来た。当時ある映画会社の重役が戦争体験者でまだバリバリの現役で、中国=日本の領土なんていう信じられない考えをまだ持ってて「シナ語の映画は日本映画や」なんて言うもんだから洋画系列の劇場に配給出来無い。で、仕方なくアメリカにいってるバージョンを買った等の話だった。
バカか。ってね、今なら笑い話だけど、その当時は香港でも地元の広東語での映画が出来なくて、殆どが北京語の吹き替えだったっていうから、なんか考えてみたらトホホな時代だったんだよね。
あの時代の香港映画を見て「あんなツマラナイのは映画じゃないっ」とかバカにする友達も沢山いたのだが、今デジタル・リマスターされた作品を見直すと、へぇって思う物が沢山ある。まったくの別物なのだ。
要するに、今自分が見ている物って、本当にこれだけなのかなと、思うようになるのだ。
80年代にはデレクターズ・カットバージョンやら完全版やらがワンサカ出たが、それもやはり製作者側と会社側の軋轢で無理やり歪められてしまったせいだったんだなと、今なら思える。
そんな作品は山の様に有るはずだ。配給会社の思惑や、バックについてる黒社会の思惑やらも絡んでくるんだろう。
そんなもので変わってしまう作品の出来をトヤカク言うよりも、淀川長治氏の言った「どんな駄作からも、必ずひとつは勉強出来る。映画は人間の人生そのものなんだから」でいいと思うんだ。
好きとか嫌いとかでもいいしね。
イタリアン・エロの大家ティント・ブラス監督も映画「背徳小説」の中で「映画や小説は究極の覗き趣味」と主人公に言わせているが、私もそう思う。
みんな映画でその人の人生を覗き見せてもらって、自分自身を振り返ったりしてるんだからね。
蛇足だけど、個人的にはこのティント・ブラスが撮った「鍵」が、日本のどの監督が撮った「鍵」よりも面白く出来て居ると思う。原作者谷崎潤一郎に対する敬愛の精神に溢れていて、素直な感じだし。
ってね、こんなんでいいんじゃないの?
特殊効果の仕事をしていた時には、自分が関った場面がスクリーンに出て来ただけで「わーっ、あれヤッタ所だよね〜」なんて言って、作品の出来なんか関係なかった。
クリエーターじゃないわな、これでわ。
だけど、折角自分が命をかけて作り上げた作品を、それこそ「大人の事情」かなんかでズタズタにされてしまったら、その監督のプライドはどうなっちゃうんだろう。
出来上がったらそれはそれ、なのかなぁ。
きちんと作り上げて、「後は見た人の判断に任せます」って所までいければいいけど、そうではなく、まったく思いも寄らない形の物になってしまったとしたら・・・
次には、そんな作品の一例「冒険王」について書いてみようと思います。
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