ありのまま日記

マインドフルネスで今を生きる〜あるがままで〜


本書『禅マインド ビギナーズ・マインド』は、アメリカにおける禅の基礎を築き、今や世界24カ国以上で翻訳されている禅のバイブルだ。アップルのスティーブ・ジョブズが愛読した一冊でもある。著者である鈴木俊隆氏は、アメリカで12年間に渡って禅の普及に努め、多くのアメリカの若者が著者の元に通いつめたという。

 本書は著者がアメリカで行った説法をまとめたもので、禅の修行のポイント、禅の基本的な姿勢、禅に基づく生活術、禅に対する姿勢など、禅のエッセンスが詰まっている。本書を読み、禅マインドを身につければ、物事をありのままに捉え、自分自身の真の姿に目覚めることができるのではないだろうか。

 いま、世界中のビジネスパーソンが次々に、マインドフルネスやメディテーション(瞑想)を取り入れつつある。その背景には、先読み不可能な複雑に入り組んだ時代にあって、冷静に物事を判断したいという考えがあるのだろう。このマインドフルネスの基礎となったのが禅である。日本でもすでに、多くの政治家や企業経営者が禅の修行に取り組んでいる。

 平易な文章で禅の基礎が説かれた本書は、自分自身の本来の姿で充実した生き方を実践するためだけでなく、複雑さを増すビジネス環境で生き残っていくためにも、必読である。日本人として押さえておきたい一冊だといってもいいだろう。(木下隆志)


本書の要点
(1)初心を保てば、心は満たされ、守るべき教えは自然と守られる。
(2)坐禅において大切なのは、自身の身体が「今」まさに「ここ」に存在していると認識することだ。身体と心があるべきところにあると、他のすべてのものもあるべきところにあるようになる。
(3)坐禅で落ち着きを得たいならば、心に浮かび上がるイメージに惑わされないことだ。そのためには、自分の呼吸を数えることと、息を吸って吐くことに集中することが有効だ。
(4)ただなにも思考せずに座ることが禅の修行となる。

要約本文
◆ビギナーズ・マインド
◇初心

 禅の修行は難しいといわれるが、それは坐禅を組むことが大変だからでも、悟りを得るのが難しいからでもない。私たちの心と修行とを純粋な、混じりけのない状態にしておくことが難しいからである。

 初心は、それ自体で満ち足りているものだ。その状態を損ねてはならない。なにかを求める心が強くなりすぎると、心は満ち足りない状態に陥る。この状態になると、嘘をついてはいけない、倫理的に反することをしてはいけないなどといった仏の教えに背いてしまう。

 もし、あなたが初心を持ち、心が満たされた状態ならば、このような教えは自然と守られる。つねに初心を保つことは難しいものだが、これこそ禅において最も大切なポイントである。

【必読ポイント!】
◆正しい修行
◇姿勢

 坐禅を組むときは、左足を右ももの上に、右足を左ももの上に置く。この組み方を結跏趺坐(けっかふざ)という。

この姿勢で大切なのは、背骨をまっすぐ伸ばして、耳と肩が同じ線の上にあるようにすることだ。そして、肩は緩めて、頭を天井に向かって伸ばすようにする。横隔膜は下腹に向かって押し下げるようにしておく。そうすることで、身体や心のバランスを保てる姿勢ができあがる。最初は呼吸が不自然になってしまうかもしれないが、慣れてくれば自然に深く呼吸できるようになるはずだ。

 手は、中指の第二関節を合わせるように右手の上に左手を置く。両手の親指は軽く1枚の紙を挟むように合わせる。手のひらは、大切なものを持つときのように、楕円形に開く。親指をおへその上において両手を身体の前に置き、両腕は身体から少しはなす。わきの下にある卵を割らないようにするイメージだ。

 身体を前後、左右に傾けないようにして、自分の頭で空(そら)を支えるようにまっすぐ座る。この姿勢は、正しい心の状態を得るための手段ではない。この姿勢をとること自体が修行の目的なのだ。この姿勢を組んだ時点で、心はすでに正しい状態にある。

 それ以外の状態を得ようと思う必要はない。なにかを得ようとすると心が迷走してしまう。

 大切なのは、自身の身体を己のものとして、「今」まさに「ここ」に存在していると認識することだ。身体と心があるべきところにあると、他のすべてのものもあるべきところにあるようになる。

◇呼吸

 坐禅の修行中は、意識を呼吸に集中させる。息を吸うと空気は身体の「中の世界」に入ってくる。息を吐くと空気は身体の「外の世界」に出て行く。私たちは「中の世界」「外の世界」と区別しているが、実際は一つの世界なのである。この世界では、のどは、回転扉のようなものだ。

 呼吸時には、「私」は呼吸することで動く回転扉にすぎない。呼吸の動きだけについていけるように、落ち着いた状態であれば、そこには私も、世界も、心も、身体もない。そこにあるのは、ただ回転扉だけだ。

 私たちは、善があって悪があるといったように、人生を二元的に見てしまいがちだ。しかし、このように区別すること自体が、宇宙が宇宙という存在に気がついているということだ。「あなた」と「私」という存在も、宇宙が「あなた」と「私」という形をとって、宇宙自身に気がついているだけだ。つまり、あなたも私も、回転扉にすぎないのである。

 坐禅の修行をするとき、時間や空間といった概念はなくなる。「6時15分前に、ここで坐禅を始めました」と言うと、15分前という時間の概念、この部屋という場所の概念が生まれる。しかし、そこで行っていることは、ここに座って宇宙の活動に気が付いているだけだ。

 私たちは人生に疲れてくると、「こんなところに来るんじゃなかった」などと後悔することがある。だがこれは、心の中で、実際に自分のいる時間と場所とは違う場所の概念をつくり出しているだけなのである。

 時間と空間を別々の概念で捉えると、選択の余地があるように錯覚してしまう。しかし実際には、「なにかしなければならないこと」か「なにかしないこと」のどちらかを行っているにすぎない。いいこと、悪いこと、というのは、心の中のことだ。「これは悪いこと」「これはいいこと」などと分けるべきではない。

◇コントロール

 あなたが羊や牛をコントロールするとしたら、どんな方法をとるだろうか。最善の方法は、広々とした草地に放つことだ。人についても同じことがいえる。好きなことをさせておいて、それを見守るのだ。一番よくないのは無視することで、次によくないのはコントロールしようとすることである。

 これは、自分自身をコントロールするときにも当てはまる。坐禅で落ち着きを得たいならば、心に浮かび上がるイメージに邪魔をされないことだ。イメージは浮かんでは消えていくが、それをそのままにしておく。

 この方法は簡単ではない。相当の努力が必要とされる。一つだけアドバイスをするならば、自分の呼吸を数えること、そして、息を吸うことと吐くことに集中することである。

 ただし、禅の目標は心をなにかに集中させることではない。ものごとをしっかりとありのままに捉えること、何事も起こっては消えていくままにしておくことだ。

◇二つではない、ということ

 修行はある考えを得るものではないので、なにかを期待してはならない。

 ある考えを獲得するという考えから解放された修行は、般若心経にもとづいている。般若心経では「現象〈フォーム〉とは空(くう)〈エンプティネス〉である、空はそのまま現象である」としている。しかし、この教えだけに執着すると、二元論に陥ってしまう。本来、禅宗の教えに二元論はない。

 坐禅しているときに心を止めるのが難しく、心を止めようとしている自分に気が付いたならば、「現象とは空である、空はそのまま現象である」ことを認識しようとしている段階である。このような状態でも、次第に自身と坐禅のゴールが一つになっていく。

 なんの苦もなく坐禅ができるようになったならば、心は止まったのだ。この状態は「色は色であり、空は空である」という段階だ。

 心を止めるとは、心の働きを止めることではない。あなたの心が全身を満たしているということだ。広々と開け放たれた心で、足の痛みに悩まされることなく座る。これが、なんらの考えを得ることなく座るということだ。はじめは窮屈に感じるかもしれないが、その窮屈さの中で自分の道を見つけることが、修行の道である。

◇合掌礼拝

 坐禅後は床に伏して九拝する。合掌礼拝を行うことで、自分自身をあけ渡すことができるのだ。自分自身をあけ渡すとは、自分の持っている二元的な考えを捨て去るということである。そのため、坐禅では、座る修行と合掌礼拝の間に違いはない。

 一般的に合掌礼拝とは、自身よりも尊敬しているものに対して行うものだ。一方、禅では礼拝はブッダに対して行われるものだが、ブッダに対していかなる考えも持ってはいけない。ブッダと一つになるのだ。二元的な考えを捨てると、すべてがあなたの師に、尊敬の対象になる。

 礼拝は、とても大切な修行だ。最後の瞬間でも礼拝ができるよう、常に準備を整えておかなければならない。

◆正しい態度
◇正しい努力

 修行で大切なことは、正しい、または完全な努力である。努力の方向性は、達成するということから、達成しないことへと向かわなければならない。達成から無達成に向かう努力とは、不必要でよくない結果を取り除くことである。つまり、どんなことも特別な努力なしに行うということで十分だ。

 なにかを達成しようとするときに特別な努力をすると、余分なものや過剰なものが加わってしまう。それらは取り除かれなければならない。例えば、上手に修行ができている場合、無意識のうちにそれを自慢したくなる。その自慢は余分だ。修行によってなにかを得られたという考えは捨て去った方がいい。

◆涅槃とは滝のよう

 私たちは生まれる前には、なにも感じることはなかった。宇宙と一つだったのだ。そして、この世に生まれることによって、その宇宙から隔てられた。宇宙から隔てられたとき、私たちは感情を持った。

 自分が川の一つであることを知らないときに、または宇宙と一つであることを知らないときに、あなたは恐怖を感じる。しかし、川が別々になろうとも、水は水だ。生と死もこれと同じだ。この真実をはっきりと認識すると、死に対する恐怖はなくなるだろう。

 このように感じることは、容易ではない。でも、坐禅によってこの感覚を育てることはできる。心と身体のすべてを宇宙的な心のコントロールにまかせ、一つになった心と身体で座れば、比較的容易に理解することができるはずだ。

◆正しい理解
◇無を信じる

 私たちが生きていく上で絶対に必要なことは、無を信じるということだ。色や形を持たないもの、または形や色が現れる前に存在しているものを信じなければならない。見るものすべてを無から現れたものとして受け入れられるように準備をし、特定の色や形を持った現象にはその理由があると知ったとき、落ち着きを得ることができるだろう。


 頭痛がすることにも、理由がある。理由がわかると、気分がよくなる。その理由が分からないと不安になるものだ。

 無を信じることは、誰にとっても必要不可欠だ。無とは虚無という意味ではない。なにかがある。そのなにかは、特定の形を取ろうとして常に待機している。その働きには、規則、理論、あるいは真実がある。

◇哲学ではなく、体験を

 アメリカ人の多くが仏教に関心をもっているが、その関心の対象は仏教の哲学や教えだ。だが、仏教が実際にどんなものかを知らないままに語ることは、冒涜に近いといっていい。

 禅の目的は、純粋な形で修行を続けることだ。集まって坐禅を行うことは、大切なことである。この修行が本来の生活の方法だからだ。

 ものごとの始まりを知らないと、努力の結果に感謝することは不可能である。つまり、努力の意味を知るには努力の源泉を知る必要がある。源泉を知らないで、努力の結果だけに関心を払うべきではない。

 坐禅の修行とは、本来の純粋な生活を始めるということだ。私たちは修行によって、自分自身の本来の姿をありのままに保つ。なにが私たちの純粋な姿なのかを理論化する必要はなく、ただなにも思考せずに座ること。もっとも純粋な意図を持ち、もっとも本来の姿に近い形で静かに座る。これが禅の修行なのだ。

一読のすすめ
 本要約では、禅の修行に関する記述に焦点を当てた。本書では、これらの修行方法の意味、仏教の概念や仏教的な背景も合わせて解説されている。マインドフルネスでは宗教概念は排除されているが、本書では宗教概念とともに解説されているので、今この一瞬を生きる、ありのままに物事を見るなどといった考えがより腑に落ちやすいように感じる。マインドフルネスや禅に興味がある方は絶対に押さえておきたいバイブルである。

評点(5点満点)
総合4.0点(革新性3.5点、明瞭性4.5点、応用性4.0点)

評点のイメージ
*評点基準について
著者情報
鈴木俊隆(すずきしゅんりゅう)
 1904年生まれ、1971年逝去。神奈川県平塚市の曹洞宗松岩寺に生まれる。12歳で静岡県周智郡森町の蔵雲院の玉潤祖温老師に弟子入り、駒沢大学在学中に蔵雲院住職、1936年に静岡県焼津市の林叟院の住職となる。1959年渡米し、サンフランシスコ禅センターを設立。1967年カリフォルニア州タサハラにアジア以外では最初の禅院である禅心寺を開く。1971年に68歳で禅センターにて逝去。渡米12年の間にアメリカにおける禅の基礎を築いた。欧米では20世紀を代表する精神的指導者の一人とされる。鈴木俊隆の日本時代から渡米後の活動まで、生涯を描いた評伝『まがったキュウリ――鈴木俊隆の生涯と禅の教え』(デイヴィッド・チャドウィック【著】/浅岡定義【訳】/藤田一照【監訳】)が2019年11月に刊行された。随所に挟まれる俊隆の言葉とともにマインドフルネスの源流となった60年代以降のアメリカの禅を知ることができる。

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日本には古くからある禅ですが、これは米国から逆輸入された禅を基礎としたマインドフルネス、ありのままの自分に目覚める方法。

瞑想を続けていくと、その姿勢にこだわりすぎて不自由さを感じ、姿勢や瞑想という観念に拘り瞑想の意味が分からなくなることもあります。

肉体を持ったまま、純粋なる宇宙エネルギーの一部になるためには、まずそもそもクンダリーニにエネルギーをまとめて上昇させることが必要で、クンダリーニエネルギーは背中を真っ直ぐすることでスムーズに上がっていくことができる。

そこで姿勢を正しく保てる座禅を組むのは効果的だというとことです。

管理人の経験からですと、慣れてくると座禅など組まずに、いつでもどこでも無になることも、エネルギーを上昇させることはできるようになります。

体内エネルギーにさえ集中できれば、どこでも可能で、あのままの自分で行える方法です。

当ブログでは『あるがまま』という至高なる宇宙意識を伝えて10年になります。あるがままというマインドフルネスが最近また話題になってるきていること、とても嬉しく思います。





あるがままで




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