本日会社幹部会議。ある部署の話題で
社員が辞めるとか辞めないとかという報告。
そして「慰留」がどうのこうのと・・・
その「慰留」で、私は思い出すことがある。
あれは我が人生最大の苦難の時期でもあった
大学でのクラブ活動での事。
再三書いてきたが、技術的には全国区だが、
当然比例して過酷な練習だった。
それゆえ、一度入部した部員が去っていく事は日常。
我々の代は、入部直前に全国1位の栄誉に輝いていただけに、
20人ほどの新入部員が集まった記憶。
ただ、3ヶ月を経過したときに残ったのは8人。
その8人は、結構長いこと頑張っていた。
2年の春、とうとうその8人の一角、トランペットの
猿・・・もとい、M山というハイトーンだけは
良くなる奴が「辞める」と言い出した。
今思うと、C年から芯のあるハイGをかっ飛ばした奴は、
確かにすごい奴だったのかもしれない。
バンドとしても、同期としても彼の欠落は痛い。
特段私にとっては、頼りのハイトーンリードがいなくなる
ということで、結構まじめに慰留に努めた。
辞める奴は、病気に走る。逆にいうと、病気に走り出したら
辞めたほうがいい。というのは世の定説か。
本当に病気であれば、堂々と休めばいいものを、
食事中にこれをお読みであったら恐縮だが、
「血便」が出るとかなんとかで、中途半端出てきたり休んだり。
要するに、同情を買おう・・・それは無理!
「やつはどーなっとるんじゃあああ」と一つ上のF田氏。
まぁ、F田先輩が怒る気持ちはわかる。それ以上の勢いで、
彼らは更に上の先輩から怒られているわけなので・・・。
そして、我々は実家に引きこもってしまった猿
・・もとい彼を「慰留」するため、彼の実家に向った。
当時の練習は、16時30分~24時頃。
慰留に向う先は、「伊勢」。車で3時間。
朝行っていたのでは、
次の日の練習に間に合わないと大変なことになるので、
練習を終え、我々は深夜の国道を、壊れそうな
18万円のカリーナで向った。同乗者は、
我々の代の時にバンドマスターに君臨!した、
名物A石にトロンボーンのI国。剣士殿もいたよねぇ?
先輩の愚痴を言いながらの深夜のドライブも思い出の一つだ。
時代を今に移すと正に上司の悪口!だな。
寝起きを襲ったわけではないが、車で仮眠を取った後
彼に会おうと実家の門を叩く!
するとどうだ、こちらの期待を真っ向反し、
母親からは疎ましく応対され、当の本人は
「辞めるといったら辞める!」と頑な。
こういう時って、こちらの思いは伝わらない。
まだまだ私も青かったのだろうが、
辛抱強く慰留する気になれなくなった。というのが正直。
朝の8時。目的は達成されず、仲間に裏切られた我々。
帰ればいいものを、
「このむしゃくしゃした気持ち、何とかならんのか~!」
等とぼやきながら、どこか遊ぶところは無いかと地図を開ける。
こんな時に申し訳ないが、お伊勢さん参りという雰囲気でもなく、
突然A石がA石らしい発想で、「国際秘宝館いこみゃー」
ところで国際秘宝館に何があるのか!
当時はラジオCMでもなにやらいかがわしい
のりの放送があった記憶だが、
到着するやでかでかと看板に「ストリップ劇場」の看板。
若い我々男ばかり、徹夜でやたらハイテンション。
バンマスA石の迷いの無い判断は「みよまい!」
さて朝の9時。ウイークデーのストリップ劇場は
誰も居る訳は無い。受付に行くと、こんなに早く何しにきた?
といわんばかりの受付のおばさん。
怖いもの知らずのわれわれは「学割ないですか?」すると、
「あるわけ無いでしょう!学増が欲しいわ!」と言われる始末。
ある意味おばさんの言い分は正しいかも。
「見るの、見ないの??」と攻め寄られ、
ここまで来て見ずにかえるのもバカバカしいので当然「見る!」。
そして、開演までの約一時間、併設してある
パチンコ屋へ行ったのでありました。
ウィークデーの9時過ぎ、場末のパチンコ屋もガラガラ。
今考えると、あれでは出るわけは無いだろうと思わなきゃ
ところが、こういうどうでもいいときに「ここ一番」を発揮する
A石が、確か偉いこと出していた記憶。
できれば彼には、ステージで発揮してほしかったよ。と今でも思ったりして・・。
そして、私の台の近所でパチンコに興ずる
タバコをくゆらすこれまたおばさん。
朝っぱらからよくまぁやるもんだわ・・と思ったが、
おそらく彼女も同様な思いで我々を見ていたのだろう。
そして、殆どの者が更に無駄遣いをして「劇場」へ移動。
妙な「うきうき感」があったことが忘れられないのが情けない。
観客我々だけの場末のストリップショーが開演した!
今でもミラーボールを見るとこの光景を思い出してしまうのだが、
スポットライトにきらびやかに照らされ、張り裂けるような
二流品のスピーカーから流れる音楽に乗って踊子さんが・・・・
「あ!!!さっきパチンコしていたひと!!!」
「慰留」するということは、これほどまでに苦労するんだよ!
仲間というものは、仲間であるうちに感謝しないと、
仲間から外れたあとに、その有り難味を感じても、
そんときゃもう遅いんだよー
と言う事を「慰留」される前に気がつかなくてはならない。
・・などと教訓めいたこと書こうとしたんだけど、
とんでもない記事に・・・。
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社員が辞めるとか辞めないとかという報告。
そして「慰留」がどうのこうのと・・・
その「慰留」で、私は思い出すことがある。
あれは我が人生最大の苦難の時期でもあった
大学でのクラブ活動での事。
再三書いてきたが、技術的には全国区だが、
当然比例して過酷な練習だった。
それゆえ、一度入部した部員が去っていく事は日常。
我々の代は、入部直前に全国1位の栄誉に輝いていただけに、
20人ほどの新入部員が集まった記憶。
ただ、3ヶ月を経過したときに残ったのは8人。
その8人は、結構長いこと頑張っていた。
2年の春、とうとうその8人の一角、トランペットの
猿・・・もとい、M山というハイトーンだけは
良くなる奴が「辞める」と言い出した。
今思うと、C年から芯のあるハイGをかっ飛ばした奴は、
確かにすごい奴だったのかもしれない。
バンドとしても、同期としても彼の欠落は痛い。
特段私にとっては、頼りのハイトーンリードがいなくなる
ということで、結構まじめに慰留に努めた。
辞める奴は、病気に走る。逆にいうと、病気に走り出したら
辞めたほうがいい。というのは世の定説か。
本当に病気であれば、堂々と休めばいいものを、
食事中にこれをお読みであったら恐縮だが、
「血便」が出るとかなんとかで、中途半端出てきたり休んだり。
要するに、同情を買おう・・・それは無理!
「やつはどーなっとるんじゃあああ」と一つ上のF田氏。
まぁ、F田先輩が怒る気持ちはわかる。それ以上の勢いで、
彼らは更に上の先輩から怒られているわけなので・・・。
そして、我々は実家に引きこもってしまった猿
・・もとい彼を「慰留」するため、彼の実家に向った。
当時の練習は、16時30分~24時頃。
慰留に向う先は、「伊勢」。車で3時間。
朝行っていたのでは、
次の日の練習に間に合わないと大変なことになるので、
練習を終え、我々は深夜の国道を、壊れそうな
18万円のカリーナで向った。同乗者は、
我々の代の時にバンドマスターに君臨!した、
名物A石にトロンボーンのI国。剣士殿もいたよねぇ?
先輩の愚痴を言いながらの深夜のドライブも思い出の一つだ。
時代を今に移すと正に上司の悪口!だな。
寝起きを襲ったわけではないが、車で仮眠を取った後
彼に会おうと実家の門を叩く!
するとどうだ、こちらの期待を真っ向反し、
母親からは疎ましく応対され、当の本人は
「辞めるといったら辞める!」と頑な。
こういう時って、こちらの思いは伝わらない。
まだまだ私も青かったのだろうが、
辛抱強く慰留する気になれなくなった。というのが正直。
朝の8時。目的は達成されず、仲間に裏切られた我々。
帰ればいいものを、
「このむしゃくしゃした気持ち、何とかならんのか~!」
等とぼやきながら、どこか遊ぶところは無いかと地図を開ける。
こんな時に申し訳ないが、お伊勢さん参りという雰囲気でもなく、
突然A石がA石らしい発想で、「国際秘宝館いこみゃー」
ところで国際秘宝館に何があるのか!
当時はラジオCMでもなにやらいかがわしい
のりの放送があった記憶だが、
到着するやでかでかと看板に「ストリップ劇場」の看板。
若い我々男ばかり、徹夜でやたらハイテンション。
バンマスA石の迷いの無い判断は「みよまい!」
さて朝の9時。ウイークデーのストリップ劇場は
誰も居る訳は無い。受付に行くと、こんなに早く何しにきた?
といわんばかりの受付のおばさん。
怖いもの知らずのわれわれは「学割ないですか?」すると、
「あるわけ無いでしょう!学増が欲しいわ!」と言われる始末。
ある意味おばさんの言い分は正しいかも。
「見るの、見ないの??」と攻め寄られ、
ここまで来て見ずにかえるのもバカバカしいので当然「見る!」。
そして、開演までの約一時間、併設してある
パチンコ屋へ行ったのでありました。
ウィークデーの9時過ぎ、場末のパチンコ屋もガラガラ。
今考えると、あれでは出るわけは無いだろうと思わなきゃ
ところが、こういうどうでもいいときに「ここ一番」を発揮する
A石が、確か偉いこと出していた記憶。
できれば彼には、ステージで発揮してほしかったよ。と今でも思ったりして・・。
そして、私の台の近所でパチンコに興ずる
タバコをくゆらすこれまたおばさん。
朝っぱらからよくまぁやるもんだわ・・と思ったが、
おそらく彼女も同様な思いで我々を見ていたのだろう。
そして、殆どの者が更に無駄遣いをして「劇場」へ移動。
妙な「うきうき感」があったことが忘れられないのが情けない。
観客我々だけの場末のストリップショーが開演した!
今でもミラーボールを見るとこの光景を思い出してしまうのだが、
スポットライトにきらびやかに照らされ、張り裂けるような
二流品のスピーカーから流れる音楽に乗って踊子さんが・・・・
「あ!!!さっきパチンコしていたひと!!!」
「慰留」するということは、これほどまでに苦労するんだよ!
仲間というものは、仲間であるうちに感謝しないと、
仲間から外れたあとに、その有り難味を感じても、
そんときゃもう遅いんだよー
と言う事を「慰留」される前に気がつかなくてはならない。
・・などと教訓めいたこと書こうとしたんだけど、
とんでもない記事に・・・。
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登場人物がわかるだけに、なおさら、面白いです。
ある意味いい時代だったかもしれませんね。
私の場合は、とめる方もありましたが、とめられる方が、2、3度ありました。最終的にOBのA井さんが出てくる始末。A井さんに「お前は血も涙もない奴だなあ!」と言われた事を今でも覚えています。
どちらにせよ、社会生活上、人間関係は大切ですからね。
儂の所はたしか8人おって、残ったのが3人。あっという間に減ったので、同年の慰留といえばK岡を2~3回したかな。彼の場合はやりたいことがありすぎてのことだったので、落ち着いたらすぐ復活→ハイノート炸裂→あんたが1番!のパターンでしたがね。
ご存じ1年下のM谷やU井、彼らは「やめる」の常連で、長期休みの度に「やめる」その彼らの学年があがり、慰留する立場になって後輩に説教している姿を微笑ましく(?)見ていた記憶があります。まあ、そちらはそんな悠長なこと言ってられんかったでしょうけど。
過ぎ去ったからそう思う部分は正直有りますが、
当時はとても思えなかったですね。
でも私の今の社会に対する基本スタンスは
間違いなくここで養われました。
社会に出てから養われるのとではまるで違います。
そう言う意味からすれば、意義有る時間であったと
思いたい物ですね!
あの時代の「血も涙も無い奴」って・・
有る奴の方が濃すぎたよ!
K岡ってそうだったの??
それより8人もいたの???
案外隣にいて知らない物だねぇ・・・。
>その彼らの学年があがり、慰留する立場になって・・
そうそう、当時は4年間という小さな社会があって、
D年になると、今で言うところの課長係長。
正にそんな仕事をしていたような気がするね。
それだけ社会が学べたし、それに脱落した者は、
案外社会でも脱落したのかもね!!
何もかもが、良い経験の時代でしたよ。
実は私、M山のアパートで乱闘騒ぎを起こした事があります。M山の隣の部屋の奴を一発ぶん殴って逃げて帰りました!それ以来の彼の記憶は残ってにゃ~です。
M山のアパートって、
グリーンハウスとか言うところ??
あの頃は正に血気盛んだったよね。
アングラの話は聞きました。A石から・・。