青色日誌

還暦を超え、子育てもひと段落。さて!

訃報

2017年03月09日 | 思うこといろいろ
個人的な記事にて失礼します。


私の父親の弟に当たる叔父が一昨日亡くなった。
北の大地で聞いたその訃報は実に寂しい一報。
今日の記事はこの方の思い出を記させてください。

本当に個人的な記事ですのでご容赦ください。




この方あおやき家きってのエリート。
西の横綱的大学薬学部を出て製薬畑一筋
有名製薬会社で随分の地位まで上り詰めた。

以前は日本衛材という名の会社だったそこ。
(後ろ二文字をカタカナにするとお分かりかと)
衛生材料を扱う会社として発展したのだとか。
どの会社にも創業時代は小さいのは当たり前。
それを余りにもよく知るこの叔父からはいつも
この会社の成長を見習って!と、
会うたびに檄を飛ばして頂いていた。


それは私が社会人一年目大阪時代の出来事。
当時彼は50歳ほどであったか、
バリバリの製薬マンであった彼が大阪出張の際、
駅前で待ち合わせをして晩御飯に誘われた。

バブル全盛期一流企業に勤める彼は豪快!
駅前に出来たばかりのホテル屋上にある、
豪華な鉄板料理屋に連れて行って下さった。

彼はこう言った。

幾つになっても男は真剣。
先ずは黙々と働きなさい!と言うもの。

貧乏新人社会人にはとても厳しくも、
それでいて温かで美味しい!激励であった。

あの夜の食事会は今でも忘れられない。


製薬会社を退職後、その人脈を是非
私が今経営する当社で役立てたいと申し出られ、
当社の顧問としてお招きしたのは15年程前。

さすがに超有名大出身…と言いたかったのだが、
謙遜も有ったろうが、しばし勤務後に言われたのが、
大企業の歯車など楽なもので、反して中小企業の
経営の難しさを思い知ったと口にされる。

同時にそんな中小会社経営の難題に向かう私に
敬意を表して下さったのは、
今でも忘れられない出来事でも有った。


それでも彼の紹介は流石であった。
各地へ当時当社が進めていた図面整理システムの営業と、
実際紹介導入頂いたお客様の元へ幾度となく同行頂いた。

鹿島アントラーズで有名な鹿島市はその意味で思い出の街。
五連泊した最終日にシコタマ飲み交わしたのが懐かしい。
何せ酒は底なし。あおやき家一番の酒豪でもあった。


数年後、当社との契約も切れ、
製薬会社時代に過ごした埼玉へ戻る事となる。
だがその後も色々な相談事には乗っていただいていた。
実は最後の最後まで携帯のメールのやり取りが続いていた。

私にとっての一つの大きな課題を病床で答えて下さっていたのだ。
それは今年の初めまで続いていたのだが。。


製薬会社に勤めているからこそ薬に精通していたはずなのに、
医師が自らの病を防ぎきれないのと同様の運命であった。



火曜日、

札幌に降り立ち時間があったので寄ったここで訃報を知った。



この時期に亡くなるお年寄りが本当に多いようで、
人口過多の関東では葬儀場の手配もままならず、
葬儀はなんとも週末まで持ち越すこととなってしまった。


あの鹿島で五連泊以来の五連泊の出張となった私。


わたくしごとを長々と大変失礼いたしました。
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