そのときなぜか目の前にあった読みかけの本、「神の使者」(ゲイリー・R・レナード)の続きを見たくなったのです。
この本はここのところ読んでいませんでした。
すると開いたページに、(「奇跡のコース」というテキストの一文であるとして)太文字でこのような文章が載っていたのです。
――身体はエゴの偶像である……罪への信念が肉体を生み出し、それが外部に投影した。次に心のまわりの肉の壁と見えるものがつくり出され、心を小さな時空の囚われ人にする。その囚われ人は死につなぎとめられ、わずかな一瞬を与えられて主人のためにため息をつき、悲しみ、死ぬ。この聖らかでない一瞬が人生に見える……絶望の一瞬、水もなく忘却のなかに危なっかしく据えられた乾いた砂の小さな島。
この文章は私が先程ぼんやり考えていたことと幾らかシンクロしているような感じを受けました。
私が思っていたのは単に心の悲喜こもごものことでしたけど、これはもっと深い、人間という存在自体について語っているのですね。
私たちは神から離れてしまったという罪の意識を持ったがため、人生と見える、このはかない状態を体験しているのでしょう。
でも本当は神から離れてはいないのです。離れることなどありえない。ただ夢を見ているだけ。
目覚めにいたる道は様々あり、その一つがここに書かれているような内容を理解することなのだと思いました。
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