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私はたぶん夢を見ている。
いつこの偽物の世界に亀裂が入りそこから断面が広がって、目が開いて私のいるべき世界に戻れるのだろうか。
もう種明かししても良い頃合いだ、ここは私の中世界だからどんな無礼も無茶をしても問題ない。ただ私は知っている、あまり意識を摩擦させすぎると世界が千切れて現実に引き込まれてしまうのだから、無理をせず意識を和らげて、この曇ったガラスのような世界を覗きこんでみる。
たとえば今一番会いたいひとは誰だろう、、。
ほら、さっそく意識の中から誰か出てきたみたい。
薄暗い部屋に女のひととスーツ姿の体躯のいい男性が何か話してる。私はその男の顔を覗きこんでぞっとした。
その男は、悪魔みたいなおぞましい笑みを浮かべてうつ向く女性に手をかけている。
間違いない、幼少期に真夜中、悲鳴とともに目が覚めてみた記憶で、大好きなママと大嫌いな新しいパパの映像そのものだ。ママはぶたれた箇所を押さえて泣いている。
声がでない、やめて、ママをぶたないで。
私はこの男が憎かった、殺したいほどに憎かった。
曇りガラスの偽物の世界であってもふたりを目の当たりにして、心拍数が一気に上がって意識が擦れて胸が張り裂けそうになる。
だめ、これ以上意識したら夢が終わってしまう。
涙が目尻をつたっていくのがわかる。待って、いかないで。私はそう叫び願っていた。
幼い頃に死んでしまった妹に会わせて、、。
わたしの本当の妹に会わせて、まだ行かないで、わたしの中の世界、お願いだから消えないで、、。
さっきまで曇っていた世界が薄れていくと、次第に淡い光が溢れ出してそれが楕円形に広がっていく。
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陽向(ひなた)は目が覚めると今が朝なのか、夕暮れ時なのかわからないで目を擦った。やはりさっきの感覚は本物で、涙が頬を掠めていた。
この日カーテンの間から差してきた光はどちらの色にも似ていて、陽向は枕元の携帯で時刻を確認して理解する、うんざりするほどに貯まった男たちからのメッセージが自分の在るべき世界に誘うように待ち構えているようで気持ちが重たくなる。
「もう夕方なのかぁ、今日もうダメだ掃除と洗濯は後回し、明日は早く起きて回せばいいし」
目覚めたばかりの少し渇いた声でそうひとり呟いた。
陽向の職業はキャバクラホステスである。
夜の世界での理屈は引き算が一般的だと、語りたがるものは多い。
あるものからあるものを差し引いて成り立つ世界。
売り上げはあげるものではなく、楽しみの対価として頂くもの。誰のためでもない、ある点を軸にクルクルと回り続ける世界の中に、陽向の世界も存在している。時計の針の音さえ鬱陶しく嫌う彼女の音のない部屋では、いくら目を瞑って夢の中に逃げ込んでみても、逃れられない現実に引き戻されてしまう。第三者の興味や関心が執拗以上に個人の領域にまで干渉されることに慣れてくると、自分たちの会話が意味もなく生まれてきて、そのまま価値も与えられず死んでいく様を幾度繰り返しているのだろう、そんな風に今の自分の立っている世界から現実を覗き込むと、顧客との普通のやりとりでさえ億劫に思えてくる。
もう間もなく、いつもと同じように陽向はホステスとして目覚めなければいけない。
またいつもと同じように自らの舞台に立つために。
しばらく目を瞑っては、まだ布団の中から起き上がれず視線だけを動かしていると、妹の茜からのメッセージが、どんよりと億劫な気持ちに割り込むように目の前に飛んできた。
「前にも少し話したけど、今年の大学祭の演劇部の脚本制作のために演劇部部長がお姉ちゃんに取材したいのでお時間頂けませんか?ってアポ頂けるよう頼まれてて、、何とかお願いできませんか?」
「おはよ、、茜のお願いだから聞いてはあげたいんだけど、今はちょっとそういう余裕がないの、もうすぐイベントだし、部長さんには断ってて。ごめんね。」
「そうなんだ、前にお姉ちゃんがすごいキャバ嬢なんだって自慢話したら、そのひとを題材に脚本書いてみたいって、脚本とか制作にはすごく情熱的でお姉ちゃんとは何だか気が合いそうって思ってたんだけど、今回はかなり残念だけど断っておくね。」
「お姉ちゃんが相性いいひとはダンディーでお金持ちなおじ様だけよ。お詫びにまた今度ご飯連れていってあげるから!そうだね回ってないお寿司とか、どう?」
「ご馳走も嬉しいけど、たまには家族三人でご飯食べたいかな、、だからお姉ちゃんが帰ってきてくれたほうが嬉しいよ。お仕事大変そうだけど頑張ってね。」
「連休がとれたらそうするよ、ママには宜しく言っててね」
やっとの思いで身体を動かして、浴室あたりで鏡を見ながらふと考えてみる。自分を題材にした脚本などはどれほどの価値があるものだろう、これまで確かにいろんな出来事があって、そんなことを思い出す余裕も近頃ではなくなっていた。陽向の身体を弾いて流れていくシャワーの水滴一粒ずつに出来事が詰まっているみたいで、それらは誰にも知られず排水溝の管を通ってどこか見えなくなるまで流れていく。陽向はそんな意味も価値にもならないことを考えいる自分を鼻で笑った。