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普仏戦争

2015-01-25 14:03:48 | 日記
1867年春にルクセンブルクをめぐって普仏戦争の危機が高まる中、ヴィクトリアは介入に消極的な首相ダービー伯爵や外相スタンリー卿(英語版)(首相ダービー伯爵の息子)に活を入れてロンドン会議を開催させ、ルクセンブルクを永世中立国にすることで危機を収束させた。だがビスマルクは南ドイツ諸国を取り込むためにフランスとの戦争を欲していた。結局スペイン王位継承問題を利用したビスマルクの策動で1870年にナポレオン3世はプロイセンへの宣戦布告に追い込まれ、普仏戦争が勃発した。ナポレオン3世は緒戦でプロイセン軍の捕虜となり、完全に失脚した。ビスマルクは戦争で高揚したドイツ・ナショナリズムを背景にプロイセン王ヴィルヘルム1世をドイツ皇帝に即位させてドイツ帝国を樹立した。
この間ヴィクトリアにできたことはベルギーの中立を守ることをプロイセン、フランス双方に約束させること、イギリスへの亡命を希望するウジェニー皇后を受け入れてやること、エルメスバッグ そして新生ドイツ帝国がフリッツやヴィッキーの望む形になる事を祈ることのみだった。1871年3月にプロイセン軍から釈放されたナポレオン3世の亡命も受け入れた。彼はウィンザー城でヴィクトリアと会見したが、落胆しきって涙ぐんでいたといい、ヴィクトリアは日記に「前回(1855年)勝利者としてここにやってきた時の彼と何という違いか」と書いている。
また戦後ヴィクトリアは親仏派の皇太子バーティがドイツ皇太子夫妻(ヴィッキー・フリッツ)と疎遠になって一族がばらばらにならないよう関係を取り持つことに努めた。ヴィクトリアもバーティもドイツ皇太子夫妻もビスマルクを危険人物とする点では見解は一致していた。


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ビスマルク、ナポレオン3世との対立

2015-01-19 16:15:42 | 日記
ヴィクトリアの長女ヴィッキーは1858年にプロイセン王国国王代理ヴィルヘルム1世の長男フリードリヒ王子(フリードリヒ3世)と結婚した。二人は1859年に後にヴィクトリアと因縁になる長男ヴィルヘルム王子(ヴィルヘルム2世、愛称ウィリー)を儲けた。ヴィクトリアは1860年9月にザクセン=コーブルク=ゴータ公国のコーブルクを訪問した際に初めてウィリーと出会った。ヴィクトリアはこの初孫について日記に「素晴らしく良い子だ。白い美しい肌と繊細な輪郭、ヴィッキーやフリッツのような素晴らしい顔、髪の毛はブロンドの巻き毛。私たちは彼を見ることができて幸せだ」と書いている。
1861年にヴィルヘルム1世がプロイセン王に即位し、1862年にオットー・フォン・ビスマルクがプロイセン宰相となり、プロイセンは軍拡・ドイツ統一に乗り出した。だがドイツ統一をめぐっては大ドイツ主義(オーストリア中心の統一)と小ドイツ主義(プロイセン中心の統一)の対立があった。1863年にオーストリアは大ドイツ主義的なドイツ連邦改革を行おうとフランクフルトでドイツ連邦諸侯会議を開催するもプロイセンが反発して出席を拒否し対立が深まった。ヴィクトリアは1863年8月にアルバートの銅像の完成記念にコーブルクを訪問したが、この際にコーブルクまで彼女に会いにやってきたプロイセン王ヴィルヘルム1世やオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と会見した。ヴィクトリアは両国君主に協調を求めたが、ヴィルヘルム1世もフランツ・ヨーゼフ1世もにべもなく自国の譲歩を拒否した。
1863年11月にデンマーク王に即位したクリスチャン9世がロンドン議定書に違反してシュレースヴィヒ公国へのデンマーク憲法の適用を強行したのに対して、プロイセンとオーストリアはデンマークにロンドン議定書を守らせるとしてシュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争を開始した。皇太子バーティはデンマーク王女を妃に迎えており、一方長女ヴィッキーはプロイセン皇太子の妃となっていた。だがヴィクトリアにとって決定的なことは生前アルバートがシュレースヴィヒ=ホルシュタイン問題で常にプロイセンを支持してきたことであり、彼女もその立場を踏襲した。大臣たちに対して「ヨーロッパの平和のため重要なことは一つ。自らこの事態を招いたデンマークを支援しないことです」と主張した。閣内でも「平和派」が主導権を握り、最終的にイギリスはデンマークを見殺しにすることになった。
だがプロイセンへの肩入れもそこまでだった。その後のヴィクトリアはプロイセンへの警戒感を強めた。彼女はロンドン議定書に反してシュレースヴィヒやホルシュタインを併合しようとしているプロイセンに強い怒りを感じていた。ヴィルヘルム1世に宛てて「この恐ろしい時期に私も口を閉ざすわけにはいきません。貴方はある男に騙されているのです。」と書いて送った。1865年には伯父レオポルド王への手紙の中で「プロイセンは極悪非道の限りを尽くしています。バーキン30 エトゥープ 不愉快千万です」と怒りを露わにしている。プロイセンは小ドイツ主義統一を確固なものとするため1866年に普墺戦争を起こし、オーストリアを打倒して北ドイツ連邦を樹立した。この際に従兄妹であるゲオルク5世(カンバーランド公)が国王として君臨するハノーファー王国はプロイセンに併合された。
一方ナポレオン3世は1863年に彼の伯父を否定するウィーン体制を破壊しようと1815年のウィーン議定書とパリ条約の改正のためにパリで国際会議を開催することを提唱した。もともとクリミア戦争末の裏切りでナポレオン3世に不信感をもっていたヴィクトリアはこれによって本格的に彼を嫌うようになった。ヴィクトリアはこのナポレオン3世の提案を「無礼千万」と非難している。
ヴィクトリアはビスマルクとナポレオン3世の二人こそがウィーン体制を破壊する元凶と確信した。


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ナポレオン3世の登場とクリミア戦争

2015-01-05 11:17:51 | 日記
フランス第二共和政で大統領に選出されたルイ・ナポレオン・ボナパルトは議会と対立を深める中で1851年にクーデタを起こして成功させ、1852年に皇帝に即位してナポレオン3世となった。ナポレオン3世のクーデタの際にイギリスは中立を宣言していたが、パーマストン外相が独断でナポレオン3世にクーデタ成功の祝電を送ったため、ヴィクトリアはラッセル首相に彼の解任を求め、首相もそれに応じた。1852年12月にロンドンで締結された秘密議定書によってイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアは皇帝ナポレオン3世を承認したが、反仏的なロシア皇帝ニコライ1世はナポレオン3世に王号を認めず、ナポレオン3世を苛立たせた。
ロシア帝国は当時崩壊寸前だったオスマン=トルコ帝国の切片を拾い上げる目的で当時トルコ領だったバルカン半島に在住する正教徒の保護権を求めてトルコと対立を深めていた。これに対抗してナポレオン3世はトルコに加担するようになり、トルコからエルサレムのローマ・カトリック教徒の保護権を認められた。トルコの態度に激怒したロシア軍は1853年7月からトルコ領へ侵攻を開始した。11月に両国が宣戦布告してクリミア戦争が始まった。
アバディーン伯爵内閣は閣内分裂状態で初めどちらに付くべきか結論が出なかった。だが海洋の覇者イギリスとしてはロシアが黒海から地中海に出てきたり、あるいは北方のバルト海を支配することは避けたかった。ヴィクトリアもロシア軍の地中海南下に危機感を露わにしていた。ナポレオン3世が英仏共同でロシアに最後通牒を突きつけようと提案してきたこともあり、結局イギリスはそれに乗ることになった。最後通牒で一カ月以内の占領地からの撤収をロシアに求めたが、ロシア皇帝ニコライ1世はこれを無視したため英仏はオスマン側で参戦した。
しかし40年間ヨーロッパでの戦闘経験がないイギリス陸軍は脆弱であり、しかも英仏軍はナポレオン戦争を引きずってどこかギクシャクしていた。戦争は泥沼化し、前線は多くの死傷者、病人を出した。ヴィクトリアは王女や女官たちとともに前線の兵士たちのためにマフラーや手袋を編んだ。戦死者の寡婦に弔慰状を書く事にも精を出した。1854年にはクリミア・メダル(英語版)を制定し、閲兵式において兵士たちに自ら授与した。負傷兵の慰問にも出かけた。またプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世に書状を送り、最低でも中立を保つよう依頼した。
クリミア戦争中の1855年4月16日にナポレオン3世と皇后ウジェニーが訪英した。親オルレアン家のヴィクトリアは革命から生まれ出たボナパルト家を嫌っていたが、ナポレオン3世とウジェニーのことはすっかり気に入ったようだった。二人と別れる際にはヴィクトリアは涙ぐんでお別れの言葉を述べた。ただこの頃ナポレオン3世はクリミア半島へ自ら出陣する意思を固めており、ヴィクトリアは大臣たちからそれを諌止してほしいと頼まれていたが、彼女の説得にもナポレオン3世は翻意しなかった(結局彼は自らの暗殺未遂事件があった後にこの計画を断念した)。
パリ万国博覧会開催中の同年8月、返礼としてヴィクトリアとアルバート、ヴィッキー、バーティが訪仏した。ヴィクトリアは子供たちも皇帝が好きになったと日記に書いている。バーティはナポレオン3世に「貴方の息子だったらよかったのに」と語ったという。ナポレオン3世にとって何より重要な儀式となったのは、ヴィクトリアが廃兵院を訪問してナポレオンの棺を詣でたことだった。その場ではナポレオンに敬意を払っていたヴィクトリアだったが、帰国後にはナポレオンの棺について「見事でしたけどプールに似ていたわ」と嫌味を述べた。
一方前線ではセヴァストポリ要塞攻防戦でロシア軍と英仏軍が激戦を繰り広げていた。ヴィクトリアは外相クラレンドン伯爵に「ここを陥落させればオーストリアとプロイセンもこちら側で参戦するはず。文明世界を食らう野蛮国ロシアは周辺の列強全てで封じ込めなければいけません」と語った。1855年9月にセヴァストポリ要塞が陥落したことでロシア皇帝アレクサンドル2世は戦意を喪失し、ナポレオン3世の提唱するパリ講和会議を受け入れ、1856年3月30日にパリ条約が締結されて終戦した。だがこれはイギリスの意に反する形で行われ、ヴィクトリアはナポレオン3世に不信感を持つようになった。バーキン 50 とはいえイギリスも一人で粘るわけにはいかず結局この条約に追従する羽目になった。
しかしパリ条約は双方利益が少なく、これでは何のために多くのイギリス人の命が失われたのか分からないとヴィクトリアは不満だった。伯父レオポルド王に宛てて「イギリスの目的は野蛮大国ロシアの危険な野望からヨーロッパを救う事です。オーストリアとプロイセンが1853年の段階でロシアに断固たる姿勢をとっていたらこんなことにはならなかったのに」と書いた。

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対ヨーロッパ外交

2015-01-05 11:17:51 | 日記
ルイ・フィリップとニコライ1世
1843年9月にヴィクトリアはフランス王ルイ・フィリップを訪問した。これはヘンリー8世以来のイングランド王の訪仏であった。
ルイ・フィリップはオルレアン家の当主だが7月革命でブルボン家からフランス王位を簒奪した者と看做されており、またブルジョワへの人気取り的政策からヨーロッパの他の君主たちから嫌われていた。だがヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルド1世がルイ・フィリップの娘ルイーズと結婚していた関係で親オルレアン家だった。ルイ・フィリップと親交を深めたヴィクトリアは「このことをロシア皇帝が知ったらきっと酷く不機嫌になるでしょう。しかし我々にはあまり関係のないことです」と日記に書いた。
実際フランスを敵視するロシア皇帝ニコライ1世はヴィクトリアの訪仏を警戒し、フランスに出し抜かれぬよう英露関係を強化すべく1844年6月に訪英した。ヴィクトリアはこのロシア皇帝訪英に警戒するフランス世論について「気に入らないならフランス人も彼らの国王なり王子なりを我が国に送ってくればいいだけです。」とレオポルド王への手紙の中で述べた。ヴィクトリアはバッキンガム宮殿の宴会の席でニコライ1世に「フランスには嫌悪、トルコには侮蔑の感情を持っている」と外交儀礼を欠いた物言いをした。これは自分をないがしろにして政治を行うアルバートやピールにわざと聞かせる目的があったという。
1848年革命によってフランスではルイ・フィリップが廃位に追いやられ、エルメスボリード[Bolide] 彼はヴィクトリアにイギリス亡命を請願した。ヴィクトリアは首相ジョン・ラッセルからフランスにできた共和政政府(フランス第二共和政)から睨まれる様な事をしないようにと忠告を受けていたが、結局叔父ベルギー王レオポルド所有のクレアモント館(英語版)をルイ・フィリップに与えた。

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