カタツムリの歩み

社会復帰と教会復帰を模索する、引きこもりな猫族のつぶやき

やり直せると信じて、今日から再スタート。

2016-01-03 19:48:26 | 日記

明けましておめでとうございます。

ちょうど新年を迎えたから書くわけではないですが、

今、あらたな気持ちで、生活習慣の改善をめざそうと思っています。

 

私は一昨年までの数年間、引きこもりでした。

仕事に行けないまま会社は自然退職、通院先にも行けなくなって傷病手当の請求も滞り、

収入のないまま食べ物にも事欠いて、どんどん身体は軽くなりました。

ようやく社会復帰の第一歩を踏み出したとき、体重は39キロになっていました。

やさしい仕事で通勤に慣れることからやり直し、少しずつ身体面・精神面のリハビリをして、

昨年春からは、本格的な職場で働けるようになりました。

非正規雇用ではありますが、今は国の最高機関が立ち並ぶ都心の高層ビルに 勤務しています。

 

私は今52歳、都会で賃貸マンションに暮らす独身女性です。

今正確な数字がわかりませんが、たぶん47歳くらいから数年間引きこもっていました。

 

40代・50代で引きこもりになるケーズをそれまで耳にしたことはありませんでしたし

公共機関の支援も若年層に限っていたので、こんなことは自分だけだと思っていました。

でも先日、中高年の引きこもりについての記事をネットで読みました。

光があたっていないだけで、そういう人たちもいるのだと知りました。

 

孤独で、相談できる人がなく、すべも見つからず、うちひしがれている人がいたら、

私のような者でも、引きこもりから やり直せたこと、まだまだ前進するつもりであることをお話したいです。

 

去年をふりかえると、

4月から新しい職場での試練が続き、それまでのチャレンジやステップアップは棚上げになり、

新しい職場環境に慣れることが、すべての目標になっていました。

せっかく獲得した新しい習慣も、後退してしまった部分があります。

以前の職場よりもはるかに恵まれた環境なのですが、引きこもりに至った要因などは、

まだ改善できていませんから、完治したとはいえない状況です。

もう一度生活を振り返り、どこから改善してゆけるのかを見直していきたいと思っています。


感性の記憶

2012-11-29 22:22:21 | 日記

最近、あらためて気がついたこと。

見たり、聴いたり、味わったり、、、私たちの身体的な感覚、五感には、

記憶という機能がセットになっている。

何か新しいものを見たり、聴いたり、、、感覚にとってそれが初めて触れる何かであると、

新鮮なものとして認識され、学習し、蓄積されるし、初めてでないものは、今までの記憶が知識を

発揮する。

例えば、ちょっと久しぶりに聴く音楽は、ただ懐かしいと思うだけではなく、過去にそれを、いつどこで聴いたりのか、五感は知らず知らずに「検索」しにいっている。

いつ聴いたのかではなく、むしろ、それをよく聴いていたときの、心理状態を思い出すのは

なぜだろうかと思う。

不安でいっぱいだった頃によく聴いた音楽は、大好きな曲であっても、そのときの感情まで蘇ってしまうので、聞きにくい。

 

おいしそうな匂いに惹かれるのも、過去に、その香りに満ちたおいしい料理を

食べたことがあるからだろう。

 

最近、ネットのレシピを検索しながら、手探りでお料理をするようになった。

家族から教わる機会はほとんどなかったし、都会に出てきて覚えた美味しい料理もたくさんある。

しかし、やはり育った家庭の味は忘がたい。食材を手掛かりに、いろいろ試してみる。

最近、八宝菜とか、あんかけとかの味を作れるようになった。

今まで、そういうものは、○○の素、という中間素材を利用していたので、調味料の組合せで作ることはなかった。

しかし、作ってみると、意外に簡単だった。

そして、きざみ生姜が、八宝菜のなかでどんな役割を果たしているのかとか、塩や醤油、砂糖などが

そのように調和すればおいしいのかなど、味わいながら解明されていくのがおもしろい。

それも、舌の感覚、記憶の機能のおかげなのだ。

自分の不完全な料理の味と、子供の頃に食べた料理の記憶とを比べて、何が足りないのか、どうすればおいしくなるか、、、感覚が記憶の機能をもちあわせてくれるおかげで、そういう試行錯誤ができる。

記憶には、ありがたくないものもあるし、

主観が支配し、色づけをしているものなので、客観的には歪んでいる場合もあるのだが、、、

感覚と記憶が、こんなにも密接につながっていることに、考えさせられた。

いつか、もっと深めたことを書いてみたい。


ゆるすことが、私を自由にする

2012-09-19 18:43:15 | 日記

自分の思念によって、自分の言動がどれだけ支配されるかを思うとき、・・・

よい思いつきをさせてくださることが、大きな恩恵であることがわかります。

 

ご復活のラウレンシオ修士とともに、私のすべての行いをマリア様にゆだね、

マリア様に手伝っていただくようにしています。

生来、片付けがとても下手であるのに、意欲低下のため、長い間、身の回りのものは

ほとんど手つかず状態、放置状態のまま数年を過ごしてきました。

今、ようやくその問題に対処することができるようになって、少しずつ、取り組んでいます。

 

長時間のやる気は維持できないので、ほんの少しいじったら、またのんびりするという

繰り返しです。

よその人が私の部屋を見たら、「いったいどこを片付けたの?朝からちっとも片付いてないんじゃ?」と、あきれるでしょう。

本当に、あたりをかき回しているだけで、何もしてないも同然かな?・・・

でも、取るに足りない小さな部分で、やっただけのことは出てきています。

いつか探していたあれやこれやが、見つかったり、、古紙を少しだけ束ねることができたり・・・。

少し前まで、現実逃避の恐怖心で開封することさえできなかった書類も、

ほぼ抵抗なく開けることができるようになりました。

現実と向き合うということが、少しずつ、できるようになってきたのかな、と思います。

 

自分の姿を、私自身は嫌悪しているけれども、

神さまはずっと昔から、私が知っている以上に私のありのままをご存知であり、

最初からこんな私を受けとめてくださっているのです。

そこだけが、私のより頼みとする所です。どうかこのことを、忘れずにいられますように。

 

神さまの目を意識するようになって、気がついた、いくつかのこと、、、

神さまの助けを借りないときの、本性のままの私は、とても悲観的で、

人に不信感をもちやすく、何かにつけ悪く考えがちであること。

些細なことで怒りやすいこと。毒を含んだ言葉を吐くこと。

そのため、会話する相手の気を害しやすいということ。

 

愛とゆるしが大きなテーマであるキリスト教を信じているはずの自分なのに、

むしろ宗教とは無縁の友人たちから、「確証もないのに仲間を悪く言うのはやめよう」

「怒りが抑えきれないなら、無理に話しかけるよりも黙っていよう」と、

たびたび諭されたのです。 本当に恥ずかしく思います。

 

そして、、少しずつ祈りが織り込まれる生活を始めてからは、

ゲームをしていても、ゆるしがたく感じているときの自分を意識したり、

皆から嫌われている人と一緒に行動しなければならなくなったときにそれを甘受したり、

イヤな相手に一歩譲って少しねぎらいの言葉をかけたり、、、

ときどきですが、できるようになったかなと思います。

 

ゆるすというのは、難しいことです。

はらわたが煮えくり返るような思いになることもあります。

でも、難しいけれども、この問題をスルーしないことが大切だと思いました。

 

ゆるす行為は、神さまの助けなしにはできないことなので、

まず、簡単にゆるせない自分を認めて、神さまにお詫びするところから始めようと思います。

私がどれだけ無条件にゆるされてきたか、また、周囲の人にも、今までも、これからも、

どれだけゆるしてもらわなくてはならないことか、、、

そのくせ、人をゆるすのは大変難しいのです。

 

でも、ゆるせるようになりたい、ゆるせるように変えてくださいと、祈ることから始めましょう。

最初は、「自分のために」誰かをゆるすという方法でもいいのかなと思います。

ゆるさずにいれば、それは結局、自分の心を苦しみの牢獄に閉じ込めることになる。

これは、林檎が木から落ちるのと同じくらいに、確かな法則であるからです。

 

先日久しぶりにロザリオをしたとき、思い浮かんだ人のなかには、

職場でトラブルがあり、強い憎悪を持っていた人もいました。

たまたま通りがかりの人の姿が、その人に似ていたために思い出しただけなのですが、

ああ、私はこの人のことを、まだゆるせない、と感じました。

 

でも、うっかり思い出してしまったので・・・・、マリアさまごめんなさい、

私の過去には、まだたくさんのゆるせない人がいました、、、、

ゆるせずにいる自分を認め、お詫びします。

こんな私を変えてください・・・・

そうお祈りしました。

 

対処の難しい過去を思い出したときは、フタをしてしまうのでなく、、、

その現状をそのままマリア様にお見せして、

こんな部分では、私は、まだ生傷のままになっているのです、

ゆるせずにいる私を、哀れんでください、とへりくだることがいいのではないでしょうか。

 

こんなにも難しいことなのに、イエスは主の祈りのなかに「ゆるし」を盛り込んで、

神にゆるしを乞うとともに、人をゆるす決意を日々更新するようにと、私たちに望まれました。

そして私たちが「これだけは絶対にゆるすことができない」と決して言うことがないように、

極限のなかでの、最高のゆるしの模範を、お残しくださいました。

ゆるしというテーマが、神にとってどれだけ重要であるか、

私たちに、どれだけ「ゆるし」を大切に受け取ってほしいか、ということだと思います。

 

キリストの教えを、おぼろげに思い出し始めたに過ぎない私ですが、

人をゆるすことは、まず、私自身のために、大きな益になることを、思い出そうと思います。

その人のためであるよりもまず、私の心が、自由になります。

憎しみやわだかまりをもっていると、その人のことを忘れずにいることになるので、

一層不愉快な気持ちが続くわけですが、相手をゆるすことで、その執着が絶たれます。

ネガティブな気持ちから開放されること、、、これは本当に救いです!

こんなことを書くのは、、これは自分のためだと言い聞かせることで、

ゆるそうという気持ちが少しでもすすむならば、いいことだと思うからです。

 

ともあれ、「ゆるし」は、人のわざではなく、神さまのみわざです。

私の力ではできないことなのです。

けれど、ゆるせるように力をくださいと祈るとき、神さまは絶対に聞き入れてくださいます。

なぜなら、それはまず神さまの切なる願いであり、私たちに、そのためにこそ

祈って欲しいと願っておられるテーマだからです。

 

神さま、あなたの願いが私を通して実現しますように。

すなわち、人をゆるすことができる存在へと、私を変えて行ってください。


断水から気がついたこと

2012-09-17 08:53:51 | 日記

先日、水道の蛇口をひねると水が出なくて・・・・Σ(゜д゜lll)ガーン

そういえば、断水のお知らせチラシがあったことをようやく思い出しました。

近くで水道工事をする音が振動とともに響いています。

準備なしに迎えた断水は、いろいろと生活面で大事なことを気づかせてくれます。

それはさておき・・・。

最近、本当に久しぶりに福音書をちょこちょこと読むようになって、気がついたこと。

 

イエスが、怪我や病を治す奇跡を行う人物だと知られて、たくさんの人がイエスの元を

訪れます。人々が癒されるとき、イエスはしばしばその人に言います。

「あなたの信仰が、あなたを救った。」

あるときは、イエスご自身が意識してみわざを行おうとはしていないのに、

誰かがその身体に触れただけで、奇跡が起こります。

自分の行動を言い当てられた婦人は、イエスに触れさえすれば治していただけると思ったと、心情を吐露します。

 

それでちょっと思ったのです。

イエスのみわざとは、水道管を通して流れ込もうとしている水であり、

私たちの不信仰が、その水が流れ込むのをせき止めているのではないか、と。

イエスは、心の蛇口を開いた人には誰でも、

その心に流れ込んでみわざを行なう用意があるのです。

だから、ご自分のみわざゆえに救われたとはおっしゃらずに、

「あなたの信仰が、あなたを救った。」とおっしゃられたのでした。

 

イエスは、閉められたバルブの入口まで、恵みの水で管をいっぱいにして、

私たちが自ら蛇口を開けて、主を迎え入れるときを、

静かに待ち続けていらっしゃいます。

 

神の働きかけを何も拒まず、恵みが働きかけるままに身をまかせられたマリア様、

自らの不信仰から、霊的な断水を招くことがないように、私をお助けください。


侮辱、それは謙遜への学び舎

2012-09-16 22:39:08 | 日記

私がマリア様へのノヴェナ(9日間の祈り)を通して、もう一度神にたち帰る恵みを願おうと思ったきっかけは、現状の行き詰まりからでした。

 

現実逃避で、ずっとインターネットに長時間依存する生活をしていて、

ネットゲームなどを通じて、親しい友人もできました。

しかし元々対人関係が困難な病気を抱える身。

些細な言葉に翻弄され、不信に陥り、親しい友人とも言い合いになってしまったり。

更に悪意ある人の恨みを買い、2ちゃんねるに中傷記事を書かれまくったり・・・

それが連日のように続き、最初は話を聞いてくれた友人も、だんだんと

「2ちゃんねるを気にしすぎ」「見ないほうがいい」と、突き放すようになっていき・・・

こんなに辛い思いをしてもまだゲームを続けている自分は、いったい何なのだろうと思い始めたのでした。

まさしく、放蕩息子が本心にたち帰る経過とよく似ています。

 

今日、マリア様のお計らいで、大変久しぶりに主日ミサにあずかることができました。

自転車のペダルを漕ぐ力もなく、数分の買い物に出かけるだけでやっとの私が、

歩いて1時間の教会に出向くとは・・・。

遅刻で間に合わなかった第一朗読は、主の受難を暗示するイザヤ書でした。

「主なる神はわたしの耳を開かれた。

わたしは逆らわず、退かなかった。

打とうとする者には背中をまかせひげを抜こうとする者には頬をまかせた。

顔を隠さず に、嘲りと唾を受けた。

主なる神が助けてくださるから、わたしはそれを嘲りとは思わない。

わたしは顔を硬い石のようにする。わたしは知っている、わたしが辱め られることはない、と。」

 

イエスがあれほどの侮辱を耐えられたのは、主が無神経だったからではありません。

身体的な苦痛はもとより、その心にも、どれだけの槍が突き立てられたことか。

 

2ちゃんねるでの中傷の数々を思い出すと、やり場のない気持ちで一杯になります。

事実でないことをそうだと決めつけられたり、他の人がしていたことを、身代わりで悪者扱いされたり・・・・、内蔵に穴が開きそうな気がしてきます。

 

でも、私は今、謙虚になる必要があるのです。

なぜかというと、、、、ありのままの自分を受け入れて、そこから出発するためには、

真実に謙遜でなくては、できないことだからです。

 

「謙遜は、真理とともに歩む」と、アヴィラの聖テレサは言いました。

自分の認めたくない、目を背けたいような、卑しく惨めな現実。

落胆し、目を覆うばかりの、あさましい現実。

そういうところにちゃんと足をつけて、そこから歩き直さなくてはいけないのです。

 

2ちゃんで叩かれている内容は、確かに間違っています。

でも、人々には知られていない、私のたくさんの欠点、たくさんの悪行、罪の根っこは、

ここに書かれていません。

それをよく考えれば、こうして非難されることは、私が謙虚になるために役立ちます。

 

私は主イエスの弟子になろうとしているはずではありませんか?

善しか行わなかった師が、これほどの侮辱を受けられたのに、

元から侮辱にふさわしい存在である私が、どうしてそれを避けようとするのでしょうか。

 

イエスとともに、あらゆる侮辱を甘んじて受けられたマリア様、

ここから謙虚になるすべを、私に教えてください。

理想の私ではなく、現実の私に、あなたのあわれみのわざを引き寄せるために、

謙虚な心と真実を見つめる目を、お与えください。