玖波大歳神社

神社についての歴史と知識

七五三について

2014-06-13 21:51:56 | 日記
 十一月十五日に七歳、五歳、三歳の子供が晴着を着て、神社にお参りすることを七五三参りとか七五三祝いといいます。これまで無事に育ってきたことに対する感謝と今後の守護を祈願するもので、人生儀礼の一つです。
 七五三の起源となった祝いは、錬倉時代に公卿や武家の間で行われていた髪置、平安時代に貴族の間で行われていた袴着、室町時代に行われていた帯締びの三つです。いずれも子供の成長にあわせて身なりを改めるものでした。
 これら三つの祝いは関東を中心として始まりました。男女どちらの子供も祝うもので、年齢も月日も決まっていなかったようです。
 江戸時代に入ると庶民の間に広まって一般化されるようになりました。やがて、三と五と七を陽数(縁起のよい数)とする中国風の考え方から、この年齢のときに祝う様になり、江戸時代末期には三歳の男女が髪置、五歳の男が袴着、七歳の女が帯結びを行うようになったのです。参拝の日が十一月十五日となったのも江戸時代の末期でした。十一月は収穫を感謝する霜月祭のある月で、その十五日は旧暦で満月です。       大事な月の満月の日として、この日が選ばれたのです。
 明治時代に入ると、神社への参拝が中心となり、現在のような七五三の祝いが定着しました。
 安産を祈願して、無事に出産したことを初宮参りで神前に報告し、さらにその子供を成長させてくれたことを神に感謝するとともに、将来にわたる守護を祈願することが七五三の意義です。このように成長の過程で子供に晴れ着を着せて神社に参拝するのは、生まれた子供に徐々に神霊を宿らせることを意味し、最後の七五三の参拝で名実ともに人間の仲間入りができるということです。昔、七五三のときに現在の戸籍にあたる人別帳に名前が記されたのもこのためです。
 また、大人の厄年と同じく、子供のこの年齢は、医学的にも発育の節目にあたります。病気にもかかりやすい時期に健康な成長を祈るようになったことは、自然な親心のあらわれだったのでしょう。

輪くぐりさん

2014-06-13 21:50:46 | 日記
 三十一日の夕刻から玖波大歳神社では、例年の通りひとがた流しや菅抜け祭り(茅の輪くぐり)を行います。
  輪くぐりさんには、御家族お揃いで氏神様に御参拝、心身を浄化一新して、尊い御神恩に感謝の誠を捧げ、奇しき御守護を祈りましょう。
         
   神は月 人の心は 露なれや 澄めるところに 影は宿さむ

夏越しの大祓は、私どもが神と祖先のご恩恵を戴いての、日常生活の中で、思わず知らずのうちに犯した「罪」「けがれ」を祓い「わざわい」を防ぐといわれる御神事で、古くは、わが国最古の書物「日本書紀」にも(天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ…。」)など折々にみられ、素朴な行事ながらも古来から連綿と行い継がれてきた大切な儀式です。
 また、「なごし」は「和ごし」・「和儺」で、人の心を和やかにすると云う説もあります。夏越しの大祓いを行い、「わざわい」を除き、心に「謙虚さ」・「感謝の気持ち」を甦らせ、心身を清浄にして「淨く明るく正しい」希望に満ちた日々の生活実践を続けてまいりましょう。
   母のぶん  もひとつくぐる  茅の輪かな   一茶

(い)、水無月の 夏越しの祓ひ する人は 千年の命 延ぶと云うなり
(ろ)、思ふ事 みなつきねとて 麻の葉を 切りに切りても 祓ひつるかな
(は)、蘇民将来。蘇民将来。(繰り返して唱ふ。)

 他の地方では、「水無月の大祓」として新暦の六月末日に行われるところも有りますが、当地では、旧暦が新暦に改まった時からひと月おくれの七月末日に行われるようになり現在に至っておりますので、ご参考までに申し添えておきます。 

 玖波大歳神社の夏越しの大祓いは、茅の輪くぐりと人形流しの二つの行事が主体になっています。

 まず、人形流しについてですが、『日本書紀』の中の、天武天皇十年七月丁酉の条に「天下に令して悉に大解除せしむ。此の時に当たりて、国造等、各祓い柱ぬひ一口を出して解除す」とあり、大解除の初期の頃は、人柱を用いていたことが伺がえます。それが次第に反道徳的であると考えられるようになり、人柱から動物、動物から埴輪や人形・形代と移り変わって現在に至ったと思われます。

 また、この人形流しは、スサノオノミコトが、高天原で暴れまわり、身ぐるみ剥がされ追放されたことに由来しているとも思われます。スサノオノミコトが行ったと言われている罪という罪は、実は皆、人間の犯した罪であり、その罪をスサノオノミコトが一身に背負い根の国、底の国へ流されたということだそうです。人形流しは、自分が知らず知らずに犯した罪を謙虚に反省し、その罪を人形に託す事により、新しい日々を新しい気持ちで迎えるための私達の先祖の知恵かもしれません。      

 次に、茅の輪くぐりについてですが、このもとになった話が『備後の国風土記』の中に見うけることができます。その内容を簡略に説明すれば、「疫隅の国の武塔の神が、南海の女神に求婚しようと出掛けましたが、その途中で日が暮れてしまいました。その所には、二人の兄弟が住んでおり、弟の巨旦は大変裕福でしたが、兄の蘇民将来は、貧しい暮らしをしていました。そこで、武塔の神はまず、巨旦に宿を頼みましたが、断られ、次に、兄の蘇民将来に宿を頼みましたら、快く泊めてくれ、親切にもてなしてくれたそうです。それから数年が過ぎ武塔の神は、八柱の神を連れてやってきて、蘇民将来に『お前に恩返しをしてやろう。茅の草を輪にしてお前の娘の腰に付けさせよ。』と申して、蘇民将来がその通りにすると、その夜、その娘以外の子供らは、疫病で悉に殺されてしまいました。そして、武塔の神は、『私は、ハヤスサノオの神である。もしこれからの世でも疫病がおこれば、私は蘇民将来の子孫であると言って茅の輪を腰に付けよ。そうすれば、死をまぬがれることができるであろう。』と申された。」ということです。この話がヘビ信仰と結付き茅の輪くぐりの行事になったと思われます。

 このように、人形流しにしても茅の輪くぐりにしても、行疫神即防疫神であるスサノオノミコトとかかわりのある行事で、大歳神社において人形流し、茅の輪くぐりが行われ続けられているのも大歳の神が、スサノオノミコトと副祭神神大市姫との間に生れた御子であるからかも知れません。 

神宮大麻と氏神様のお神札

2014-06-13 21:49:08 | 日記
【お伊勢さま】
 伊勢の神宮は、古くから「お伊勢さま」と親しまれ、皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)を中心とする日本で最も貴いお宮です。
 天照大御神をおまつり申し上げる「内宮」は、皇室の御祖先神として尊ばれ、また、国民の総氏神として仰がれています。
 豊受大御神をおまつり申し上げる「外宮」は、衣食住、ひいては産業の守り神としてあがめられています。

【お伊勢さまのお神札】
 神宮大麻は、「お伊勢さん」「お正月さん」として親しまれている天照大御神のお神札です。
 お神札を毎年新しくお受けするのは新しい年を迎え、すべてがあらたまるとき、初日の出を拝むように毎年新たなる御神徳とみずみずしい生命の力をいただくという祈りがこめられているのです。
 ご家庭でお神札をまつり、今日もお伊勢さまに見守っていただいて生活するという気持ちは、きっとあなたの一日を充実したものにすることでしょう。

【お神札のまつり方】
 神棚は明るく清らかなところで、目の高さよりは少し上におまつりします。お神札が南か東に向くのが一般的ですが家の間取りによってはおまつりするのにふさわしい場所であれば良いでしょう。

 神棚がない家庭ではとりあえずタンスや書棚の上に白い紙を敷くなどしておまつりして頂くのも良いでしょう。
【お供え】
 神棚には毎朝、お米、お塩、お水などをお供えして拝礼します。
 御神酒、季節の初物、お土産等は、その都度お供えし、感謝をこめて、のちほど頂戴します。

【お参りの作法】
神社の参拝方法と同様に、二拝(深くお辞儀を二回)二拍手(手を二回たたく)一拝(深くお辞儀を一回)です。

一年間お守りいただいた古いお神札は感謝をこめて、氏神さまに納めましょう。

国歌と国旗の知識

2014-06-13 21:42:59 | 日記
 国歌と国旗は、国家の独立と尊厳をあらわす象徴です。したがって、世界中どの国でも自分の暮らす国の国歌と国旗を大切にすると共に、他国の国歌や国旗に敬意を示すのが当然の礼儀です。
 そのため、国内の祝祭日や公的行事はもちろん、外国からのお客さまを歓迎するときや国際的な儀式・スポーツ競技などの機会には、必ず国族をあげ、国歌を演奏し参会者は起立して敬意を表します。

国歌 「君が代」
 君が代は 千代に八千代に さざれ石の巌となりて苔のむすまで

 この歌は、小さな石がたくさん集まり固まって大きな岩となり、さらにその岩に苔がむすはどまで、長い長い年月、まさしく千年も万年も永久に、大君のみよが栄えますようにとの意味を込めたお祝いの歌です。
 その原歌(もとうた)は、延喜の頃(十世紀始め)に『古今和歌集』巻七に「読人しらず」の賀歌として

わがきみは ちよにやちよに さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

とみえます。これが平安後期頃から「わがきみは」より「きみがよは」の形で広まり、人々に親しまれてきました。
 そこで、明治の初め、外交儀礼の必要からも国歌を制定するにあたり、維新政府は、薩摩琵琶歌「蓬莱山」の中で歌われていた「君が代」を歌詞に選びました。そして軍楽隊教官のイギリス人フェントンに作曲を依頼し、明治三年九月八日、わが国最初の陸軍観兵式に際して、明治天皇の御前で演奏しました。
 しかし、そのメロディーが日本語になじまないため十年後、宮内省伶人長林広守作曲(原作奥好義、編曲海軍省傭教師エッケルト)の「君が代」が完成し、同十三年十一月三日の天長節(天皇誕生日)に宮中で初演奏されました。
 その歌詞と楽譜が次第に広まり、特に同二十一年、『大日本礼式』に納めた楽譜が外国に送られ、また同二十六年、祝祭日奉唱歌として文部省より告示されました。
 それ以来すでに百年にわたり日本の国歌として奉唱されてさた「君が代」は、荘重なメロディーが外国の人々からも高く評価されています。また、平安朝の古い歌に由来する雅やかな歌詞は、日本国およぴ国民統合の象徴と仰がれ敬われる天皇の御代の弥栄を寿ぐことにより、国家の永続と国民の和合を念ずることになる最も日本にふさわしい国歌として、広く親しまれています。

 国旗 「日の丸」
 世界の国旗には、それぞれの建国の由来や理想があらわされています。たとえば、アメリカ合衆国の星条旗には、独立した当時の十三州を示す条線と、現在の合衆国を構成する五十州を示す星が描かれています。また、フランスの三色旗には、市民革命の旗印とされた自由・平等・博愛が青、白、赤の三色で示されていまず。
この点、日本の国旗となった「日の丸」は、さらに古い歴史をもっています。赤い丸は万物に恵をもたらす太陽をかたどったものであり、皇祖神を天照大神と仰ぐ日本人が考えだした最もシンプルなデザインです。
 その早い例は、王朝時代の元日朝賀や即位の儀場に掲げられた「日章」の幡にみえます。やがて、源平以来の武士たちは扇面に好んで日の丸を描きました。また建武中興を敢行された後醍醐天皇は、日の丸を旗印として掲げられたと伝えられます。さらに秀吉、家康の時代に活躍した御朱印船には、朱の丸が旗章に使われています。
 やがて、幕末にいたり、外国船がしきりに来航し、また、諸大名も巨大な船を造るようになったので、幕府は安政元年(一八五四)七月、日本の船が外国船とまぎれないように「白地に日の丸の幟」を「日本の惣印船」と定め布告しました。
 ついで、維新政府は明治三年(一八七〇)一月二十七日、太政宮布告により郵船商船規則を公布しその中で正式に「御国旗之事」を定めました。それによれば国旗のサイスは縦七十、横百の比率の白地に、赤い日章の直径は縦の五分の三となっています。この一月二十七日が「国旗制定記念日」です。
 平成十一年には「国旗および国歌に関する法律」として定め、日本の国旗は「日章旗」国歌は「君が代」と明文規定しています。

(国旗の掲げ方)
 国民の祝日や国家的なお祝いの行事には、家々でぜひ国旗を掲げましょう。
 家庭で門前に掲げる時は、門内からみて右(外からみて左)側、また二本掲げる時は併立が望ましいですが交差でもかまいません。
 祝意を表す時は、球と旗の問を離してはいけません。(弔意を表す時は、球を黒布で覆い、球と離した旗の上に黒布をつけます。)
 国旗を掲げる時間は日の出から日没までで、雨の日は掲げません。
 外国の国旗にも敬意を表し、丁寧に取り扱う心がまえが大切です。

参考文献 平成十一年 靖国暦

喪服について

2014-06-13 21:41:33 | 日記
 『日本書紀』や『隋書倭国伝』などを見ると古代の喪服が白かったということが分かります。しかし、718年に養老喪葬令が出され、「天皇は直系二親等以上の喪には『錫紵(しゃくじょ)』を着る」と定められます。当時の注釈書によると、「錫紵」とは「いわゆる墨染めの色」のことです。これは中国の『唐書』に「皇帝が喪服として『錫衰(しゃくさい)』を着る」と書いてあり、この中国の制を真似して定めたものと考えられます。ところが、唐でいう「錫」とは、灰汁処理した目の細かい麻布のことで、それは白い布のことなのですが、日本人はこれを金属のスズと解釈し、スズ色、つまり薄墨に染めてしまったようです。
 この「錫紵」の色は、平安時代になると貴族階級にも広まって、薄墨だった色合いも次第に濃くなっていきます。これはより黒い方が深い悲しみを表現すると考えられたからで、養老喪葬令の時、喪に重い軽いが定められ、平安になると着る色もこれにより決められたので、『源氏物語』でも、妻を亡くした光源氏が「自分が先に死んでいたら妻はもっと濃い色を着るのに、自分は妻の喪だから薄い色しか着られない」と嘆く場面があります。その後平安後期になると、一般的に黒が着られるようになりました。
 ところが、室町時代に白が復活し、江戸時代に水色が登場したりしますが、基本的には白が続いています。養老喪葬令以降、喪服を黒くしたのは上流階級だけで、庶民は一貫して白のままだったと思われます。昔は人の死を「穢れ(けがれ)」と考えていて、一度着用した喪服を処分していたようですが、白い布を黒く染めるには染料もいりますし、手間もかかります。そんな手間をかけたものを庶民が簡単に捨てたとは考えにくいし、現代よりもはるかに信心深い時代ですから、たたりや災いが起こるのではないかという恐れが強かったために、先祖代々受け継いできた伝統(葬式の形式)を変えるには、相当の勇気が必要だったはずです。
 養老の喪葬令で喪服が黒とされて以来、室町以降も格式や形式を重んじる宮中では「決まり事だから」という理由で頑なに黒のままを守り続け、それと同じように、庶民は貴族の「黒」におされながらも、形式を変えることへの恐れや経済的理由などから「白」という色を守り続けていたのだと言うことです。
 明治維新を機にヨーロッパの喪服を取り入れて黒になり、現代に至っています。
 弔辞でない場合も、宮中で偉い人の装束は「黒」ですが、一説にこの「黒」は、赤を何度も重ねて染め上げた色だと言われています。思うに、昔は、墨を何度も重ねて染め上げた「黒」と、赤を何度も重ねて染め上げた「黒」とが有り、それぞれ使い分けていたのではないでしょうか。そのために、現代でも宮中では、慶事においても鯨幕を使用しているのではないでしょうか。

 参考文献  増田美子『日本喪服史 古代篇──葬送儀礼と装い──』

神道の葬儀

2014-06-13 21:39:23 | 日記
■不幸にして人が亡くなることを神道では帰幽(きゆう)といいます。神道の考え方では人は神々と祖先の恵によって現世(うつしよ)に生まれ生活をして、死しての後の御霊(みたま)は、幽世(かくりよ)に帰り、やがて祖先の御許(みもと)に帰りつくとされています。

■ 神道の葬儀は、「枕直しの儀」・「帰幽奉告の儀」・「遷霊の儀」・「通夜祭」・翌日の「葬場祭」・「発柩祭」・「火葬場祭」・「帰家祭」となっています。

  通夜

夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼です。

  枕直しの儀

まず、北枕で寝かせます。
枕元には、白無地の屏風を逆さに立てて刃物を台や盆の上にのせ、刃を遺体の方に向けないように置きます。
供物は、小机か八足台(案)の上に、次のようなものを置きます。
 米(洗米でもご飯でもそのままでもかまいません。)・御神酒・塩・水・常饌(故人が生前好んだ食べ物。)・榊
神棚と霊舎に家人の帰幽を喪主が奉告し、お供え物を撤して五十日祭までの間は神棚の全面に白紙を貼り、霊舎を閉じます。
出来ない事は省略しても宜しいので、無理をしないようにしましょう。

  帰幽奉告の儀

神職により産土の神様と幽世の神様へ、故人の帰幽を奉告します。神社によっては、「枕直しの儀」の際に行われることもあります。

  遷霊の儀

通夜の時、室内を消灯して故人の御霊を霊璽(れいじ)に遷し留める「遷霊の儀」が行われます。

 通夜祭

故人の死を確認し、葬場祭への、心の準備をし、故人に死を受け入れて貰う為の儀式です。

  葬場祭

神職が奏上する祭詞には故人の経歴や功績人柄が読み込まれ、会葬者と共に故人の遺徳を讃え、在りし日の姿を偲ぶ、人の世の終焉に際しての最も厳粛な儀式です。

  発柩祭

通夜祭を終えた翌朝、葬場に向かう際に行う儀式ですが、近年は省略されています。

  野辺送りの火葬場祭

火葬場での最後の別れの儀式になります。

  清めの塩

通夜及び葬場祭に参列した場合や火葬場から戻った遺族は「清めの塩」を使います。これは宗教的な儀礼というより、お弔いに関しての日本人の民族的な思想の概念によって行われて来た風習ともいえるものです。

  帰家祭

喪家もしくは斎場にて、安置された御霊に対して葬儀が無事終了した旨を奉告します。

  旬日祭

仮霊舎の霊璽を中心に「旬日祭」として十日毎(十日祭 ・ 二十日祭 ・ 三十日祭 ・ 四十日祭)に斎行し、五十日祭は特に「忌明け」とも呼ばれる重儀となります。
五十日祭の折りには特に「忌明け後清祓の儀」が行われ、納骨並びに仮霊舎の霊璽が霊舎に合祀されます。
この日から、神棚と霊舎の白紙をはずし、おまつりを再開します。新年を迎えるための氏神様の神札もこの五十日が過ぎていればお受けできます。

この後「百日祭」を経て「一年祭」更に「三年祭」「五年祭」「十年祭」と以下おもに十年毎に霊祭が各々周年祭として斎行されます。(旬日祭・年祭はその時の都合等により省略される場合があります。)

ご参考までに

◇安置
末期の水、湯灌、死に化粧、など基本的に仏式と一緒です。
死に装束は、経かたびらではなく、小そでになります。
白い木綿の小そで(きもの)に、白たびを履かせるのが正式です。
現在では、故人が好んで着ていた衣服を着用させその上に小そでを掛けるのが一般的のようです。

◇納棺の儀
枕直しの儀が済んだ後、納棺の儀に移ります。
通夜に先立って遺体を棺に納める儀式で、正式には神職を招きますが、近年では葬儀社の人に手伝ってもらい、遺族の手でするようになっています。
出棺までの間は、朝夕の2回、米、水、塩などを供え、遺族が礼拝する「柩前日供(きゅうぜんにっく)の儀」を行います。

◇霊璽(れいし)
仏式の位牌に当たる物 鏡または、柾目(まさめ)を通った白木に故人の名前と生年月日を書き入れたものです。

◇通夜振る舞い
基本的に仏式と同じですが、神式ではなまぐさ物は禁じていません。
日本では、古来より死後の世界を黄泉の国と言って、穢れた世界としています。
神道では、死のけがれを忌む習慣が強く、家の火がけがれないようにというので、通夜振る舞いでは、他の家で煮炊きしたものか、外から取り寄せたもので接待します。
また、神前に供えた饌を皆で食し供養したと言うところから、通夜振る舞いに発展したと言う説もあります。

◇葬場祭
神前に通夜祭の時に供えた常饌をすべて新しい物にかえます。
棺は部屋の中央、一番奥に安置し、故人の姓名と位階、勲功など社会的地位があればそれらも記した銘旗(仏式の位牌に当たります)を立て、棺を囲む三方に壁代をめぐらし、その外側に、不浄を防ぐ意味を持つしめ縄つきのいみ竹をたてます。(昔行っていました。)

◇忍び手にて二礼二拍手一礼
神式の拝礼では、二礼二拍手一礼と言って、二回深くおじぎをしてから、忍び手と言って音を立てないように二回柏手(かしわで)を打ち、最後にもう一度礼をします。

{ちょっと考えたこと}

1 通夜祭と通夜について

 広辞苑によると、通夜とは、① 神社仏閣に参籠し、終夜祈願すること。② 死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体の側で終夜守っていること。となっています。
 今回は、死者を葬る前に家族・縁者・知人などが遺体に側で終夜守っている通夜について考えたいと思います。
 通夜は、一般に、夜を徹して故人の蘇生を願って行った古代の殯(もがり)の遺風とも言われる鎮魂の儀礼とも言われています。古代では呼吸停止をもって直ちに死とはみなされず、蘇生しないことを確認したあと、喪に入ったとされていました。またその間は生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行ったそうです。 長期間にわたることもあり、天武天皇の殯の場合は二年余にわたったことが「日本書紀」に記されています。それが中世以後になると、もっばら読経供養に変わりますが、魂呼びの儀礼は今日なお慣習として残っているところもあるそうです。
天皇の殯宮儀礼は、六世紀頃より唐の殯の影響を受けて、遊部の奉仕による儀礼とともに、誄(しのびごと)の奏上や諡を奉るなどの大陸にならった儀礼が行われるようになったそうです。
 これらのことから、通夜とは「古代の殯(もがり)の遺風で、蘇生を願い、生前のように棺に朝夕供饌し、歌舞音曲や飲食などの遊びをして魂呼びを行うことで、長期間にわたることもあるもの」と定義できます。つまり、通夜の期間はまだ生きていると見なす期間を指すことになります。
 通夜祭について考えてみると、蘇生しないことを確認したあと、喪に入って行う儀式と考えるべきではないでしょうか。なぜなら、「誄(しのびごと)の奏上や諡を奉る」儀式である点で、誄(しのびごと)とは、死者に述べられ哀悼の言葉・悲しみを表明するとともに、生前の功績や善行を讃えたりする行為であり、明らかに死者を対象に為されるものです(まだ生きていると見なす期間に行う儀式ではない)。 忍手についても、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手と定義されており、あくまでも死者が対象であることが原則であることを読み違えてはならないと思います。重ねて申しますが、通夜の時点と通夜祭を行う時点とを混同しがちですので気を付けるべきです。そう考えると、死亡確認書が発行された時点で、帰幽報告祭を行うのは当然のことです。遷霊の儀も通夜祭の前であろうと通夜祭の後であろうと構わないことになります。

2 神葬祭における修祓について

 忍手とは、「音がしないように打つ拍手のこと。短手とも表記し、神宮祭式作法のなかで八開手ののち、最後に音がしないように打つもの。また、神葬祭において、祭壇の前で死者に向かって打つ無音の拍手。」と定義されています。
 一般には、音を立てなければならないのだけれども、故人や故人の家族・縁者・知人のことを思うと音が出せない感情を表した所作ではないかと思っています。この感情によって、祓戸神に対して忍手になることは不敬なことになるのでしょうか。その場を少しでも清らかな状態にしたいと思う気持ちで修祓を行う事が不敬なことになるのでしょうか。 祓戸神の立場で皆さんはどう考えるのか、私は感情・気持ちを理解して頂けるものと信じます。

3 奉幣行事について

 幣が依り代・装飾・供物のいずれでも必要であるならば、最初から奉っておけば宜しいのではないでしょうか、その行事の必要性を感じません。また、心中年祈念は何を祈念するのか、所役の中に何々所役とか何々後取とかあるべきなのに、なぜ所役としか言わないのか、所役が正中に座す司の斜め前から受け渡しを行う事や反命の際、揖も無く着座するなど理解できないことが多いのは私だけでしょうか。