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チューハイ

2021-04-03 15:08:00 | 掌編小説
 シャンプーが切れた。
 体を洗い終わってから気が付いた。シャンプーはいつも美咲が用意してくれていたので、完全に失念していた。
 もう一度予備がないか確認したが、案の定なかった。髪なんて一日洗わなかったところでそんな変わらないだろうとは思ったが、洗わないのは気分が悪かったし、明日は仕事が休みということも相まって、近くのコンビニまで買いに行くことにした。
 バスタオルを手に取り、体に押し当てる。そういえばこれも美咲が買っていたものだ。もうあれから数ヵ月経つというのに、そんなことは今まで考えなかった。シャンプーから芋づる式に記憶が引っ張り出されたのだろう。
 薄手のジャージに袖を通し、サンダルを履く。靴箱の上では、二年前の美咲と俺が呑気に笑っている。それを眺めていると、心臓が内側からえぐられるようで、吐き気がした。無理やり写真から目を引きはがすと、錆びついた扉に手をかける。ギギ、と嫌な音が鼓膜に刺さり、それと同時に凛とした風が部屋に流れ込んだ。

 七年の月日というのは、思っていたよりも遥かに短かった。これから先の未来もずっと一緒に過ごすと思い込んでいたからそう感じるのだろうか。それとも、「もう十分」というほどの思い出をため込むには、もっともっと時間が必要なのだろうか。どちらにせよ、この虚ろを埋める手段なんて存在しない。してはいけない。だって美咲は、もういないのだから。世界中を探したって、どこにも。
 こういうことを考え出すと、ドツボにはまってしまう。もう28年も生きているから、自分の取り扱いくらいわかっていた。ポケットからイヤホンを取り出し、適当な音楽を耳に流しこむ。意識を曲に集中させ、脳に張り付いた思考を振り落とすことに専念する。
 しかし、イヤホンをしてから電柱を四本ほど横切ったというのに、気持ちの切り替えがうまくいかない。仕方がないので、イヤホンを外して胸ポケットへぐちゃぐちゃにねじ込み(ねえ、朝陽)、無理やり思考を未来へ(来週の火曜、仕事休みになったんだけど)と移す。――せっかくコンビニ(朝陽は空いてる?)に行くのだから、久しぶりにビールと、何(温泉に行きたいんだ…)かおつまみを買おう。それと、何か分厚い(そっか…じゃあ次は一緒に行こうね)本でも買おう。そし(え?うん、わかってる。気を付けるよ)て――

「いらっしゃいませこんばんはー」

コンビニ店員の声で、我に返った。いつの間にか着いていたようだ。気持ちは依然としてぐちゃぐちゃのままだったが、自分のいる空間に他の人がいると考えると、不思議と思考は冷静になった。
 ひとまず、ビールを探す。別になんでもよかったが、少し奮発して第三でも発泡酒でもなく、本物のビールを買うことにした。そのままおつまみコーナーでさきいかとうずらのくんたまを手に取り、書籍コーナーで一番分厚い本と、読みやすそうなライト文芸を脇に挟んだ。
 後はシャンプーを買うだけだ。シャンプーコーナーに目をやると、いつものシャンプーがある。ピンクのパッケージで、甘い香りのする、いかにも女性向けのシャンプー。一度手に取りかけて、躊躇した。別のシャンプーを買おうか。だって、もう美咲がこのシャンプーを使うことなんてないのだから…。
 思考と体が固まって動かない。いつもは店内でやたらうるさい合宿免許のCMが、やけに遠くから聞こえる。なぜだか、美咲の顔がフラッシュバックして頭を駆け巡った。視界が歪む。目を閉じてしまいたいが、それさえ億劫に感じる。辛うじて、男物のシャンプーへと目を向けた。
(ねえ、朝陽。)
美咲の声が頭に響いた。その瞬間、何かが手から零れ落ちた。
(これ、ちょっとだけちょうだい。)
さきいかだった。美咲がよくねだっては嬉しそうに食べていた。俺が「ビールは飲めないのに」とからかうと、決まって「飲めないんじゃなくて飲まないだけ」と言い返して…
 俺は、落ちたさきいかを拾うと、いつものピンクのパッケージのシャンプーを手に取り、本を棚に戻した。本棚の奥のガラス窓には、顔をくしゃくしゃにした俺が映っている。
(朝陽ってほんと、思ってること顔に出ないよね。)
そんなことないよ。この顔を見てくれよ。
 ジャージの袖で目元を拭い、冷蔵庫へ目を向ける。少しだけ悩んで、チューハイを一本手に取った。期間限定の洋梨チューハイ。美咲はきっと、好きだと思う。



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