父を勤務先まで送り届けねばならなかった。
その4(地震の当日2)からのつづき。
地震当日の夜、私と妻と母はリビングに布団を並べて寝た。私が真中で右に妻、左に母。
さすがに狭いので父は一人で自分の部屋で就寝。
途中、なんども余震でゆすり起こされながらも就寝した。
私は、父と深夜2時に起きた。これから、父を西宮の病院まで送り届けなければならない。
父は、医者ではないが、病院の受付業務をしていたのだ。当日こそ出勤できなかったが病院勤務だ、家も家族も無事な以上、出勤しなければならない。病院は大変な状況になっている。
父は数日は帰れないことを覚悟し準備をしていた。問題は病院までの交通手段だった。交通機関は完全にストップしている。あるとすれば徒歩か自転車ぐらいだ。自転車は我が家には無かった。西宮まで約35km、歩いていては9時間はかかるだろう。それでは病院に着くのは遅すぎる。そして、病院と相談、本来ならば自動車を使うべきではないのだが、私が、深夜に父を送り届けることになったのだ。
父は運転免許を持っていない、例えもっていたとしても、車を置く場所は無かったからだったのだが、この判断が正しかったのかは分からない。時間がかかっても徒歩や自転車で行くべきだったのかもしれない。
地震前なら第2神明と阪神高速を使って、40分ぐらいの距離だ。例え高速をつかわなくても2時間はかからない。
私は可能な限り、裏道の裏道をとおった、長田周辺や六甲周辺は炎が上がっていた、倒れている住宅や電柱で何度も戻りながら。通れるところなら全て通った。普通乗用車ならば立ち往生するところも、レックスはすり抜けていった。しかし、最後どうしても幹線道路を使わなければならないところで渋滞になってしまった。もう、動かない、どうしようも無く父は降り歩いて病院に向かった。その時、出発してから5時間がたとうとしていた。
父が降りたあと、私は家に向かわなければならない。もう朝である、脇道という脇道から車が流れてくる、自衛隊の車両がサイレンを鳴らしながら中央分離帯の上を走っていく。これ以上幹線道路を通るわけには行かない。そう思った私は脇道に入り車を六甲山へ向かわせた。そう、神戸は海と山が接近している為、東西に進む道は3本の幹線道路以外は殆どないのだ。コレを通らない方法といえば、山を越えて北区を経由して帰ることぐらいであった。
うねる山道も車で一杯だったがまだ流れていた。ふと脇道を見ると、旅行客らしい中年の男性4人が山道を歩いて登っている。おかしい、こんなところを歩いているなんて。私は、車を寄せ声を掛けた。
私「どうしたんですか?」
男性「いや、自宅に戻るところなんだよ」
どうやら、北区にお住まいなのだが、社員研修中に地震が起き、急いで戻ってきたものの交通手段がまったくなく、西宮から徒歩で歩いて来たというのだ。
私「狭いですが乗ってください」
私は、迷わず男性達にそう言った。こんな時に車に乗ってきてしまった自分ができる唯一のことだった。
定員オーバーのレックスは、4人が住んでいる有馬温泉付近へ向かった。
そして、4人を有馬温泉駅付近に下ろし、私は自宅へ向かった。
北区のあたりは、地震があったという様子は全かった、車も殆ど走っておらずスムーズに進んだ。
しかし、垂水区に戻る道は、西区のあたりで完全に渋滞していて動かなくなっていた。幹線道路付近なら抜け道をいくらでも知っているが、このあたりは山を切り開いているので抜け道すらない。
自宅についたのは午後2時だった。しかし、家には誰もいなかった。母も看護助手(看護婦ではないので免許は要らない、看護婦の卵でもないです)として病院勤めていたので病院に行っていたのだ。そう、妻を連れて。
母のいる病院を訪ねると、看護婦の格好をした妻と母がベッドメイクをしていた。
母「○○ちゃんを一人家に置いとくわけにもいかんし、こんな時やし人手はいくらでもいるからな、婦長に言って手伝ってもらうことにしてん、あ、あんたご飯食べてへんやろ、事務室にお弁当あるから食べておいで」
私は事務室で机を借り、妻の看護婦姿を思い浮かべながらお弁当を食べた。
そしたら母が
母「○○ちゃん、岡山に帰らした方がええんちゃうか?」
私「そやな、学校もないやろうし岡山に戻った方がええな。」
そうして、一通り手伝いが終わった妻と、自宅に戻った。
数時間の仮眠のあと、再びレックスで電車の動いていた西明石方面へと向かった。
そこから、3ヶ月遠距離恋愛が始まったのである。
その4(地震の当日2)からのつづき。
地震当日の夜、私と妻と母はリビングに布団を並べて寝た。私が真中で右に妻、左に母。
さすがに狭いので父は一人で自分の部屋で就寝。
途中、なんども余震でゆすり起こされながらも就寝した。
私は、父と深夜2時に起きた。これから、父を西宮の病院まで送り届けなければならない。
父は、医者ではないが、病院の受付業務をしていたのだ。当日こそ出勤できなかったが病院勤務だ、家も家族も無事な以上、出勤しなければならない。病院は大変な状況になっている。
父は数日は帰れないことを覚悟し準備をしていた。問題は病院までの交通手段だった。交通機関は完全にストップしている。あるとすれば徒歩か自転車ぐらいだ。自転車は我が家には無かった。西宮まで約35km、歩いていては9時間はかかるだろう。それでは病院に着くのは遅すぎる。そして、病院と相談、本来ならば自動車を使うべきではないのだが、私が、深夜に父を送り届けることになったのだ。
父は運転免許を持っていない、例えもっていたとしても、車を置く場所は無かったからだったのだが、この判断が正しかったのかは分からない。時間がかかっても徒歩や自転車で行くべきだったのかもしれない。
地震前なら第2神明と阪神高速を使って、40分ぐらいの距離だ。例え高速をつかわなくても2時間はかからない。
私は可能な限り、裏道の裏道をとおった、長田周辺や六甲周辺は炎が上がっていた、倒れている住宅や電柱で何度も戻りながら。通れるところなら全て通った。普通乗用車ならば立ち往生するところも、レックスはすり抜けていった。しかし、最後どうしても幹線道路を使わなければならないところで渋滞になってしまった。もう、動かない、どうしようも無く父は降り歩いて病院に向かった。その時、出発してから5時間がたとうとしていた。
父が降りたあと、私は家に向かわなければならない。もう朝である、脇道という脇道から車が流れてくる、自衛隊の車両がサイレンを鳴らしながら中央分離帯の上を走っていく。これ以上幹線道路を通るわけには行かない。そう思った私は脇道に入り車を六甲山へ向かわせた。そう、神戸は海と山が接近している為、東西に進む道は3本の幹線道路以外は殆どないのだ。コレを通らない方法といえば、山を越えて北区を経由して帰ることぐらいであった。
うねる山道も車で一杯だったがまだ流れていた。ふと脇道を見ると、旅行客らしい中年の男性4人が山道を歩いて登っている。おかしい、こんなところを歩いているなんて。私は、車を寄せ声を掛けた。
私「どうしたんですか?」
男性「いや、自宅に戻るところなんだよ」
どうやら、北区にお住まいなのだが、社員研修中に地震が起き、急いで戻ってきたものの交通手段がまったくなく、西宮から徒歩で歩いて来たというのだ。
私「狭いですが乗ってください」
私は、迷わず男性達にそう言った。こんな時に車に乗ってきてしまった自分ができる唯一のことだった。
定員オーバーのレックスは、4人が住んでいる有馬温泉付近へ向かった。
そして、4人を有馬温泉駅付近に下ろし、私は自宅へ向かった。
北区のあたりは、地震があったという様子は全かった、車も殆ど走っておらずスムーズに進んだ。
しかし、垂水区に戻る道は、西区のあたりで完全に渋滞していて動かなくなっていた。幹線道路付近なら抜け道をいくらでも知っているが、このあたりは山を切り開いているので抜け道すらない。
自宅についたのは午後2時だった。しかし、家には誰もいなかった。母も看護助手(看護婦ではないので免許は要らない、看護婦の卵でもないです)として病院勤めていたので病院に行っていたのだ。そう、妻を連れて。
母のいる病院を訪ねると、看護婦の格好をした妻と母がベッドメイクをしていた。
母「○○ちゃんを一人家に置いとくわけにもいかんし、こんな時やし人手はいくらでもいるからな、婦長に言って手伝ってもらうことにしてん、あ、あんたご飯食べてへんやろ、事務室にお弁当あるから食べておいで」
私は事務室で机を借り、妻の看護婦姿を思い浮かべながらお弁当を食べた。
そしたら母が
母「○○ちゃん、岡山に帰らした方がええんちゃうか?」
私「そやな、学校もないやろうし岡山に戻った方がええな。」
そうして、一通り手伝いが終わった妻と、自宅に戻った。
数時間の仮眠のあと、再びレックスで電車の動いていた西明石方面へと向かった。
そこから、3ヶ月遠距離恋愛が始まったのである。
震災後何度か行きましたが
北区周辺はほとんど被害らしい被害が無かったです。
もちろん交通手段の寸断などはありましたが。
有馬ルートは僕も何時間もかかって通った事を思い出しました。
メインの幹線道路が渋滞で使えないので、救助物資を輸送するトラックに同乗して裏道を案内するというもの。
それぐらい渋滞対策が必要だったんですよね。