2014.1.19 「伊東一族豊後落ちの道歩こう会」第37回を終了しました。35年間続いたこの行事も、主催者の会員数並びに体力的な面等々により、今回を持って終了することにしました。
昭和53年度に西都市立尾八重小学校に勤務することになり、日南市飫肥小学校から転勤したことが、この行事を発起する直接的な原因でした。
日南の飫肥の歴史を楽しんでいるうちに、日南の飫肥の歴史は、伊東家の後半の歴史であることを知るのでした。伊東家の本家本元は西都の都於城であることを知り、また、一族が鹿児島の島津氏との戦に敗れ命からがら大友宗麟を頼り落ち延びていく歴史を知ったのでした。
この一族の落ち延びる行程に勤務地の尾八重があったのでした。早速、資料を読みあさる中で、地域の人々とその歴史を思い描きながら一緒に歩いてみましょうと、始めたのが昭和54年12月の第1回「伊東義祐主従豊後落ちの道を歩こう会」でした。
3年間の勤務を終えて、日南の学校へ転勤することになりました。そこで、この歩こう会も終えるのが普通ですが、当時の壱岐会長さんから、もう少し続けていきましょうとの声をいただき、そのまま継続することになったのでした。
当時、すでに西都市の寒川の廃村や近くの小椎葉小学校の廃校等々、集落の人口も減少が進んでいる時期でもあり、1年に1回でも、「豊後落ちの道歩こう会」で、山々に多くの人の声がこだまし、とくに子供たちの姿を見るのも嬉しいのです、という声にも後押しされ、継続することになったのでした。
いつしか、10年目を迎えるのですが、この行事を終えるどころか、豊後への道を全行程踏破しようという気運まで起こったのでした。そして10年目に、佐土原城・都於城→高千穂田原(河内)まで、約200KMを6泊7日で挑戦したのでした。このときは、UMKテレビが全行程同行取材し、毎日その踏破の様子をニュースで放映して頂きました。) その1年後1月に高千穂→大分臼杵城 2泊3日で挑戦しました。このときは、臼杵市長初め臼杵史談会等々やく5~60名が臼杵城の城門で出迎えてもらいました。
このようにして、11年目へと続き、やがて20年目を迎え、第2回全行程臼杵への踏破を実施、その数年後第3回全行程への挑戦を実施したのであります。
このようにして、35年目を迎えたのでした。35年間に年2回実施したときもあり、37回という回数になっています。
この35年間、延べ約3000人の参加を頂きありがとうございました。参加者の皆さまには、つたない歴史紹介のガイドでしたが、この中世戦国時代の郷土の歴史の一部を肌で感じていただけたのではと思っています。
第2~3回目ごろから、毎年友人を多数誘い参加頂いた西都市の日高氏には、第1回豊後落ち全行程踏破、第2回、第3回と主催者として加わってもらい、成功に結びつけてもらいました。また、この会を数年後の「伊東マンショ没後400年」までは、継続したいということで、会長職まで引き受けていただいたところでした。
日高氏の話によれば、現在、有名になっている鎧を着ての学校行事?(都小こ祭り)や西都市の中学生のイタリアローマ派遣等々へ、この「豊後落ちの道歩こう会」の効果が大であった、という話をいただき、35年を振り返りながら、嬉しく思うことでした。
何よりも、一番は、常に心配していた尾根道でのけがや事故が、この35年間一度もなかったことでした。これは、毎回参加者が出発前の歴史紹介等々で、一日落人一族になり、団体行動をとり、危険な個所では、若い元気な者が手を差し伸べ、また、道下に降り、いつでもくいとめるといった協力を常にやってくれたことが、無事故へとつながったと思います。初回、私の娘は4歳だったと思いますが、途中からは、村の青年に背負われての歩こう会で、その時の写真が手元になります。すでに、当時と同じ年頃の子を持つ母親になっていまが、やはり35年という年を実感する写真です。
この歩こう会は、今後はいろいろと形は変わっても、この道は、西都の貴重な歴史遺産であります。
西都市が、市民向け生涯学習等々で生かしながら、後世に伝えていかれることを願っています。 西都の皆さん、県内にそのまま残るこの貴重な歴史の道を大事に保存してください。35年間は、私ども、数名が守ってきました。今後は、みなさんが,頼りです!
☆ ご参加のみなさん! 郷土の歴史を想像たくましく体で感じていただけましたか? 今後、ゆっくりこのブログで35年間を紹介する予定です。
≪豊後落ちの道の発起者より》
昭和53年度に西都市立尾八重小学校に勤務することになり、日南市飫肥小学校から転勤したことが、この行事を発起する直接的な原因でした。
日南の飫肥の歴史を楽しんでいるうちに、日南の飫肥の歴史は、伊東家の後半の歴史であることを知るのでした。伊東家の本家本元は西都の都於城であることを知り、また、一族が鹿児島の島津氏との戦に敗れ命からがら大友宗麟を頼り落ち延びていく歴史を知ったのでした。
この一族の落ち延びる行程に勤務地の尾八重があったのでした。早速、資料を読みあさる中で、地域の人々とその歴史を思い描きながら一緒に歩いてみましょうと、始めたのが昭和54年12月の第1回「伊東義祐主従豊後落ちの道を歩こう会」でした。
3年間の勤務を終えて、日南の学校へ転勤することになりました。そこで、この歩こう会も終えるのが普通ですが、当時の壱岐会長さんから、もう少し続けていきましょうとの声をいただき、そのまま継続することになったのでした。
当時、すでに西都市の寒川の廃村や近くの小椎葉小学校の廃校等々、集落の人口も減少が進んでいる時期でもあり、1年に1回でも、「豊後落ちの道歩こう会」で、山々に多くの人の声がこだまし、とくに子供たちの姿を見るのも嬉しいのです、という声にも後押しされ、継続することになったのでした。
いつしか、10年目を迎えるのですが、この行事を終えるどころか、豊後への道を全行程踏破しようという気運まで起こったのでした。そして10年目に、佐土原城・都於城→高千穂田原(河内)まで、約200KMを6泊7日で挑戦したのでした。このときは、UMKテレビが全行程同行取材し、毎日その踏破の様子をニュースで放映して頂きました。) その1年後1月に高千穂→大分臼杵城 2泊3日で挑戦しました。このときは、臼杵市長初め臼杵史談会等々やく5~60名が臼杵城の城門で出迎えてもらいました。
このようにして、11年目へと続き、やがて20年目を迎え、第2回全行程臼杵への踏破を実施、その数年後第3回全行程への挑戦を実施したのであります。
このようにして、35年目を迎えたのでした。35年間に年2回実施したときもあり、37回という回数になっています。
この35年間、延べ約3000人の参加を頂きありがとうございました。参加者の皆さまには、つたない歴史紹介のガイドでしたが、この中世戦国時代の郷土の歴史の一部を肌で感じていただけたのではと思っています。
第2~3回目ごろから、毎年友人を多数誘い参加頂いた西都市の日高氏には、第1回豊後落ち全行程踏破、第2回、第3回と主催者として加わってもらい、成功に結びつけてもらいました。また、この会を数年後の「伊東マンショ没後400年」までは、継続したいということで、会長職まで引き受けていただいたところでした。
日高氏の話によれば、現在、有名になっている鎧を着ての学校行事?(都小こ祭り)や西都市の中学生のイタリアローマ派遣等々へ、この「豊後落ちの道歩こう会」の効果が大であった、という話をいただき、35年を振り返りながら、嬉しく思うことでした。
何よりも、一番は、常に心配していた尾根道でのけがや事故が、この35年間一度もなかったことでした。これは、毎回参加者が出発前の歴史紹介等々で、一日落人一族になり、団体行動をとり、危険な個所では、若い元気な者が手を差し伸べ、また、道下に降り、いつでもくいとめるといった協力を常にやってくれたことが、無事故へとつながったと思います。初回、私の娘は4歳だったと思いますが、途中からは、村の青年に背負われての歩こう会で、その時の写真が手元になります。すでに、当時と同じ年頃の子を持つ母親になっていまが、やはり35年という年を実感する写真です。
この歩こう会は、今後はいろいろと形は変わっても、この道は、西都の貴重な歴史遺産であります。
西都市が、市民向け生涯学習等々で生かしながら、後世に伝えていかれることを願っています。 西都の皆さん、県内にそのまま残るこの貴重な歴史の道を大事に保存してください。35年間は、私ども、数名が守ってきました。今後は、みなさんが,頼りです!
☆ ご参加のみなさん! 郷土の歴史を想像たくましく体で感じていただけましたか? 今後、ゆっくりこのブログで35年間を紹介する予定です。
≪豊後落ちの道の発起者より》