ちーちゃんの部屋

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バリアフリーってなあに?

2012年07月18日 | 日記
地元の社会福祉協議会から 中・高生を対象に 『バリアフリーってなあに?』をテーマに講演してほしいって

お願いされちゃったので “NO”と言えない ちーちゃん 引き受けちゃいました
ちーちゃんの経験が 誰かの役に立つといいな

ちーちゃんのこと わかってくれる人がいるといいな

よかったら 読んでみてください。  ウザイかもしれないけど







みなさん、こんにちは。東海村役場会計課に勤務しております茅根亜紀と申します。
2年前からひたちなか市に引っ越し、ヘルパーをお願いしてアパートで一人暮らしをしています。実家生活のときは、不便な事・不自由な事は、両親に頼んだり、我慢したり、諦めてしまったりしていましたが、ヘルパーをお願いして自立生活をするようになり、生活の全てを自分の責任と判断で行えるようになり、毎日が充実しています。
今日は「バリアフリーってなあに?」をテーマに私の体験談を話させていただきます。
みなさんのお役に立てるのか分かりませんが、よろしくおねがいします。

 私は、3歳のときに交通事故に遭い、脊髄を損傷して車椅子の生活になりました。
事故直後、両親が病院の先生から「この子は一生、車椅子生活になる!一生、歩けない!」と宣告を受けたそうです。今、当時の両親の気持ちを考えると、すごくショックで愕然としていたのだろうと思い、申し訳ない気持ちでいっぱいになります。
当時3歳だった私は、幼かったこともあり、そんな現実も分からず、「いっぱい食べて、おりこうにしていれば、歩けるようになるよね!」と無邪気にしていたそうです。
 今となっては、歩いていた記憶がほとんどないので、車椅子で生活していることが当たり前になってしまい、いつの間にか車椅子が私の個性になってしまいましたけどね(笑)

 4歳から中学生まで、リハビリと療養のため、親元を離れて「県立こども福祉医療センター」という施設で生活し、学校は隣りにある水戸養護学校に通っていました。
そこには、自分と同じように車椅子に乗っている仲間や、もっと重い障害を持っている仲間がたくさんいて、お互いに助け合ったり、励ましあったり、時にはぶつかり合ったりして、いろんな困難をみんなで支え合いながら乗り越えて生活していました。なので、そこで出会った仲間とは兄弟以上の強い絆で結ばれていて、今でも人生の宝物だと思っています。そんな信頼できる仲間と、理解ある先生や職員達に支えられての生活は、すごく居心地が良く、温室のようにあたたかい所でした。設備の面でも、エレベーターやスロープがあり、段差や階段は一つもなかったので、自由に車椅子で移動することができ、安心して生活することができました。
 
 中学三年生になり、高校受験を迎える年になりました。養護学校にも高等部があり、進路のことを親身に考えてくれるなど、すごく魅力的ではあったのですが、温室のような守られた場所ではなく、これから社会に出ていく第一歩として一般の高校に行って、いろんな人と出会い、いろんな経験をしたいという気持ちが強くあったので、一般の高校への入学を決めました。
 当時は、一般の学校に行く障害者がまだ少なかったので、学校側の対応が十分ではなく、先生や友達に私を理解してもらうのに時間がかかり、毎日が試練との戦いでした。そんな状況での入学だったので、不安と戸惑いでいっぱいでした。
また、親が付き添って教室移動や身の周りの世話をすることが高校入学の条件だったので、母と二人三脚で高校三年間を送りました。
車椅子で動きやすいようにと、特に設備は整っていなかったので、一階から四階の教室移動などを母が私をおんぶして、階段を上ったり下りたりしていました。それが毎日なので、すごく大変だっただろうと思います。私のために頑張ってくれたそんな母のおかげで、貴重な高校生活を送ることができたので、心から感謝しています。
 たしか一年生の時だったと思います。弁論大会に出て、全校生徒の前で自分のことを分かってもらうため、「車椅子に乗っているけど、みんなと同じ仲間なんだよ!」的な内容のことをスピーチしました。みんな真剣に聞いてくれ、その弁論大会を境にみんなが自然に接してくれるようになり、高校生活が楽しくなりました。体育祭や修学旅行も、クラスのみんなの協力でみんなと一緒に参加することができました。みんなとやっと一つになれたような気がして嬉しかったのを覚えています。
 
 また、私は高校時代、サークルでJRCに所属していました。JRCとは、ボランティア活動をするサークルです。老人ホームを訪問して、お風呂上がりのおばあさんの髪の毛をドライヤーで乾かしてあげたり、勝田養護学校のクリスマス会に行って人形劇をしたり、24時間テレビ主催のチャリティーイベントで募金活動をしたりしました。このサークルで活動したことによって、今までボランティアを受ける側だった私が、ボランティアをする方の立場になり、人は支え合って生きていることを心から実感することができました。本当に貴重な経験でした。生きていく上で、すごく大事なことを学んだような気がします。
 
 高校卒業後、車の運転免許取得をし、行動範囲がぐっと広がりました。短大生活を満喫した後、東京電力に入社しOL生活を3年間経験しました。やっぱり社会は甘くありません。
障害者雇用で入社しましたが、私が配属された職場では、障害者を雇うのが始めてだったらしく、思うように仕事も与えてもらえず、親睦会等の席にも呼んでもらえず、特別扱いをされているように感じ、寂しかったのを覚えています。
そんなOL生活を経験して、私のようにつらい思いをする人を増やしたくないと思い、ひとりの障害者として、ひとりの公務員として、福祉に貢献したいと思い、東海村役場への転職を決めました。東海村役場で働いて10年になりますが、実際のところ住民の福祉ために貢献できているどうかは分かりません。しかし、車椅子の私が健常者の人たちの中で普通に働き、前向きに生活を送ることが、共に働く役場職員や、窓口に来る住民の方に対して、「障害者も健常者も同じ人間なんだよ」という理解を深めることなのだと信じ頑張っています。
 
仕事以外でも、スキューバダイビングのライセンスを取ったり、チェアスキーや水泳に挑戦したりして楽しんでいます。障害者スポーツをするには、私一人では何も出来ませんが、私達をサポートしてくれる大勢のスタッフのおかげで、スポーツを通して仲間が増え、スポーツを楽しむことが出来るようになりました。
 障害者スポーツは、まだまだ社会に浸透していないように感じますが、もっともっと障害者のことを地域の人達に知ってもらうことができれば、理解あるスタッフが増えて、障害者が利用しやすい施設が増えれば、障害者がごく自然にスポーツを楽しむことが出来るのだろうと思います。
また、障害者のことを地域の人に知ってもらうことで、障害者が地域の中で、地域の人の協力を得てイキイキと自分らしく生活することができます。当たり前のことが当たり前にできる喜びを感じることができます。
それを実現するためにも、障害者が積極的に街に出て行くことが大切だと思います。
自分の姿を周りの人に見てもらい、障害者がいることを自然に受け入れてもらえれば最高です。

 「バリアフリー」とは、お互いを理解し合うこと・支え合うことで実現するのだろうと思います。どんなに階段や段差がなくなって、車椅子で動きやすくなったとしても、心のバリアフリーが実現しなければ、本当のバリアフリーとは言えないと思います。
 みなさんも他人事ではないことを分かってください。何かの病気にかかって体が動かなくなってしまうかもしれません。交通事故に遭って車椅子生活になるかもしれません。
また、高齢になり足腰が弱くなって、誰かの助けがなければ生活することが出来なくなるかもしれません。
 どうか、相手の立場になって、相手を思いやれる優しい人になってください。

 ご静聴、ありがとうございました。







 








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