どうも宗教二世です。
このネタはテンションが低い。
この内容で明るい気持ちで居られるときはどこかに吐くことなんてないから。
そういう時も書くことができたら全体像が見えるしフェアなんだろうけど。
私今週お誕生日がありました。
私の親は信仰を持っている同志で宗教結婚しそこに生まれたのが私と兄弟です。
子供が学校から私の実家に帰っているため夕方拾いに行きます。
なんとなく誕生日だからと言っても特別な気持ちはないので
そのまま帰ってもと言う気持ちだったけど夕食とケーキを用意してくれたのでお誕生日会をやってもらいました。
実家には小さい祈禱室があります。
誕生日だから父が祈祷するからと
私は「いい(結構の意)」と言ったけど許されなくて面倒だったので
祈祷室に行き父が祈祷。
その後各自祈祷。
その後食前の祈祷を娘がさせられるが特別な日なのにいつもと同じ内容だったから
母に「ママが祈る姿を見せてないから」と言われたが、
「それ言われても私は何にも思わない。」と返した。
さらに嫌味を言われたけど無視したし忘れた。
てかさ、信仰ってやらせたり強制するものではない。
それも成人したいいおばさんになった娘に。
確かに小さい子供の頃から親の信仰を教えていかないと
信仰の道は選択肢として残らない。
なので親はそれが正しいと思っていて子供にも信仰して欲しいと思うのは当然なので、養育下にあるうちは信仰の選択肢を与えるという意味で
付き合わせるのは当然必要だと思うから、
マスクして仮名で顔を晒したつもりになって二世の権利だ一世は虐待している、法律で何とかするべきだという小川さ〇りさんには全く賛成も共感もできない。
親の気持ちや親の信仰の自由や価値観、人生は尊重しないのか?
親が正しいと思う価値観を伝えていくことは虐待ではない。
それ以上の行為は信仰は関係なくてその家庭、親個人や親子関係の問題だ。
私や恐らく周りの悩んでいる二世たちも教理が正しいのかどうかは問題ではなくて、親がそれを大切にしていて人生をかけてやってきた事だけど
自分はやりたいと思っていない事、むしろやりたくないに近かったりする事、だけど親の願い、神の願いはわかるから自分の考えを通すことができない事で苦しいんだと思う。
教理に関しては私は間違ってるとは思っていないし
常識的、道徳的、倫理的に至極当然の事を声高らかに言っているだけなので
違和感はない。
教理に意義があれば恐らく悩まずに去る人が多いのではないかな。
ただ、教理の本を読むのも講義を聞くのも好きではない。
その為に時間やお金を使い、精神的にも縛られるのは嫌だ。
そして宗教二世に生まれてよかったと思うことはあんまりない。
私の場合は二世でも年齢が大きい方に入るので成人までの信仰生活やら
学生の活動も開拓ばかりで本当に苦労したと思うし辛かった。
自分で決めてやっていたことだけど、
やりたかったのではなくやらなければいけない。親や神がそれを望んでいるからと言う思考回路。
それは今も同じ。だから、決断できないんだ。
そして一番は結婚の失敗だろう・・・・。
19~29歳の10年。
生物としては一番キラキラしていて、
見た目もピーク、社会的にも礎を築き積み上げる、結婚も多くはこの時期。
その時期、人生で一番つらかった。
子供は授かったけど引き換えた苦労は壮絶だったし何にも生産のない10年だったように感じる。
離婚してあと数年で10年になるが、この年齢で放りだされて
さらに子供までいたら縁談なんて普通はない。
もう娘も大人に近づいてきたので結婚はあきらめないとかもしれない。
あの結婚をしなければ、自分が二世でなければ、
そう思わないはずはない。
10年で失ったもの築けなかった物は仕事や結婚、子供に直結だもの。
そんな中で信仰を選び続ける事なんて簡単ではない。
人生めちゃくちゃにされたとさえ思う。
やっていていいことなんてなかったのに
まだ「親の願い」「神の願い」を軸にする義理がどこにあるのだろうか?
結婚自体に関しては親も神も悪くない。
お互いの足りなさと相性、相手の問題。
だけど幸せになれないと思いながらも破棄しなかったのは
宗教結婚だから破談にできない。これが願いなんだと言う思い。
結局その考えを軸にして自分の気持ちは無視してきたのだ。
自分のやりたいやりたくないを判断の基準にしていいのだ。
もう親からは独立しているはずなんだし。
親の「信仰して欲しい」思いに答えたいと思っていないし
信仰に私自身の動機はない。
だけど親の願いには答えていたい。
と言うかさ、親も子は別人格の人間なんだから他人の在り方に願いを持つのは間違っているよね。
とにかく、悩む。
結婚だって二世にも一般社会にもこの年齢ではいい人は出会わない。