DEEP ACIDなんでもかんでも日記・ヤプログ!より移行

人間中心主義

 先ほどの努力論についてもう一言。そもそも、人類の努力が評価されるようになったのは、プロテスタント系キリスト教が始まってからで、15~16世紀の話である。つまり、人類史の中では比較的新しい風潮。農業などの第一次産業が中心だった産業革命以前の世界には努力論的なものはほとんどなかった。もちろん機械化されていない時代の農作業は大変だったことだろう。しかし農作業の大変さ=人間の労働の大変さは収穫量には全く関係がない。収穫量つまり生産量は気候や地質に依存するところが大半、どんなに頑張って苗を植えても干ばつで育たない、台風で作物がやられた、あるいは害虫に食い荒らされた、と言った具合に人間の努力を超えたところで収穫量が決まっていた。努力が報われると考えられるようになったのは産業革命以降の人的労働が生産量にある程度比例するようになってからである。
 経済と言うのはひょっとすると、合理的な努力量と生産量が比例する世界ではなく、より人的労働を超越したところで決まるものかもしれず、だとしたら格差論なんか振り回さなくても生産量を努力に結びつけることはナンセンスなことに思える。
 だから努力なんてものを考慮に入れることはプロテスタント以前の古典宗教にはない。人の努力目標はあくまでも善行であり、経済活動面で努力を求めると言う発想自体がない。もうこの辺りからキリスト教(プロテスタント)中心の欧米社会とイスラム教中心の社会とで価値観は大きく違うよね。対話ができるようにするには、やはり先ず両者がこうした価値観の前提条件を明確にする必要がある。
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