東京土建の上部団体の全建総連大会が復帰40周年を記念して、沖縄で10月10日から12日に掛けて行われました。初めて沖縄に行きましたが、幸運にもF席に座った私は、飛行機の窓から、沖縄の島々、どこまでも透き通る青い海を見ることが出来ました。温暖な気候で夏もそんなに暑くはならないそうです。
さて大会2日目の午後から自由行動がありました。葛飾、文京、荒川の役員8名とフロントに「オスプレーを見たいのですが」と頼むと、ワゴンタクシーを呼んでくれました。沖縄には地下鉄も市電も無く、那覇空港と首里城を結ぶ沖縄都市モノレールが一区間あるだけで、マイカーが主な交通手段だそうです。タクシーは多く初乗り料金は500円なので近くに行くにも利用するそうで、目と目が合えば乗せてくれると聞きました。また居酒屋には駐車場があり、その分酒酔い事故が多いそうであります。
「那覇かりゆしホテル」から2、30分ほどで連れて行かれたのが、「嘉数高台公園」、タクシーから1,2分ほど歩くと一般の公園が広がり、急な20メーターほどの丘を石階段で登ると頂上、さらにコンクリートの螺旋階段を回っていくと展望台です。上りきると、前景に宜野湾市が一望に眺められました。遠くまで民家を望めます。4キロ先に民家をどけるように、広大な普天間飛行場が見えました。普天間飛行場は「昭和20年」の米軍占領と同時に地主3031人から土地を強制接収し、本土決戦に備えて滑走路が建設されそうです。本土復帰後においては、国の提供施設として米軍海兵隊により普天間飛行場として使用されています。宜野湾市の約24、4%が基地で占められています。オスプレーは肉眼では見られませんでしたが、後日写真をパソコンで拡大しますとオスプレーの3本のプロペラが微かに確認できました。
嘉数は、戦前、田畑に囲まれたのどかな集落であつたそうですが、「昭和20」年4月1日、米軍が沖縄本土の中部西海岸から上陸すると、戦闘が始まる前に、南部方面へ避難した人と嘉数に残り洞窟に避難した人がいましたが、いずれも戦闘に巻き込まれ、住民の半数以上が亡くなられました。嘉数高地は、日米両軍の銃弾砲弾が雨あられのごとく降り注いだ、沖縄戦における最激戦地のひとつでした。2週間余に及ぶ戦闘の末、日本軍は浦添前田高地に撤退しましたが、日米両軍の戦死者に加え、多くの地域住民も戦闘に巻き込まれ犠牲になりました。
嘉数公園には、住民が避難した洞窟や日本兵が利用した「ミーガ」、戦闘で使用された「トーチカ」、戦闘を物語る「弾痕の塀」、沖縄戦で亡くなった住民の「嘉数の塔」、沖縄戦に参加した京都府下出身の将兵2530有余の戦死者を祭る「京都の塔」などの慰霊碑が多数点在していました。
さて、戦後67年も過ぎてもいまだに居座り続ける米軍による戦闘機事故や、先日もあった海兵隊による強姦暴行事件も頻繁に起こっています。67年も苦しめられている沖縄の人々、今また安全性が確認されていないオスプレー配備や、騒音で苦しめられている多くの住人、子供の安全を思う両親の苦しみは計り知れません。米国は有事の最には日本を守ってはくれません。一刻も早く日米地位協定を破棄し、米軍は日本から出て、基地を沖縄に返すよう願わずにはおられません。優しい沖縄の方々と青く珊瑚の海、沖縄には軍隊は要りません
皆さん、戦争が二度と起こらないように英知を絞り、基地の無い日本と、今以上に憲法改憲を許さない世論の構築を進めましょう。
谷中分会 斉藤 誠