Dream of Sangwoo

♫드림오브상우♫ クォン・サンウ 권상우-ssiに癒されて‥💕Kwon Sang Woo Fighting!!

それぞれの使命感。。

2011-04-01 10:28:00 | バズ&ハニー&マリー/旅/その他私事








今日から4月。

学校や会社も新しい年の始まり^^

新しい生活をスタートされた方も多い事と思います。

東日本大震災のことが頭から離れることはなく 思うこともいろいろありますが。。


何事も前向きに。。頑張りましょう!!





こちら64年ぶりの復活だそうです。


 「稲むらの火」教科書に 津波の教訓伝えるため64年ぶり

(2011年3月31日)




 江戸時代に紀州藩広村(現・和歌山県広川町)を襲った大津波から人々を救った実業家浜口梧陵(はまぐち・ごりょう)がモデルの物語「稲むらの火」が、浜口の伝記の形で、4月から使われる小学5年の国語教科書に載る。物語は1937年から10年間、国語教科書に載っており、64年ぶりの復活だ。津波の教訓を子どもたちに再び伝えることになる。

 発行する光村図書出版(東京)によると、教科書は全国の公立小の6割で使われる。東日本大震災の発生前から掲載が決まっていた。鷲巣学編集本部長は「子どもたちに助け合いの気持ちや郷土への思いを学んでほしい」と話している。

 物語は1854年、安政南海地震で広村が大津波に襲われた際、浜口がわらに火を放ち、暗がりで逃げ惑う村人を高台に誘導したという実話に基づく。作家小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が明治時代に英語で小説化し、それを基に地元の小学校教員が児童向けに翻訳、再構成した。

 今回の伝記は「百年後のふるさとを守る」と題し、防災に詳しい河田恵昭関西大教授が書いた。物語の概要を紹介した上、その後の話として、浜口が次の津波に備えるため私財を投じ、住民とともに4年をかけて全長約600メートルの堤防を完成させた史実を取り上げた。

 「稲むらの火」はアジア各国の言語にも翻訳され、2004年のスマトラ沖地震による津波被害後には、当時の小泉純一郎首相とシンガポールのリー・シェンロン首相との間で話題になったこともある。



浜口梧陵翁(稲むらの火のモデル)が津波襲来時に逃げ遅れたものに避難路を示すため
稲むらに火をつけようと松明(たいまつ)をもって走る姿(広川町役場前・稲むらの火広場の銅像)




稲むらの火

 「これはただ事ではない」とつぶやきながら、五兵衛は家から出てきた。
今の地震は、別に烈しいというほどのものではなかった。しかし、長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の家の庭から、心配げに下の村を見下ろした。村では豊年を祝う宵祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向に気が付かないもののようである。
 村から海へ移した五兵衛の目は、たちまちそこに吸いつけられてしまった。風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、みるみる海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れてきた。
「大変だ。津波がやってくるに違いない」と、五兵衛は思った。
このままにしておいたら、四百の命が、村もろとも一のみにやられてしまう。もう一刻も猶予はできない。
「よし」と叫んで、家に駆け込んだ五兵衛は、大きな松明を持って飛び出してきた。そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んであった。
「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ」と、五兵衛は、いきなりその稲むらのひとつに火を移した。風にあおられて、火の手がぱっと上がった。一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
こうして、自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。稲むらの火は天をこがした。

 山寺では、この火を見て早鐘をつき出した。「火事だ。庄屋さんの家だ」と、村の若い者は、急いで山手へ駆け出した。続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うように駆け出した。
 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻の歩みのように、もどかしく思われた。やっと二十人程の若者が、かけ上がってきた。彼等は、すぐ火を消しにかかろうとする。五兵衛は大声で言った。
「うっちゃっておけ。ーー大変だ。村中の人に来てもらうんだ」

 村中の人は、おいおい集まってきた。五兵衛は、後から後から上がってくる老幼男女を一人一人数えた。集まってきた人々は、もえている稲むらと五兵衛の顔とを、代わる代わる見比べた。その時、五兵衛は力いっぱいの声で叫んだ。
「見ろ。やってきたぞ」
たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指差す方向を一同は見た。遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。その線は見る見る太くなった。広くなった。非常な速さで押し寄せてきた。
「津波だ」と、誰かが叫んだ。海水が、絶壁のように目の前に迫ったかと思うと、山がのしかかって来たような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとをもって、陸にぶつかった。人々は、我を忘れて後ろへ飛びのいた。雲のように山手へ突進してきた水煙の外は何物も見えなかった。人々は、自分などの村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。二度三度、村の上を海は進み又退いた。高台では、しばらく何の話し声もなかった。一同は波にえぐりとられてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。稲むらの火は、風にあおられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。

はじめて我にかえった村人は、この火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。






この話 知りませんでした。。

荘屋さんの機転によって助けられた命。。

それは村人たちの一致団結の心によって救われたのでしょうね・・



津波が起きたら まずは高いところに避難し海沿い、川沿いから離れる。。

わかっていても・・今もう一度確認しておきたいですね。。



短いお話の中に 人と人との絆の大切さと高波への教訓が盛り込まれた 素敵なお話です。。






そしてこちら。。

赤プリ記事です^^


 もうひと仕事しますが…政治家 芸能人も愛用 赤プリ 55年の歴史に幕
2011年3月31日




「赤プリ」の愛称で親しまれた東京・紀尾井町のグランドプリンスホテル赤坂(旧赤坂プリンスホテル)が31日に営業を終え、55年余りの歴史に幕を閉じた。政治家の重要会合や芸能人の結婚披露宴の舞台として脚光を浴び、バブル期には若者らの人気デートスポットに。4月からは約3カ月間にわたり、東日本大震災の被災者らの受け入れ施設として活用される。

 約24年間愛用し、最後のチェックアウト客となった米ボストン在住の清水弘美さん(53)は「家族にとって東京での家という感覚を持っていたので寂しい」としんみり。一方で被災者の受け入れ施設としての活用には「もう一仕事してくれると思うとすごくうれしい」と笑顔を見せた。

 1955年に開業。故丹下健三氏が設計した翼を広げたような外観の40階建ての新館が83年に誕生し、上層階の客室からは東京の夜景を一望できただけに「バブル期は顧客であふれ返る状況だった」(門脇万里子宿泊部長)。自民党の町村派(清和政策研究会)はホテル内に拠点を置いた。

 だが、運営してきたプリンスホテルなどは、施設が老朽化し、外資系ホテルなどとの厳しい競争に立ち向かうのは難しいと判断。新館などを解体した後は、跡地にホテルやオフィス、店舗などで構成する複合施設を建設する計画だ。




いままでお疲れ様でした・・

そして もうちょっと 頑張ってください^^






  原発作業員 事故の精神的ショックで声かけに応じられぬ人も

(2011年3月31日)



いまなお、予断を許さない状況が続く福島第一原子力発電所。12日に発生した1号機での水素爆発後、作業員たちは原子炉から200メートルほど離れた免震重要棟で寝泊りしながら作業を続けた。その免震重要棟内の様子を、20代の作業員・Aさんはこう話す。

「食事は魚の缶詰とかビスケット、乾燥ご飯(水を入れて軟らかくして食べるご飯)などを食べていました。ただ充分な量は確保できないので、常に空腹という感じでした。

寝るときは、廊下だとかそこら辺の床でごろ寝です。毛布の数が足りず、3~4人で1枚程度でしたから、みんなで体を寄せ合って寝ていました。熟睡なんかまったくできませんでした。

そこには作業員だけでなく、爆発で破片が飛んできたりして打撲や骨折などのけがをした人たちもたくさんいました。精神的なショックで、話しかけてもボーっとしたまま応答がない人とか、全身が震えていたり、あるいは脱水症状を起こしている人もいました。でも原発の外も大きな被害を受けているはずですから、救急車を呼ぶとかそういう状況ではありませんでした」

体調の悪い人たちを充分に看病できない心苦しさがあっても、現場の復旧をまず優先しなくてはならない。そんなストレスも重なったという。




命がけの復旧作業をしている作業員の方が 十分な食事もとれず精神的不安の中で作業してくださっている。。

(被災地への救助物資や募金でどうにかならないのでしょうか。。)



本当に頭が下がる思いです。。
 

生命の危険が伴うかもしれない場所での仕事。。

ご家族も心配されているでしょう・・


でも 誰かがやらなくてはいけない。。日本を救えるのは自分たち。。

そんな思いで きっと作業してくださっているんでしょうね・・



作業員の皆様 そしてその作業員の方々のご家族の皆様

本当にありがとうございます。

心から深く感謝いたします。。



そんな方たちがいる事を忘れず 毎日生活してきたいです。。



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