亡くなってから忘れたことなど
ありませんが
2ヶ月くらい前かなぁ
父からのメッセージを受け取ったように感じました。
ちょうと洗濯物を干しているとき
ちょっと言葉のチョイスは違うかもしれませんが
大切な人とは離れないこと。
もう2度と会えなくなる。
みたいなそんなこと。
父がまだ元気な頃
自分の部屋の
指定席である座椅子💺に座り
よく口ずさんでいた歌がありました。
千昌夫さんの
星影のワルツです。
テレサ・テンさんのバージョンで
星影のワルツ - 鄧麗君 (星夜的離別)
"冷たい心じゃないんだよ〜
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ。死ぬほど〜に"
なんとまぁ情熱的なフレーズ
それを聴きながら
私は密かに父の人生と重ねていました。
父は母とは2度目の結婚でした。
聞くところによれば
先妻さんとの間には子供が出来ず
そのことが理由で別れを余儀なくされたようです。
私には優しかった祖母からの圧力も
その決断を選択した理由のようでした。
具体的には聞いていませんが
母から聞いた話しでは
嫁には厳しいタイプだったのだろうとは
察しがつきました。
父は長男だということもありますし
当時の時代背景もあったのだと思います。
大切な人を苦しませてまで自分のそばに置きたいとは思わないですよね。
大切だからこそ選んだ別れ。
母もそのことは承知していて
うちの父が先妻さんの次の嫁ぎ先までお世話したというような話でした。
父と母はお見合い結婚でした。
母は実家であるお寺を
もしかしたら跡を継ぐことになるかもしれないと
手相占い師の方に告げられていたそうで、
好意を持った人からのデートの申し込みを断ったこともあったのだとか。
跡を継ぐならお相手は僧侶であり
しかも婿養子という形を取るということですね。
そうして
いざという時に備えながら歳を重ねた結果、
当時としてはかなりな晩婚の年齢に。
結局は伯父が継ぐことになったので
母は父の元へ嫁ぎました。
なんとなく不思議な縁で出会った2人でしたが
やはり、出産に関しては苦労があったようでした。
初産で高齢出産であったこと。
男性と交際したこともなくお見合い結婚
しかも、知らぬ土地での新生活
お姑さんとの同居
母のストレスは相当なものだったであろうと
思われます。
それが原因かはわかりませんが
母は2度の流産を経験しました。
2度目は検診に行き無事に育っているとの
診断を受け、自宅に戻った後のことだったそうです。
それで母は子宮口を縛る手術を受ける決断をし
帝王切開で私と弟を産んでくれました。
私は低出生体重児で産まれたため
しばらく保育器に入っていたそうです。
父が院長と争ってまで母乳を飲ませると
押し通し、母の搾乳した母乳を飲ませるこだわりよう。
自宅に戻ってからは
母乳が足りずミルクを与えることになった私のために、父や祖母まで夜中起きだして
母をサポートしてくれたそうです。
出産時の話を思い出すたび
私はどうしても産まれて来たかったのだろうなと
感じますし、
3歳の頃の記憶 こちらに書いています。
を思い出すたび
どうしても生き延びたかったのだろうなと
感じます。
祖母は私や弟をとても可愛がってくれました。
しかし、私たちがまだ幼い頃に遠方で暮らす父の妹の元へ行ってしまいました。
叔母が家を建てたことがキッカケでした。
商売をしていた関係でその家にはずっと居られないから、祖母に留守番を兼ねていて欲しい...とか
事実はどうだったのか知りませんが
それから数年後
叔母の方から祖母と同居して欲しいという話が来ました。
私は確か中学生だったと思います。
父が叔母と電話で話していた内容も覚えています。
高齢者がいきなり環境を変えると
そこから痴呆が始まる(現在の言い方だと認知症かな?)
自分は祖母とずっと同居するつもりで
将来のことも(家とか)考えていた
(しかし、祖母は出ていった)
とかそんなことを言っていました。
その頃はすでに父が病気を発症し
母が働きに出ていました。
叔母は母のお給料分のお金を自分が出すから
仕事を辞めて看て欲しいとまで言いましたが
父が受け入れることはありませんでした。
父の真意がどこにあったのかは
わからないけど、母に祖母の介護は無理だろうと
思ったのかもしれません。
結局、祖母は老人ホームに入居しました。
母が折に触れ贈り物をしていましたが
ある日電話で周りの方々が羨ましがるから
辞めてほしいと言われたそうです。
祖母はその後病院へと移り、
長寿を全うしました。
父と母の人生から何を学ぶのだろうか
そう考えたとき
2人はやはり家に縛られた人生だったのだろうと思います。
それは多くの結婚という形に付属する
当たり前のことなのかもしれません。
父は外で嫌なことがあっても
帰宅し子供の顔を見ると
そんなのも吹っ飛ぶと言っていた人だったので
やはり子供が欲しかったのだと思いますし、
子育てすることが父の人生のカリキュラムだったのだろうと思います。
父は母を愛し感謝していましたし
母も一生懸命父に尽くしていました。
だから2人の結婚生活は
苦難はあれど幸せだったと私は思います。
2年前の3月14日の私の離婚を待っていたかのように、
3日後の17日に父は亡くなりました。
その後は母の世話もあるので
実家にお世話になっていますが
今でも父に守られているのだなと思うと
本当に感謝しかありませんし
ちゃんと自力で立てるようにならなきゃなとも
思います。
生へのモチベーションが下がりそうなとき
両親の人生を思えば
父や母や
それから父の先妻さんの痛みの上に
成り立っている私の生なのだと
ちゃんと大事にしなきゃなと
そう感じます。
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..
恋愛の歌といえば
昨夜、チャンネルを変えたら
関ジャム
ちょうど セッションのシーン
「歌うたいのバラッド」
でした。
いい曲だなぁと
再確認しました。
私が歌うことが大好きなのは
父ゆずりかもしれません。
斉藤和義 - 歌うたいのバラッド
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:
私がもし超ポジティブ思考の人間ならば
こういったサインを読みとくようなことは
していなかったと思います。
最初のキッカケは
自ら望んだものではありませんでしたが
大きな不安が渦巻くような時も
そこに飲み込まれず生き抜く術として
導かれるように身ににつけていったことでした。
今回、こんなことを書きたくなったことについて
ちよっとカ-ドをひいてみました。
ガイドブックの解説は→ こちら
"嗚呼 唄うことは
難しいことじゃない
その胸の目隠しをそっと外せばいい"
人生は選択の連続
でもその中に変わらずあるのは
やはり
「愛がすべてだぁー」
ということではないかと
私は思いますが
いかがでしょうか。
ありませんが
2ヶ月くらい前かなぁ
父からのメッセージを受け取ったように感じました。
ちょうと洗濯物を干しているとき
ちょっと言葉のチョイスは違うかもしれませんが
大切な人とは離れないこと。
もう2度と会えなくなる。
みたいなそんなこと。
父がまだ元気な頃
自分の部屋の
指定席である座椅子💺に座り
よく口ずさんでいた歌がありました。
千昌夫さんの
星影のワルツです。
テレサ・テンさんのバージョンで
星影のワルツ - 鄧麗君 (星夜的離別)
"冷たい心じゃないんだよ〜
冷たい心じゃないんだよ
今でも好きだ。死ぬほど〜に"
なんとまぁ情熱的なフレーズ
それを聴きながら
私は密かに父の人生と重ねていました。
父は母とは2度目の結婚でした。
聞くところによれば
先妻さんとの間には子供が出来ず
そのことが理由で別れを余儀なくされたようです。
私には優しかった祖母からの圧力も
その決断を選択した理由のようでした。
具体的には聞いていませんが
母から聞いた話しでは
嫁には厳しいタイプだったのだろうとは
察しがつきました。
父は長男だということもありますし
当時の時代背景もあったのだと思います。
大切な人を苦しませてまで自分のそばに置きたいとは思わないですよね。
大切だからこそ選んだ別れ。
母もそのことは承知していて
うちの父が先妻さんの次の嫁ぎ先までお世話したというような話でした。
父と母はお見合い結婚でした。
母は実家であるお寺を
もしかしたら跡を継ぐことになるかもしれないと
手相占い師の方に告げられていたそうで、
好意を持った人からのデートの申し込みを断ったこともあったのだとか。
跡を継ぐならお相手は僧侶であり
しかも婿養子という形を取るということですね。
そうして
いざという時に備えながら歳を重ねた結果、
当時としてはかなりな晩婚の年齢に。
結局は伯父が継ぐことになったので
母は父の元へ嫁ぎました。
なんとなく不思議な縁で出会った2人でしたが
やはり、出産に関しては苦労があったようでした。
初産で高齢出産であったこと。
男性と交際したこともなくお見合い結婚
しかも、知らぬ土地での新生活
お姑さんとの同居
母のストレスは相当なものだったであろうと
思われます。
それが原因かはわかりませんが
母は2度の流産を経験しました。
2度目は検診に行き無事に育っているとの
診断を受け、自宅に戻った後のことだったそうです。
それで母は子宮口を縛る手術を受ける決断をし
帝王切開で私と弟を産んでくれました。
私は低出生体重児で産まれたため
しばらく保育器に入っていたそうです。
父が院長と争ってまで母乳を飲ませると
押し通し、母の搾乳した母乳を飲ませるこだわりよう。
自宅に戻ってからは
母乳が足りずミルクを与えることになった私のために、父や祖母まで夜中起きだして
母をサポートしてくれたそうです。
出産時の話を思い出すたび
私はどうしても産まれて来たかったのだろうなと
感じますし、
3歳の頃の記憶 こちらに書いています。
を思い出すたび
どうしても生き延びたかったのだろうなと
感じます。
祖母は私や弟をとても可愛がってくれました。
しかし、私たちがまだ幼い頃に遠方で暮らす父の妹の元へ行ってしまいました。
叔母が家を建てたことがキッカケでした。
商売をしていた関係でその家にはずっと居られないから、祖母に留守番を兼ねていて欲しい...とか
事実はどうだったのか知りませんが
それから数年後
叔母の方から祖母と同居して欲しいという話が来ました。
私は確か中学生だったと思います。
父が叔母と電話で話していた内容も覚えています。
高齢者がいきなり環境を変えると
そこから痴呆が始まる(現在の言い方だと認知症かな?)
自分は祖母とずっと同居するつもりで
将来のことも(家とか)考えていた
(しかし、祖母は出ていった)
とかそんなことを言っていました。
その頃はすでに父が病気を発症し
母が働きに出ていました。
叔母は母のお給料分のお金を自分が出すから
仕事を辞めて看て欲しいとまで言いましたが
父が受け入れることはありませんでした。
父の真意がどこにあったのかは
わからないけど、母に祖母の介護は無理だろうと
思ったのかもしれません。
結局、祖母は老人ホームに入居しました。
母が折に触れ贈り物をしていましたが
ある日電話で周りの方々が羨ましがるから
辞めてほしいと言われたそうです。
祖母はその後病院へと移り、
長寿を全うしました。
父と母の人生から何を学ぶのだろうか
そう考えたとき
2人はやはり家に縛られた人生だったのだろうと思います。
それは多くの結婚という形に付属する
当たり前のことなのかもしれません。
父は外で嫌なことがあっても
帰宅し子供の顔を見ると
そんなのも吹っ飛ぶと言っていた人だったので
やはり子供が欲しかったのだと思いますし、
子育てすることが父の人生のカリキュラムだったのだろうと思います。
父は母を愛し感謝していましたし
母も一生懸命父に尽くしていました。
だから2人の結婚生活は
苦難はあれど幸せだったと私は思います。
2年前の3月14日の私の離婚を待っていたかのように、
3日後の17日に父は亡くなりました。
その後は母の世話もあるので
実家にお世話になっていますが
今でも父に守られているのだなと思うと
本当に感謝しかありませんし
ちゃんと自力で立てるようにならなきゃなとも
思います。
生へのモチベーションが下がりそうなとき
両親の人生を思えば
父や母や
それから父の先妻さんの痛みの上に
成り立っている私の生なのだと
ちゃんと大事にしなきゃなと
そう感じます。
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆*:..
恋愛の歌といえば
昨夜、チャンネルを変えたら
関ジャム
ちょうど セッションのシーン
「歌うたいのバラッド」
でした。
いい曲だなぁと
再確認しました。
私が歌うことが大好きなのは
父ゆずりかもしれません。
斉藤和義 - 歌うたいのバラッド
☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:*・°☆.。.:
私がもし超ポジティブ思考の人間ならば
こういったサインを読みとくようなことは
していなかったと思います。
最初のキッカケは
自ら望んだものではありませんでしたが
大きな不安が渦巻くような時も
そこに飲み込まれず生き抜く術として
導かれるように身ににつけていったことでした。
今回、こんなことを書きたくなったことについて
ちよっとカ-ドをひいてみました。
ガイドブックの解説は→ こちら
"嗚呼 唄うことは
難しいことじゃない
その胸の目隠しをそっと外せばいい"
人生は選択の連続
でもその中に変わらずあるのは
やはり
「愛がすべてだぁー」
ということではないかと
私は思いますが
いかがでしょうか。