公開霊言抜粋レポート
J・S・ミル 新時代の教育論と自由論を語る
公開霊言「J・S・ミル「現代に天才教育は可能か」」
リバティウェブより
http://the-liberty.com/article.php?item_id=8582
2014年6月28日収録
「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。また、外国人の霊の霊言には、霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。 詳しくは⇒⇒⇒大川隆法のスーパー霊能力 「霊言」とは何か
日本では昔から諸外国と比べて識字率が高く、明治以降の義務教育の普及によって、国民の教育レベルはさらに向上した。その意味では、日本での学校教育自体は成功していると言えるだろう。その一方、集団教育に不向きな個性的な子供の教育、あるいは天才児教育に課題を抱えていることもしばしば指摘される。
この「天才教育」に縁が深いのが、19世紀のイギリスで活躍したジョン・スチュアート・ミルだ。父親のジェームズ・ミルから幼少時より英才教育を受け、経済学、政治学、倫理学、論理学、科学哲学など、多くの分野で業績を残したイギリスの思想家である。個人の自由の本質、国家が行使する権力の正当な範囲などを論じた『自由論』が古典的名著とされているほか、『代議制統治論』『功利主義論』『経済学原理』『ミル自伝』といった著作も広く読まれている。
ミルは倫理思想としては「最大多数の最大幸福」というスローガンで有名な「功利主義」の流れを汲んでいる。これは、功利(快楽や幸福)をもたらす行為や制度こそが道徳的に正しいと考える立場。これは、道徳や善悪を幸福と峻別して考えるカント的な「義務論」「厳格主義」と鋭い対照をなす考え方だ。
しかし、ミルは「満足した豚よりも満足しない人間である方がよい。同じく、満足な愚者であるより不満足なソクラテスである方がよい」とも語り、単純な快楽主義には陥らず、質的に高い幸福を求めるべきだとした。功利主義をより精神性の高いものに発展させたと言えるだろう。
幸福の科学の大川隆法総裁は、このJ・S・ミルを招霊し、天才教育のあり方について聞いた。霊言は、教育論ばかりではなく、自由や民主主義のテーマにも触れられ、幅広い内容を含むものとなった。
早期の英才教育への懸念
ミルは父からの英才教育によって早くから才能を開花させた。3歳からギリシャ語を学び始め、子供時代のうちにギリシャ語やラテン語の古典を難なく読めるようになっていた。数学、論理学、政治経済学、自然科学、歴史など、20歳頃には大抵の学問を学び終えてしまっていたという。
自らが経験したような早期の英才教育について聞かれたミルの霊は、音楽やスポーツなど、確かに早い方が有利になる分野はあると認めつつ、「必ずしも早熟であることが全てではない面がある」と指摘。作曲家モーツァルトの例などを挙げながら、幼い頃に過剰な教育を行うと人格や生活への反動が生じやすく、必ずしも本人の幸福にはつながらないことを強調した。
さらに具体的な注意点として、親のサポートがなくなった時や、成長するにつれ学業が周囲に追いつかれてくる時の精神的なフォローも必要であることを示唆。実はミル自身、幼少時からの詰め込み教育の影響からか、20歳を過ぎた頃に深刻な精神の危機を経験している。英才教育に対するこうした見解は、自らの体験から得た教訓であるとも言えるだろう。
ミル自身は普通の学校には通わなかったが、知識の底上げをしている一般的な学校教育は成功していると語った。日本のような集団教育についても、天才が育ちにくいというマイナス面はあるものの、少しずつ積み重ねながら学力を上げていく方が幸福なところがあるとして一定の評価を与えた。
霊言の終盤には「長寿の時代には、長寿の時代の智慧があろうから、歳を取っても智慧が増えていくような社会を建設していきなさい」と語り、若いうちに詰め込んで学び終えてしまうのではなく、年を重ねるにつれ何度も学び直していくことの大切さを強調した。霊言全体として、ミル自身の事例を一般化することへの一定の懸念を示す内容となった。
「多数の専制」を避けつつ、民主主義を守れ
ミルは功利主義者として「幸福」を重視したが、その幸福とは単なる快楽ではなく、天賦の能力の発揮や道徳性の陶冶などを含む広い概念だった。その幸福を得るためには、自ら考え行動する「自由」が絶対に必要となる。政府や法律、形骸化した宗教、社会の慣習が命じる通りに生きるだけでは、人間は成長できないからだ。ミルは、他人に危害を加えない限り、人は自由に生きる権利があると唱えた(危害の原理)。
民主主義は、王や貴族といった少数の統治者による民衆支配を否定して自由を確保すると同時に、自分たちの智慧と能力を発揮してゆく幸福を担保する制度でもある。ミルは生涯を通じて民主主義を支持し、婦人を含めた参政権の拡大を主張し続けた。
しかし、ミルの思想の本領はむしろ、民主主義社会の弱点を見抜き、それが有効に機能するための条件を探究したところにある。彼が最も警戒したのは、多数派が数の力で少数派をねじ伏せる「多数による専制」だ。歴史を見ると、イエス・キリストやソクラテスなど、文明の基を創った偉人たちでも同時代の大衆によって迫害された例は多い。ミルは民主主義に参加する大衆に対しても、それにふさわしい教養や精神態度を要求している。
霊界に還った今でもその考えは変わっていないようだ。霊言では「多数の専制」をバッファローの大群に喩えるなど、その危険性を指摘。「みんながいいと思って決めたことが、正義に適わないことが出てくることがある」「民の代表と言えども、神のごとき目はないので、非効率な面はやっぱりある気はします」という言葉には、民主主義が間違った方向へ向かうことに対する不安が滲む。
さらに、書籍、新聞、雑誌、ネットなど、質に関わらず誰でも情報発信ができる現代の言論状況はミルにとっては不可解であるようだ。ミルの霊は民主主義の平等化の理想が先端化した結果、玉石混交の意見が同じように扱われ、智慧ある者とない者とが区別できなくなっていると分析。この懸念は「愚者とソクラテス」の違いを強調したミルらしい。
それに加えて、ミルの霊は民主主義国家が必ずしも軍事的に優れているわけではないことをリアリスティックに指摘。中国のような国からは日本などの民主主義国家が「腰抜けの集まり」に見えていると述べ、歴史上、専制国家と民主主義国家の戦いで前者が勝つこともあったと注意を促した。
しかしながら、民主主義国家であれば、国民の教養と道徳次第で健全に運営することができるだろう。そこに様々な欠点があるとしても、初めから自由の根絶を目指す全体主義国家・専制国家の悪と同列に論じることはできない。ミルの霊も「リーダーが次々と輩出される」「仮に間違いがあっても修正しやすい」など、民主主義の利点を挙げて専制国家との対比を明確にした。
現代の専制国家である中国については、「思想を一元管理するために、警察や軍隊を使って人々を抑え込んでいるということであれば、無理のあるシステム」「それが他の国に対する脅威にまで発展するのならば、何らかの防波堤は必要」とコメント。さらに、かつてペルシャ帝国と戦った民主主義国家アテネを例に引き、自由を守るために戦う覚悟は現代でも必要だと語った。これは、近隣国の脅威に曝されながら平和ボケを続ける日本人への一喝と受け止めるべきだろう。
霊言の最後、ミルの霊は再び教育論に言及し、変化の激しい現代では、早い段階で学び終えてしまうのではなく、勉強し続ける忍耐力、失敗から学ぶ力を持ち、勇気ある決断ができるリーダーを輩出すべきだと激励して話を締めくくった。
人間の幸福に立脚点を置き、そこから、自由論、民主主義理論を展開した思想家J・S・ミル――。その魂は天上界に還ってなお、地上で自由の精神が滅びないことを祈り、我々を見守っているようだ。現代の人類は、自由を死守し、教育によって個人と社会の智慧を高めてゆくことでその想いに応えねばならない。
「霊言現象」とは、あの世の霊存在の言葉を語り下ろす現象のこと。これは高度な悟りを開いた者に特有のものであり、「霊媒現象」(トランス状態になって意識を失い、霊が一方的にしゃべる現象)とは異なる。また、外国人の霊の霊言には、霊言現象を行う者の言語中枢から、必要な言葉を選び出し、日本語で語ることも可能である。
ここに紹介したのは霊言のごく一部です。詳しくは幸福の科学の施設で、ぜひご覧ください(下記参照)。
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《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのか, と。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。我々の世界は質感。また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居らず, この世界・感覚・魂の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。
《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。
《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。
《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』
生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。
*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識(現象)から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体と意識に連動して作用する。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』
然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)
【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。
【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。
善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。
美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることなく認識と相互してこれを成し遂げようとする生命の在り方。