J.D.サリンジャー(野崎孝訳),1984,ライ麦畑でつかまえて,白水社.(2.5.25)
前に読んだのは、村上春樹訳だったが、この野崎孝訳も良い。
ドロップアウトを繰り返す17歳の少年、ホールデンが呪詛のように紡ぎ続ける、偽善と虚飾にまみれた大人たちと、その予備軍たる同輩への、汚らしい誹謗の言葉──機関銃のように吐き出されるそれらの言葉は、『桃尻娘』の榊原玲奈や、『チェリー』のニコ・ウォーカーのそれを彷彿とさせる。
作品の基本的性格を単純化して言えば、子供の夢と大人の現実との衝突ともいえるだろう。いつの世にも、どこの世界にもある不可避的現象だ。純潔を愛する子供の感覚と、社会生活を営むために案出された大人の工夫との対立。子供にとって、夢を阻み、これを圧殺する力が強ければ強いほど、それを粉砕しようとする反撥力は激化してゆくだろう。主人公ホールデンの言葉や行動が誇張にみちて偽悪的なまでにどぎついのは、大人が善とし美としている因襲道徳や、いわゆる公序良俗なるものの欺瞞性を何とかしてあばこうとする彼の激情の所産である。仮面が身についた大人の常識からすれば、たしかに正気の沙汰とは思えぬ所業であり、ひんしゅくすべき野卑な言葉をまきちらす要注意人物かもしれない。そういう観点からこの作品を禁書目録にのせた学校も地方当局もあったし、逆にまた、心理学その他の教材に使用している教師も少なくないと聞く。しかし、「幸運を祈るよ」と歴史のスペンサー先生に言われて、反射的に嫌悪を感じ、自分ならばそんなことは絶対に言わないだろうと思うホールデンの感覚は、たとえば、葉書などに「ご多幸を祈る」と書くことに抵抗を感じたことのある日本人ならば、容易に理解することができるはずだ。祈りもしないのに祈ると言い、祈る対象すら持たぬ人間が祈ると書く──その無神経、そのインチキさ。更には「幸運とは何か」、相手の「幸運を祈る」とは具体的にどういうことか、それを考えもしないで安易に口にする無責任さ。これがもし、相手を罵倒するなり、揶揄するなり、相手にマイナスを与えるような、従って自分もそのため不利になるような場合なら、あるいは許容されるかもしれない。しかし、相手にプラスを与える性質の言葉を、自分の真意以上の効果を孕ませて口にするのはいやらしい。ホールデンの反撥の基本的なものはここにある。だから、この感覚、この反撥が理解できれば、この小説は一挙にわかるはずだ。
(訳者解説、p.336)
「厨二病」とか「アタオカ」とかで片付けることのできないセンスオブイノセンス、それが、世界中の人々が営々と本作に惹かれ続ける魅力の源泉にあるものであろう。