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本と音楽とねこと

おひとりさまの最期

上野千鶴子,2019,おひとりさまの最期,朝日新聞出版.(5.29.24)

 「2022(令和4)年 国民生活基礎調査の概況」(厚労省)によれば、65歳以上の者のいる世帯は2747万4千世帯(全世帯の50.6%)、うち、「夫婦のみの世帯」が882万1千世帯(65歳以上の者のいる世帯の32.1%)で最も多く、次いで「単独世帯」が873万世帯(同31.8%)、「親と未婚の子のみの世帯」が551万4千世帯(同20.1%)となっている。

 未婚化、非婚化により、「単独世帯」はこれからも漸増していく。
 また、「夫婦のみの世帯」についても、配偶者(多くは夫)が亡くなれば、「単独世帯」に移行する。

 こうした動向に先駆けて、上野さんが、17年前に、『おひとりさまの老後』を世に問うたのは、まこと慧眼と言うほかない。

 「おひとりさま三部作」の締めくくりとなる本書では、ずばり、おひとりさまの在宅ひとり死がテーマとなっている。

 なるほどなと思ったのが、「住み慣れた家で穏やかに死ぬ」には、子ども家族と同居しているより、おひとりさまでいる方が有利であるという点だ。

 それでは家族のいないおひとりさまはどうしたらよいのでしょう?
 調査を通じて浮かび上がってきたのは、家族が利害の当事者であること、したがって本人の意向に対して家族が抵抗勢力になったり、阻害要因になったりする事実です。家族がほんとうに「本人のため」を思っているかどうかは、あやしいものです。家にいたい年寄りと家から出て行ってもらいたい家族の利害とは直接対立しますし、自分の介護費用のために自宅を売りたい親と、その家の相続をあてにしている子どもとも、利害が対立するでしょう。現場のケアマネさんたちは、「利用者」といいながらどちらのニーズを優先すればよいのか、しばしばディレンマを味わっています。
 それならいっそ家族のいないほうが、とすら思えます。「在宅ひとり死」のための条件は何ですか?とお尋ねしたときの、ある専門職のお答えは明快でした。「そうですね、周囲から邪魔の入らないひとだとやりやすいです」と。
 親族縁者がたくさんいて、利害が錯綜し、ノイズが多い場合には合意形成がむずかしい、とのこと。そんなところでは死にゆくひとのかそけき声は、かき消されてしまいそうです。
(p.238)

 在宅ひとり死を考えるにつけ、死に方は家族関係しだい、という思いを深くしました。「在宅ひとり死の条件は何ですか?」とお聞きすると、「ノーを言う家族がいないこと」「外野のノイズが少ないこと」という答が返ってくることがあります。
 それならおひとりさまの在宅死はシンプル。少し前までは、在宅看取りの条件は「家族がいること」だったのが、反対に「家族がいないこと」が在宅看取りを可能にする条件になりそうなのですから、世の中の変化の速さにはつくづく感慨を覚えます。
 同居家族がいるばかりに家にいられず、別居家族がいてもやはり家にいられない・・・・・・お年寄りを家から病院や施設に送り出すのはほとんどが家族の意思でした。介護保険の処遇困難事例では、「いっそ世帯分離をしてくれたらねえ」・・・・・・もっと介入がしやすいのに、というケアマネの嘆きを聞きます。それなら最初からおひとりさまのほうが、ずっとましかも。
 こんなふうに言うと、ただちに返ってきそうな反応は、「おひとりさま」の上野は家族破壊者だ、という譴責の声です。いえいえ、とんでもない、おひとりさまが増えたのは、わたしのせいではありませんし、もし家族が壊れているとしたらとっくに壊れていたので、こちらもわたしのせいではありません。わたしにそんな影響力があるなどとは、滅相もない。家族が壊れていると率直に指摘すると、それを聞きたくないひとたちが、「ふつごうな真実」を口にする相手に責任を転嫁してしまうのでしょう。
 介護の研究をしていると、家族ってなんだろう・・・・・・とつくづく考えこむことが多くなります。言い換えれば、そのくらい、日本では老後は家族で、ということが自明視されてきたということでもあるのですが、その家族が急速に変貌してしまったという事実に目を向けたくないだけでなく、現実の変化に制度や意識が追いついていないのでしょう。「家族に頼まれて」としぶしぶ施設入居を受け容れたお年寄りや、親に介護保険を使わせないで自分の分だけコンビニ弁当を買ってくるパラサイトの息子、反対に認知症の親から目が離せないと仕事をやめて同居を選んだ息子や娘、はては夫の実家に義父母の介護のために「単身赴任」している長男の妻などなどの事例を見聞きすると、親は子のために、子は親のためにどこまで自己犠牲しなければならないのだろうか、と思うだけでなく、反対に、親子の愛ってエゴイズムの前にはこんなにもろく壊れてしまうのだなと思うこともしばしばです。
(pp.255-256)

 高齢者の多くが、病院や施設ではなく、住み慣れた家で暮らし、死にたいと願っている。
 また、高齢者の在宅生活と在宅ひとり死を実現した方が、医療と介護のコストは低く抑えることができる。
 高齢者の願望と国の社会保障費抑制の思惑が一致している以上、在宅福祉、在宅訪問医療、在宅看取りの推進は、待ったなしと言える状況だ。

 高齢者、とくに要介護高齢者の地域生活と在宅ひとり死を可能にするには、上野さんの言う「トータル・ライフ・マネジメント」が必要だ。

(p.248)

 「地域包括ケア」という「絵に描いた餅」に終わりがちな官製スローガンよりも、こうした具体的な多職種の連携を提示するモデルの方が、はるかに有益だ。

 地域包括支援センターや市区町村社会福祉協議会が、ひとりひとりの要介護高齢者について、「トータル・ライフ・マネジメント」のエコマップ作成を支援していくことが必要だろう。

 現時点では、そうしたエコマップを用意できないまま、不安で不自由な生活をおくっている要介護高齢者が多いわけだが、いまある民間サービスを積極利用していく手がある。

 福岡都市圏では、以下の民間事業者がサービスを展開している。

おひとりさま信託(三井住友信託銀行)

えにしの会

想いコーポレーショングループ

シニアライフ相談サロン「めーぷる」

終活パートナー九州

 家族は、高齢おひとりさまの在宅ひとり死を阻害するだけではなく、地域生活を持続するためのケアにも不向きなのかもしれない。

 高橋医師の経験知とよく似た発見を、高次脳機能障害のピアサポート(当事者同士の自助グループ)に関わっている友人の言語聴覚士、中塚圭子さんから教わりました。中塚さんによれば、家族にもリハビリの専門職にもできないコミュニケーションの回復が、ピアサポートには可能だとか。重度の高次脳機能障害を持ち、常同行動しかくりかえさず、発話もしなかった男性が、ピアサポートの集まりに通ううちに、周囲とのコミュニケーションと自己表現とを回復していった感動的な事例を教えてもらいました。中塚さんによれば、その理由は、家族や専門職とちがって、ピアは評価と判定をしないからだそう。障害を持つ前の状態を知っている家族は、「どうしてこんなこともできないの」と苛立ち、哀しみます。リハビリ専門職は目標を掲げてそれに到達するようにと指導し、励まします。たとえ愛情や善意からとはいえ、障害を持ったひとにとっては、どちらもありのままの自分の現実を否定されることと同じです。日々目の前の相手から、自分の現状を否定されつづけたら、そりゃ気も滅入るし、怒りの感情も湧くことでしょう。
 もしかしたら、ケアとは「家族には向かない仕事」なのかもしれません。第三者だからこそ、目の前にいる老人をありのままに受け容れることができる、のかも。
(p.234)

 福祉の「脱家族化」と「再家族化」のどちらが高齢おひとりさまにとって益あるのか、自ずと明らかであるだろう。

同世代の友人の死を経験した著者が「いよいよ次は自分の番だ」という当事者感覚をもって、医療・看護・介護の現場を取材して20年。孤独死ではない、人に支えられた「在宅ひとり死」は可能なのか。取材の成果を惜しみなく大公開。超高齢社会の必読書。

目次
み~んなおひとりさま時代の到来
死の臨床の常識が変わった
在宅死への誘導?
高齢者は住宅弱者か?
在宅ホスピスの実践
在宅死の条件
在宅ひとり死の抵抗勢力
在宅ひとり死の現場から
ホームホスピスの試み
看取り士の役目
看取りをマネージメントする
認知症になっても最期まで在宅で
意思決定を誰にゆだねるか?
離れている家族はどうすればよいのか?
死の自己決定は可能か?
死にゆくひとはさみしいか?


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