中村うさぎ,2015,他者という病,新潮社.(10.12.24)
死に損なった以上、最後まで戦ってやる! 全身全霊をかけた女王様の壮絶体験記。死の淵から三度の生還を果たした女王様を待っていたのは、薬の副作用による人格変容の恐怖だった――。レギュラー番組降板の内幕、これ以上ないほど考えた生と死、そして他者の目を気にし続ける自分について。?のない言葉で自分も相手も丸裸にする「うさぎ節」が炸裂! 笑って読めて身に沁みる、比類なきドキュメント。
難病による一度の心肺停止と二度の呼吸停止、薬の副作用による人格変容、仕事上のトラブル、鬱症状の悪化、自殺未遂等々を経験するなかで、中村さんの自他に向かう攻撃性は鋭角化、強化されていく。
堂々めぐりの自問自答が延々と続く。
「絶対無」の端境にある「絶対有」の世界に、わたしたちは生きている。
しょせん「絶対無」に帰すのだから、この世の生に意味や意義はない。
それでも、人生に意味を求めてしまう、人間のこの悲しさよ。
このように、死が絶対的な「無」であるなら、生は絶対的な「有」だということになる。その「有」には、ありとあらゆる感覚や感情が含まれる。喜びや楽しみ、陶酔といったものから、痛みや苦しみ、懊悩といったネガティヴなものまでの、すべてが。
そうなると、「無」は「有」よりも幸福であり、苦界からの救済とすら言えるのではあるまいか?生きることはそれなりに楽しいものだが、その分、苦しいものでもあるからだ。人が無痛無感覚無感情であったなら、生きることはどんなにラクだろうか。そんな生は味気ないという意見もあろうが、おそらく無感覚の世界においては「味気ない」などという感慨さえ存在しないのである。虚しくもなければ絶望もない大いなる無限の闇。その場所とそが我々の最終的に辿り着く彼岸なのだとしたら、蓮の花や天使の歌声なんぞを夢見ている者たちはなんとおめでたいのであろうか。
我々は「絶対無」から生まれいで、死して「絶対無」に戻る。そこには何の目的もないし、意味もない。ただ、この始まりの絶対無と終わりの絶対無の間にある「生」と呼ばれる「絶対有」の時間だけには、「自意識」という厄介な重荷を抱えて「生きる意味」なんぞを問うてしまう苦行の日々があるのだ。
その「絶対有」の時間の間、我々は人を愛しては憎み、快感に打ち震えては苦悶にのたうちまわり、ありとある経験をする。そこは言うなれば天国と地獄が共存する場所であり、我々を精神的にも肉体的にも成長させてくれるが、その成長とていつかは「絶対無」に吸い込まれて終わる。
あらゆる生き物の中で唯一、人間だけが「自分はいつか死ぬ」ことを知っている。犬や猫にも「生死」の概念はあるだろうが、未来に待ち構える己の死を予想する能力はない。だから人間のように不老不死に憧れることもなければ、死してなお魂となって永遠に存続するという夢を見ることもないのだ。ある意味、彼らは「絶対無」の中に生きている。むろん彼らとて発情したり子を慈しんだり、怒ったり脅えたりといった感情体験はあるのだが、そこに何らかの意味を求めることもないし、希望や絶望を感じることもない。彼らは淡々と生き、淡々と死んでいく。それは「絶対無」に生きるものならではの幸福とは言えまいか。
(pp.62-63)
私たちがこの世に生まれてきたことには何の意味もない。たまたま結合した卵子と精子が私たちになっただけで、そこには何者の意思も働いてないし、あらかじめ定められた運命や使命もない。ただ、私たちにできることは、この無意味な人生に自分で意味を付加していくことだ。「生きる」とは、おそらくそういうことなんだ。自分の人生に、何らかの意味を持たせていく作業なんだ。
この考え方は、今も変わっていない。むしろ、「死」の後に続くあの絶対的な「無」を目の当たりにして、ますます確信を深めた感がある。我々の生まれてきたことには何の意味もない。我々の人生は、本質的に無意味である。ただ、我々は「意味」がなくては耐えられない生き物であるから、己の人生に何らかの意味を持たせようと必死で努力する。それが「生きる」ということであり、それゆえに人間の「生」は光り輝くのだ。意味など付加しようとしなければ、人生はもっとラクなものになるかもしれない。流されるままに生きて何も考えず、過去を悔やむこともなければ明日を憂えることもなく、ただただ一瞬一瞬を精一杯に生きる犬猫のほうが、人間よりもずっと幸福であるかもしれない。
しかし人間は、己が無意味な存在であるという自己認識に耐えられない。それは、人間が「自意識」という厄介な荷物を背負っているからだ。自分に、そして他者に承認されなければ、己の存在そのものが「無」になってしまう。あってもなくても構わない、透明な存在になってしまうのだ。我々は、それが怖くて仕方ない。「無」というものは、我々にとって恐ろしい概念なのである。
そこで我々は、己の人生に少しでも意味を持たせるべく、あれこれと悪あがきをする羽目になる。そのせいで我々の人生は苦悩や痛みや欠落感に縁どられるのであるが、同時に、めくるめくような自己陶酔や達成感に満たされる瞬間もあって、それが我々の「生」を色彩豊かに彩るのだ。
(pp.83-84)
「自分探し」とは、自己を必要としてくれる他者を探し出すことでもある。
でも、それでも構わない。私のような人間ですら誰かの役に立てるのだ、と思えるから。世間ではこういうのを「割れ鍋に綴じ蓋」と言うのだろうが、お互いに欠陥品である人間同士だからこそ深い絆を築くことができるのだとしたら、それはそれで結構なことではないか。たとえそれが「共依存」の一形態であるとしても、だ。
いつか自分が何者でもなくなってしまうことを薄々知っているからこそ、我々は生きている間に「私」の痕跡を残そうとし、そのために他者を必要とする。誰かに承認されることで己の存在価値を確認し、自分もまた相手のために生きていきたいと願う。私にとって「生きる」ということは、自分探しの旅であると同時に、承認者となってくれる他者探しの旅でもあったのかもしれない。
自分を探すということは、他者を探すということなのだ、何故なら我々は他者の存在なくして自己を確認することのできない生き物だから・・・・・・この言葉を胸に刻んで、私は残された「生」を生きていく。いつかまた、あの「絶対無」に吸い込まれて消え失せる日が来るまで、私は他者を探し続ける。
(p.89)
女性は、男の性的欲望の客体となることに恐怖と苦痛を感じるが、それが同時にナルシシズムを充たすこともあるだけに、そのアンビバレンスに「女をこじらせる」。
私は自分を「私」という主体として捉え、その「私」は「人間」であり「女」であると当たり前のように考えていたのだが、そもそも「人間」であり「女」であることの定義は何なのか。
特に「女」という性別に生まれてきたことで、自分が「欲望する主体」であると同時に「欲望される客体」であり、そこに快と不快の両方が混在するアンビバレントな存在であるという認識を持ったのである。
男から一方的に性的欲望の標的とされるのは、私の心に支配への恐怖や反発を生じさせる。若い頃、夜道を見知らぬ男に付け回されたり電車の中で痴漢に遭ったりするたびに、私は自分が常に男から性的な視線で見られており、しかも彼らは私の意思とは関係なくその欲望のはけ口として私の身体を使うつもりなのだと感じた。それはまるで自分が人間ではなく物のように扱われているかのような屈辱感と、彼らに力ずくで欲望の餌食にされるのではないかという恐怖感を、私にもたらしたのだった。
が、その不快さの一方で、私は男たちに求められることにナルシスティックな快感を覚えることもあった。年を取って男たちに相手にされなくなってくると、自分の価値が暴落したような気分になった。それは決して私の「人間的価値」の暴落ではなく、あくまで「性的価値」の問題に過ぎないこともわかっていたが、しかし女の場合、「性的価値」は「商品価値」と密接に結びついているため、まるで自分が価値のない商品に成り下がったかのような悲哀を味わったのだ。
男たちに「性的道具」のような「物」扱いされることに怒りを感じながらも、自分の価値を「商品価値」と捉えて「物」扱いしてしまう・・・・・・その矛盾が、理屈で解消されるものならまだしも、生理的な「快・不快」感と結びついているため、よけいに始末に負えない。どんなに理性が「こんなものは根拠薄弱で非論理的な感情だ」と結論づけたところで、やっぱり心は傷ついてしまうのだ。それが人間というものではないか。
(pp.169-170)
他者のまなざしにさらされ、そのまなざしのありようによって、意気消沈したり有頂天になったりと、わたしたちは始終「自意識」に振り回されている。
おそらく「自我の私」であったなら、そのような苦しみは味わわなかっただろう。「孤独」も「自分の価値」も、他者との比較や承認から生じる相対的な概念である。他者を通して自己を確認するから、他者から拒絶されることが自分の存在まで脅かすのだ。自己の存在の絶対性を疑いもしない「自我の私」は、仕事を失って経済的な不安を感じることはあっても、それを己の存在意義の問題として捉えまい。
そうやって考えると、我々の苦しみの原因は、ほぼ「自意識」に起因しているように思える。我々は「自意識」を持つべきではなかったのか。エデンの園で幸福に暮らしていたイヴに蛇が勧めた「知恵の実」は、やはり禁断の木の実であったのか。「自意識」を持つことで我々は他者の目に裁かれ続け、他者に見捨てられる不安に怯え、大きな苦しみを背負うこととなった。だから聖書はそれを「原罪」と呼んだのか。「自意識」は「罪」であったのか。
犬や猫は鏡に映った自分の姿を「私」だと認識しない。鳥にいたっては、鏡の中の自分に向かって求愛のダンスを踊るらしい。彼らには己を客体視する能力がない。彼らにとっての「私」は、ほぼ百%「自我の私」である。
彼らは幸せなのだろうか。他者にとっての客体ではなく、「私」という主体としてのみ生きていくことは、どんな苦しみも生じさせないのだろうか。
いや、待て。「苦しみがない」ことを「幸せ」と考えていいのだろうか?苦しみは確かに幸福感とは程遠いものではあるが、我々は「甘美な苦しみ」というものも知っているではないか。恋愛に傷つき苦しむのは人間だけであろうが、我々はその苦しみの中にさえ甘やかな陶酔を覚える。ましてや、その苦しい恋愛がようやく実った時の感動や達成感ときたら、ただ発情してセックスするだけの動物たちとは桁違いの快感である。
我々は他の動物たちの何倍もの苦しみを味わい、何倍もの喜びや快楽を獲得する。これを「幸福」とは呼べまいか?
まあ、どちらが幸福かなどという問い自体、無意味なのかもしれない。我々はもはや引き返せない。他者の中で己を形作る「客体としての私」が、「私」の大半を占めている以上、我々は自意識の地獄から抜け出すことができないのだ。
(pp.187-188)
わたしたちが「自意識地獄」から距離をおくことができるのは、「自分は自分だ」という同一性を肯定できるかどうか、そこにかかっている。
諸君、このナルシシズムこそが、我々の病である。
そして、このナルシシズムを裏側にべったりと貼りつかせた過剰なる自意識が、我々の罪なのだ。
ナルシシズムという病と、自意識過剰という罪。
この両者が「私」を形作っている限り、我々は常に他者を求め、他者に期待し、他者の承認を欲しがり続ける。
そして他者に拒絶されたり否定されたりするといたく傷つき、相手に激しい怒りや憎悪をぶつけるのだ。
そういう経験を私は幾度となく繰り返してきたし、そういう人々を嫌というほど見てきた。
この地獄から抜け出すには、他者の評価に振り回されない確固たる自我を形成するしかないが、本文にも書いたように、我々は自我のみでは生きられない。
他者をまったく視界から排除できるような人間は「社会性」を失い、この高度に社会化された世界では生きていけないからだ。
我々は自意識地獄の中で生きながら、ナルシシズムを基盤とした脆弱な「私」ではなく、まっとうな自己愛に裏打ちされたしなやかな「私」を育てるべきなのである。
他者との軋轢や抑圧によって無理やり曲げられても、決して折れることなく再びぴんと立ち上がることのできる「私」だ。
それは「客体である私」と同時に「主体としての私」・・・・・・すなわち「自意識」と「自我」の両方をバランスよく兼ね備えた「私」である。
(pp.192-193)
中村さんの思考は怖ろしく深い。
その思考は、無意識のうちに自らを苦しめてきたものの正体を見極めるうえでも有用だ。
目次
第1章 あのまま死んでいればよかった
第2章 夫との絆
第3章 私が私でなくなっていく
第4章 健康という罠
第5章 私の中の別人
第6章 三つめの死―MXTV降板騒動の顛末
第7章 断絶の壁を越えて
第8章 私は「私」を諦めない
第9章 そのとき、言葉は私の「神」となる