広岡達朗氏 最近は遊撃手で素晴らしいと思える選手がいない
1950年代の読売巨人軍を支えた大型二遊間は、
早稲田大学出身のスターとして入団した広岡達朗氏と土屋正孝氏だった。
広岡氏は華麗な守備で新人王を獲得、阪神の吉田義男氏と
ナンバー1遊撃手の座を争った。最近は上手な二遊間がいなくなったと嘆く広岡氏が、
素晴らしいと思える遊撃手について語った。
* * *
それにしても最近は遊撃手で素晴らしいと思える選手がいない。
人工芝の弊害なのか、遊撃手がゴロを下がって捕る。
我々の時代ではありえなかったことです。二塁手がそれに輪をかけたように下手。
盗塁で捕手からの送球がワンバウンドすると簡単に後方に逸らす。
まだプロらしいプレーができていた中日の荒木雅博は足が衰えた。
ヤクルトの宮本慎也は“名手”と呼ばれたけど、どのような体勢で捕球しても
上から送球しようとした。上、下、横と、どこからでも投げられてこそプロです。
それでも宮本や荒木は確実性からいえば上手な部類でしたがね。
そもそも、なぜ盗塁が成功するのか不思議でしょうがない。
時計で測れば、走者よりもバッテリーが優利なはずです。
投手はクイックモーションが下手だし、ランナーが大きくリードしているにもかかわらず
牽制で刺せない。さらにいえば二塁手と遊撃手が二塁ベースへの入り方が
わかっていない。ユニフォームや帽子を触ってどっちがベースカバーに入るかやっている。
わざわざサインを決めなくても投手がアウトコースとインコースのどっちに投げるかで、
ベースカバーに入る選手は自動的に決まる。これが基本ですよ。
もっと先輩の映像を見て守備を勉強しなさいと言いたいですね。
週刊ポスト 2015年4月10日号 2015.04.01 16:00
727 名前:ナナシマさん[sage] 投稿日:02/10/28 22:00 ID:???
思えば根本管理部長という人間は大した人物だった。
あのオーナーと現場の両方をうまく渉りあったのだから。
通常の神経なら半年も持たない。
堤も、言うことを聞いたり聞いたふりをしたりする根本を煙たがっていたが、
結果(優勝)を出し続けたので、露骨な現場介入はできなかった(それでも姑息な
間接介入をしていたが)。
広岡にとっては、現場の意見を100%聞いてくれない根本に業を煮やし、
堤に直訴して根本を追い落とし、自分がゼネラルマネージャーになることを画策したが、
意外にも堤は広岡を切った。これには広岡も驚いたが、堤は堤で全く別のことを考えていた。
名前:727[sage] 投稿日:02/10/28 22:33 ID:???
広岡を切れば、来季の優勝は難しくなるので、そうなれば根本に責任を取らせ首を切って、
自分の言いなりになる人物を据えようと、堤は思っていた。
ここで、当時の堤と広岡との「辞任会見」を思い出して欲しい。
広岡の辞任理由はなんと「痛風が痛んだため」という仰天するものだった。
古今、数多くの監督が退任してきたが「痛風」を理由にした監督などそれこそ前代未聞。
その「痛風」が何を意味するか、堤にはよく分かっていた。
しかし、堤の陰険なやり方を「痛風」と表現した広岡もなかなかのものだ。
堤はそれを聞き「痛風が痛むというのは、痛む理由があったからだろう」と彼独特の皮肉
で返した。おそらくはらわたは煮えくり返っていたろう。
辞任会見後、側近に当り散らし、会見設定でちょっとしたミスをした社員を即刻首にしている。
かつての大物オーナー・大正力を敬愛していた広岡は、物事をずばりという正力と比較して
陰で陰謀を画策する堤は許せなかった。堤と縁を切っても球界で生きていけるだけの自信が
彼にはあったので、あの皮肉が言えたのである。
しかし、いかに広岡といえどもマスコミに対して直接的な表現での堤批判は出来なかった。
あの「痛風辞任」が彼の出来る範囲での抵抗であった。
「痛風」のなんたるかを感づいているマスコミ記者も、いることはいたが、むろん真実は
書けるわけがない。せいぜい広岡・根本の確執劇としてお茶を濁すのが精一杯だった。
名前:727[sage] 投稿日:02/10/29 11:44 ID:???
広岡は堤を暗に「痛風」にたとえてマスコミの前で堂々と批判した。
それは同時に西武グループとの決別も意味していた。
しかしのちに広岡はこのことを大いに後悔することになる。
彼が強く望んでいたのは、実は巨人の監督の座である。
選手時代、あの有名な「長嶋ホームスチール事件」がきっかけで
川上監督を始め首脳陣批判をしたばっかりに、石もて追われた球団。
できれば古巣巨人の栄光の監督の座にどうしてもつきたい。
そしてあのとき俺を追い落とした奴らを見返してやりたい。
そしてそのチャンスが巡って来た。
王が監督を解任される昭和63年、シーズン終盤のことである。
名前:727[sage] 投稿日:02/10/29 12:13 ID:???
昭和63年のシーズンも終盤にさしかかり、巨人の優勝はすでに絶望となっていた。
王に見切りをつけた巨人フロントは、次の監督候補の検討に入っていた。
このことは極秘裏に進められた。
最終的に名前が残ったのは藤田と広岡である。
そして二度目の藤田よりも西武を常勝チームに育てた広岡の方を推す声の方が、
フロントには実は多かったのである。
そして、フロントは内々に広岡に来季の監督就任を打診してみた。
広岡にとっては、これを逃せば二度とはないチャンス。
本心では二つ返事で引き受けるところだが、彼にはひっかる点がひとつあった。
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